すばらしい本に出あった。
(ある程度の「当たり」をつけ借りるけど外れもよくある。パラパラめくるだけで返すのも多い)
『居るのはつらいよ-ケアとセラピーについての覚書』 東畑開人 著

(グーグル画像より)
著者は臨床心理(前々回の河合隼雄さんは大先輩)の仕事をしたくて、
臨床心理士になりたくて大学院までいって学んだ熱い人。
晴れて臨床心理士になったのはいいけれど、いざ就職となると非常に厳しく、
人並みに食えて生活できればいいということで、住んでいる東京を離れ、
はるばる沖縄の小さなデイケア施設で働くことにした熱い人。
(その「小さなデイケア施設」の利用者は、精神病棟に入院するほどではない程度の心の病を発症
軽い精神障害を負った人たち《「メンバーさん」と呼ばれる》。
著者の仕事の大半は同僚スタッフたちとともに利用者《メンバーさん》相手の活動《ケア》だけど
午後のある時間帯だけカウンセリング《セラピー》ができる)
本は副題の通り『ケアとセラピーについて覚書』、つまりメモみたいなもの。
「メンバーさん」との接触、触れ合いという現場での具体的実践、経験を通して
モンモンと悩み、考えたことを記したもの。
(また言いますが、ホントに面白く読め、感じ、考えさせられることがたくさんありました。
本の進行の順に従って紹介したいことを書きます。
今日は① 「いる」と「する」、 次回は②「こらだ」と③依存労働、
最後は④「ケアとセラピー」と⑤「アジールとアサイラム」の3回に分けて書きます)
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① 「いる」と「する」
「〈「いる」と「する」 とりあえず座っといてくれ〉
・ジュンコさんが求めていたのは、セラピーなんかじゃなくて、ケアだった。
(セラピーのように)心を掘り下げることではなく、
(ケアのように)心のまわりをしっかり固めて安定させてほしかったのだ。
…
「とりあえず座っている」とは、「一緒にいる」ということだったのだ。
そのとき初めて、僕はデイケアの凪の時間、魔の自由時間を居心地いいと感じた。
…
「いる」と「する」
・(「いる」ことは)当たり前すぎて、忘れちゃうけど、たしかに僕は職場にちゃんといられる。…
・(ふだんは)自分の「いる」を支えているもののことに気がつかない。
そんなことは当たり前だと思っている。…
だけど、デイケアにいると、それをとてもふしぎに感じてしまう。
だって、「いる」は簡単に失われてしまうものだからだ。
そういうときに、僕らは「居場所ってなんだろう」と考えはじめる。
「いる」が難しくなったとき、僕らは居場所を求める。
居場所って「居場所がない」ときに初めて気がつかれるものだ。
…
環境に身をあずけることができないときに、僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し
なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする。→「依存」
そういう依存は僕らがふだん意識せずにやっていることだ。
僕らは実のところ、誰かに身を委ねながら生活している。そしてそのことに気がつきもしない」

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(いちばん初めの「とりあえず座っといてくれ」とは、著者が初めてデイケア施設に勤め始めた日
スタッフリーダーから言われたこと)
「ジュンコさん(利用者 メンバーさん)が求めていたのはセラピーなんかじゃなくて
ケアだった」というのは、
さぁカウンセリング(セラピー)するぞ!心を病んでいるを人を救おう!と
張り切っていた著者に、目の前のクライアント、メンバーのジュンコさんの
反応は悪かった。
つまり、「(セラピーにより)心を掘り下げることではなく、
(ケアによって)心のまわりをしっかり固めて安定させてほしかったのだ」
ーーー
「いる」と「する」から最後までの引用は、「する」との対比で、
「いる(居る)」というふだんの生活のなかの行い(というか状態)が本質的に
どういうものなのかを考えさせてくれた。
↓
(ふだんの生活では「いる」というとき、「家に居る」「職場におる」というように、物理的・
客観的な自分の「居場所」を指し、「する」は、そこでの行動を指す。
だけども、そんなことを意識することは先ずない。
ふだんは物理的・客観的な自分の「居場所」は同時に心理的・主観的にも自分の「居場所」である
《と無意識的に思っているので、意識することもない》)
「(ふだんは)自分の「いる」を支えているもののことに気がつかない。
そんなことは当たり前だと思っている」から、
物理的・客観的な状態と心理的・主観的な状態が乖離しないと「気がつかない」
わからない。
「だって、「いる」は簡単に失われてしまうものだから」
本当にそうなのだと思う。
現代では家庭(家族関係)も職場(仕事)も簡単に崩壊する。
物理的・客観的な状態を「当たり前だと思ってい」てはいけないと思った。
(私の日課には手作りマイ仏壇での参拝があり、家族の健康と世界の平和を祈る。
そのとき同時に「当たり前」の日常を過ごしていることが奇跡的なことだと感じるようにする)

ーーー
「「いる」が難しくなったとき、僕らは居場所を求める。
居場所って「居場所がない」ときに初めて気がつかれる」
つくづく、このこともそうなのだと思った。
それまで「居場所」があったということは、「環境」という何かに安心して
「身をあずけること(「依存」)ができ」ていたけれど、できなくなった。
そんなとき「僕らは何かを「する」ことで、偽りの自己をつくり出し
なんとかそこに「いる」ことを可能にしようとする。生き延びようとする」
「依存」はよく「依存症」という病状として語られることが多いので、
否定的なニュアンスが強いけれど、よく考えてみれば人生そのものは
仏教のいう網の目(ネットワーク)「縁」で成り立っているといえ、
その「縁」を重んじる、大切にすることは、「依存」といえると思う。
「そういう依存は僕らがふだん意識せずにやっていること…
僕らは実のところ、誰かに身を委ねながら生活している。
そしてそのことに気がつきもしない」

一つだけ 突いて紙風船 渡す 後藤比奈夫