最後の今日は平野啓一郎さんです。
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「〈共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要〉
かわいそうかどうかという共感の次元で捉えてしまってい(てはいけない)
すべての人の基本的人権を尊重するという大前提(がなければならない)
人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクションといえばフィクションですけど、
それをたくましい努力で守り抜こうとする思想は、偉大です」
「〈社会の分断と対立の始まり〉
(インドのノーベル賞受賞者の経済学者アマルティア・センは)個人を一つのアイデンティティに
縛りつけてしまうことがすべての社会の分断と対立の始まりだと分析…
センは、実際には人間は複雑な要素の集合体ともいう…
対立点からではなく、接点からコミュニケーションを始める(ことが大切)
(センと共通する平野啓一郎さんの「分人」という見方、考え方)
分人の集合として自分を捉える
自分というのはあくまで分けられない一つの存在で、私は私だというふうに考えると、
非常に辛い目に遭った時、それが自分の全体に対する否定的な感情に簡単に結びついてしまう。…
ところが自分を分けて捉えると、会社にいる時の自分というふうに「相対化」できる
(つまり「多くの「依存先」を持つことにつながる」)」

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〈共感や同情ではなく、人権を権利の問題として捉える教育が必要〉
本人にまったく非のない、責任のかけらもないことで、罪に問われたり(冤罪)
事件や事故にまき込まれ、最悪の場合は亡くなり、たとえ命は助かっても重度の
障害が遺ったり、トラウマになったり…。
そんなニュースを聞いたぶんにはやり切れなくなる。
神や仏と関係ないこと分かってはいても、多くの人たちと同じように私も先ずは
どうしても「かわいそう」と「共感や同情」し、同時に加害者への怒りがわく。
(私だけではないと思うが何百万、何千万の大金をだまし取られたという話には同情しない)
怒りだけで終わってしまってはいけないということ。
(それはわかるけれども、こうも「かわいそう…」と感じるニュースが洪水のように多いと、
それに情報が発達した現代では知りたくなくても知ってしまうことが多いので、
自分の感情受止めの容量は限度を超え、ついていけなくなる。
《「共感や同情」はともかくも》「怒りや憎しみ」の感情が湧いてきそうなときは、
その情報に耳をふさぐことがある)
「すべての人の基本的人権を尊重する」「人権を権利の問題として捉える」教育が
戦後ずっと80年近くもなされてきたはずなのにこのザマ。
「民主教育」の内容や方法が間違っていたのに違いない。
(小学生からの英語教育、コンピュータープログラムの作成などどうでもいいと私は思う。
大きくなって必要が生じれば自然と身につくだろうし《ニュースなどで見聞きする外国からの
「留学生」の日本語にうっとりする》、プログラムの仕組みがわからなくても、
「すべての人の基本的人権を尊重する」人間になることの方が絶対大事だと思う)
「人間には生まれながらにして権利があるという話は、フィクション
といえばフィクション…」
これまで私は、基本的人権というものを「天賦の人権」として天が賦与したもの
つまり自然なものとして見ていたけれど、権力者が権力のない者を自由にこき使う
奴隷時代のように、放っておけば朽ち果てるものだということに、この齢になって
あらためて深く意識した。
基本的人権とは人類が生み出した、創造した偉大なる「フィクション」「物語」
だから、宗教のように信じ、ひたすら「たくましい努力で守り抜こうとする」
姿勢、態度が大事なんだと痛感した。

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「人間は複雑な要素の集合体」「分人の集合として自分を捉える」
本当によくわかる。そうだと思った。
「自分は自分」とわかったようでわからないことをよく言うけれど、
誰も同じように、(ということは)客観的にその人を計測、判断、認識できる
機械のように、部品ごと、(ゴミのよう種類ごと)分別することは不可能だ。
しかし、「自分を分けて捉えると、会社にいる時の自分というふうに
「相対化」でき…「多くの「依存先」を持つこと」」は可能だ。
前の記事でも書いたけれど、人生はある意味で「依存」そのもの。
「自己責任」とエラそうに言っていても、人は決して一人で生きられるはずない。
「分人の集合として自分を捉える」と、自分はたくさんの人に支えられて
生きていることがわかり、「多くの「依存先」を持つこと」ができる。

ちるさくら 海あをければ 海へちる 高屋窓秋