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2025.4.4 ケアとセラピー…

 最後の今日は、④「ケアセラピー」、⑤「アジールアサイラム」です。

 

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④「ケアセラピー

ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、

セラピーでは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。

しっかり悩み、しっかり落ち込む

 

ケアとはそのときどきのニーズに応えることで、相手を傷つけないことです。

そうやって、彼らの依存を引き受けること…

ケアとは基本的に個体が変わるのではなく、環境が変わること

(つまり、「あなたはそのままでいいよ」と言えるようにその人の周りを変え、整えること。

言い方を換えれば「居場所」を用意すること)

セラピーとは傷つきに向き合うことである。

(つまり、その人の「ニーズを満たすこと」ではなく、そのニーズを変更すること」

(原則は)まずはケア、それからセラピー

セラピー自立を原理としています。…環境でなく、個人が変化(することを目指す)

 

⑤「アジールアサイラム 

(ネットによればどちらも「避難所」「聖域」などの意味を持つけれど、アサイラム」は

いる」が強制され、ときには「収容所」「刑務」を指すこともあるという

みんなから見られない場所アジールに駆け込めば、一瞬気が緩まる。

隠れ家アジールは僕らの「いる」を支える。…

いる」ために隠れ家を探す。アジールをつくり出

アサイラムにあっては「いるが強制される。刑務所はその典型…

アジールアサイラムでは同じことが行われている。

しかし、一方は「いる」を支え、他方は「いる」を強いる

アジールは罪人が逃げ込み庇護される場所で

アサイラムはその罪人を閉じ込めて管理しておく場所

デイケアは地域で生きる患者さんの居場所になり、アジールとなった。

だけど、それがふたたびアサイラムに頽落してしまうことがある。それがブラックデイケアだ。…

(「ブラックデイケア」の事業者、経営《運営》者は「どうせ次の人がやってくるのだから

と、簡単に職員を辞めさせる)僕ら職員のいる」を支える必要がない。「いる」が軽視され、

ケアする人がケアされない 

(そういうブラックデイケア」では利用者を篤くケアしようとする労働者《職員》の人権が

尊重されないので、当然、利用者に悪影響を及ぼす

著者がなぜ「アジールアサイラム」ということに言及したかといえば、資本主義社会において

市場のロジック」つまり「お金」の問題が根本的に絡んでくることは避けられず、

どれほど質の高いケアをしようとしても会計の声〉から逃れられないことに言及するため)

会計の声

会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的で、ケアの分は圧倒的に悪い。…

なぜならケアという親密な「依存」を原理としている営みは、「自立」した個人の集合体である

「市場」の外側にある…セラピー、逆に市場」の外側にある)

ブラックデイケア(においては)いる」が経済的収益性の観点から管理されてしまう。

いる」を支えることのコスパが計算され…ケアする人の「いる」は使い捨てにされてしまう。…

「ただ、いる、だけ」は「それでいいのか」と問う会計の声にさらされ… 傷ついてしまう」」

 

    


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 ④「ケアセラピー

 それぞれの働き、違いに納得した。

 

 大事なことは「まずはケア、それからセラピー

ケアの第一義的な大切さを強く感じた)

   

 災害や、いじめなどで酷く傷ついた人たちへの「カウンセリング」という名の

セラピーの現場を(間接的にであるけれど)ニュースなどで見るとき、担当者はただ

黙って被害(災)者の手や肩に自らの手を添えていることが多い。

 そうして被害(災)者の心が落ち着いてから、ゆっくり時間をかけて語りかける

(程度の差はあっても誰でも心が傷ついた経験があると思う。

その傷が癒やされるには、絶対、時間が要る。

そのとき傷の痛みを分かってくれる人が居てくれたら、時間は早まり、傷の癒え方もやさしい)

 

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アジールアサイラム

 こういう観点・視点からケア」を見たことはなかった。

 とても考えさせられた。

 

 広い意味でのケア」は、(ネット検索によれば)世話や配慮、気配り、手入れを

することだから、私は生きることそのものだと思った。

 生きるに当たっての前提、つまり誕生を考えてみると、私たちがこの世に

いる」こと(「生まれた」こと)は、自分の意志とは関係がない。

(「関係がない」ということは自分の責任ではあり得ないということ。

いる」という人間存在の根本からすれば「努力が足りない」「それは自己責任」などの非難は

まったく当たらない

 

 生まれたときや幼いとき、病気やケガしたとき、障害を負ったとき、

年老いたとき、何らかの「ケア」をされなければならない(ならなくなった)とき、

現代ではさまざまなケア」を受けられる。

(正確な表現をすれば「受けられる可能性がある」。しかし「可能性」はお金に担保される。

つまり、お金がなければならない。

でも時代が進んで資本主義社会もよくなり、お金があまりなくてもさまざまな「ケア」を受けられる

ようになった。

《私は突然意識を失って3mの高さの木からコンクリート地面に落ちたが、現代の救急医療のお蔭で

助かった。昔だったら確実に死んでいた》

 

進んでも、私たちの社会は「資本主義」。

同じ「資本主義」ではあってもケア」、福祉を重んじる国家もあれば、軽んじる国もある。

《この本は外国の事情は述べられていなかったが、日本は「軽んじる国」に違いない》)

 

     

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 〈会計の声〉(上の引用にはないけれど)会計監査文化」という言葉で

表わされていた。

 「費用対効果」という言葉がある。元手(資本)に対してどれだけの成果、結果

効果があるのかをよく考えて、それをするかしないか判断しなければならないと

いう。

 これも会計監査文化」の一つだろう。

(「会計」「費用」「お金」の使われ方の中身、質は重視されず量、いくらかかったが最重要視)

 

 「会計の声が持ち込む市場のロジックは、セラピーに好意的で、

ケアの分は圧倒的に悪い」というところ、

メリカではセラピーの需要が多いことを思った。

(それほど社会病理が蔓延している国、社会なんだろう。

あの人物が大統領になるくらいだから。供給も盛んでセラピストが多い。商売として成り立つ。

儲かるのだ。その「市場」の隆盛は「文化」とさえも呼べるものだと思う)

 

 

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                        ちりとてちん

さざなみの 上を刻(とき)過ぐ 春の鯉  廣瀬直人




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