今日は第二回目、続きです。
(②「こらだ」 ③依存労働)
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②「こらだ」
「こらだ」という言葉は精神科医中井久夫の造語で、「〈こころ〉と〈からだ〉」を
合わせたものを意味するという。
中井久夫さんによれば、「こらだ」の状態、つまり「〈こころ〉と〈からだ〉」が合体し、
「〈こころ〉と〈からだ〉」の見境がつかなくなると「おかしなことになる」という。
「調子が悪くなって、「おかしな」状態になるとき、心と体の境界線は焼け落ちる。
そのとき、心と体は「こらだ」になってしまう」という。
そして、「こらだが現われるとき、自分で自分をコントロールできなくなってしまう…
こらだは暴走する。…僕らは自分のことが自分じゃなくなったしまったと感じる。
こらだに振り回されてしまう」ことになってしまう。
ケンカなどで「我を忘れた」とき、感情的になり「いつもの自分とは違った自分になってしまいは
しないだろうか?それはあなたの心の、微妙で繊細で、そして野蛮な部分」が現われている。
つまり、「こらだが現われ」、「自分で自分をコントロールできなくなってしまう…こらだは暴走」
しているのだ。
〈こころ〉と〈からだ〉が合体する「こらだ」の状態は、一人落ち着いているとき、平穏なときは
起こり得ない。ケンカなどのように相手がいて強く緊張、興奮しているときに起きる。
自分の「こらだ」が相手、「(すなわち)他者のこらだを引き出す。その最たるものが性行為…
こらだとこらだは混じり合い、二人のあいだのプライバシーとか国境線を吹き飛ばしてしまう」
③依存労働
著者はエヴァ・フェダー・ キテイの言葉、「依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する
仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、
すなわちつながりをつくりだす」を引用して紹介し、
「依存労働は、まるで子どもを世話するお母さんの仕事」という。
そして、「キティは、そういう依存労働が専門家の仕事とはみなされにくいことを強調している」
「依存労働の仕事としてすぐ思い浮かぶのが、一人であらゆる仕事をすべてこなす形態であり、
仕事が合理化され、専門化されるようになると、依存労働とは認識されない傾向にある」と述べ、
「社会学では、母がしているような仕事を機能的に拡散した仕事、専門家がしているような仕事を
機能的に特化した仕事と呼ぶ」と述べる。
…
「そう、僕らにとって、依存は本質的な営みなのだ。
弱ったときに、誰かに頼る、ケアしてもらう。あるいは、弱った人のお世話をする、ケアをする。
それは僕らの本能だ」
…
再びエヴァ・フェダー キテイの言葉が引用・紹介される。
「ポスト産業時代において専門職が可視化されてきたのに比べ、現代社会の個人主義的性格は
特に依存労働を不可視化させている。…
高い報酬が与えられる専門職に対し、依存労働は、…賃金は非常に安い」
そして著者はいう。
「自立を良しとする社会では、依存していることそのものが見えにくくなってしまうから、
依存を満たす仕事の価値が低く見積もられてしまうのだ」
「そう、人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない」
「お母さんたちは大変なのだ。仕事が成功しているときほど、誰からも感謝されないからだ。
感謝されなければないほど、その仕事はうまくなされている」

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②「こらだ」
〈こころ〉と〈からだ〉の関係、つながりについて、いろいろいっぱい
いわれている。
〈こころ〉と〈からだ〉の関係についての、見方、とらえ方はいっぱいある
けれど、二つを合わせてみる見方は、私は初めて知った。
二つを対立的に捉えるのではなく、両方そろって、つまり「こらだ」として
捉えて始めてダイナミックな人間像が理解できるという。
人をそのように見やすくする、理解しやすくするために言葉を工夫し、
中井久夫さんは「こらだ」という言い方を創られた。
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「〈こころ〉と〈からだ〉」の見境がつかなくなると(つまり二つが合体すると)
「おかしなことになる」
すなわち、心と体は合わさって「こらだ」になってしまい、
「こらだが現われるとき、自分で自分をコントロールできなくなってしまう…
こらだは暴走する。…僕らは自分のことが自分じゃなくなったしまったと感じる。
こらだに振り回されてしまう」
(「頭《心》では分かってはいても、体がなぁ~」という状態はそうなのだろう。
「こらだが現われ」たときなのだろう。
ひどいケンカや性行為など具体的なことを想い考えると、自分を省みてホントそう思う。
ケンカがひどいものになると、つまり「こらだ」が大きいと、心も体も抑制が効かなくなり、
手が出たり、暴力を振るうということになる。
《結婚したての若いとき、一度だけ手を出したことがあってすごく後悔した》
生物はみんな種を残さなければならないから生殖活動が本能の行為としてプログラムされている。
ヒトの場合の生殖活動、行為をわざわざ「性行為」というのは、「こらだ」という形になってしまう
からだろうか。

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③依存労働
「依存労働は、まるで子どもを世話するお母さんの仕事」
「僕らにとって、依存は本質的な営み」
「自立を良しとする社会では、依存していることそのものが見えにくく…」
「人は本当に依存しているとき、自分が依存していることに気がつかない」
(ここでの「依存労働」とは「お母さんの仕事」みたいな、例えば育児や介護など子どもや老人を
丸ごと世話するようなものを指しているけれど、「依存」自体をを考えてみると
↓
前回の「居場所」で書いたように、「居場所」があるということは依存できていること。
生きること自体が「依存」であり、それは「本質的な営み」なのだ。
にもかかわらず、私たちの社会は「自立を良し」とするので、本当はいろいろないっぱいの「縁」に
支えられ、世話になっているのに、それが見えず感じられず、「私は自立している」「自分は一人で
しっかり生きている」と勘違いする。
そういうことを強く強く思った)

東大寺 空より春は 来たりけり 星野麥丘人