今日は残り⑤から⑦です。
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⑤
「〈風土と環世界〉
(著者は、和辻哲郎の「風土」という考え方はユスキュルのいう「環世界」《広義での「環境」》
というベルクの考えに強く同意し、生きものにはそれぞれ固有の「環世界」があり、彼らはそれを
精いっぱい生きているという事実を、常に意識して見なければならないという)
生きものそれぞれに…環世界があることを知らずに、人間の尺度だけで考えると問題が起きる…
「エコな暮らしをしましょう」などという面白みのない、スローガンばかりになってしまいます。
環境との関わりは本来「問題」として捉えるものではないでしょう。
もっと主体的に感じるもの(→「風土」)」
⑥
「遺伝子で日常の行動を説明しようとするにはあまり意味がありません。…
(遺伝子やDNAで)すべてがわかる」わけではない
説明できることがわかることなのではない」
⑦
「〈モデル生物を離れる〉
(「自然科学の研究にラットのような「モデル生物」を使うのは「「科学の王道」ではあるけれど
モデルという考え方には機械論の影がある」と著者はいい、著者が館長の「JT生命館」の研究で、
あるとき《日本列島の形成という研究》「身近な昆虫たちから」ということでオサムシを使った)
オサムシは地面をあるいているのだから生物学と列島形成(大陸から分かれ、日本列島が形成)
という地質学が結びついた…
学問の中で考えているうちに、地面とムシが一つになっている自然を見るという、
あたりまえの目をうしなっていたのです」

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⑤
「 生きものそれぞれにこのような環世界があることを知らずに、
人間の尺度だけで考えると問題が起きる」
すごく考えさせられた。
「環世界」の持つそれだけの「固有性」ということに焦点を合わせると、
「人間の尺度」で解釈し、良かれと思ってしたことが、その生きものにとっては
良くない場合があり、気をつけなければならないこと。
(このことは人間を見る、人に対するときも必要な態度だと思った。
「固有性」を環境ではなく人の内面に目を向ければ「個性」といえ、その人を見る目がない、
たとえあるとしても自分勝手、他人の気もちを深く考えることのない私は、「自分の尺度」では
良かれとしたことが相手を傷つけるという結果になってしまうことがよくある《ハッハッハと
自分のマヌケを笑うだけで済めばいいけど、泣かせてしまうことも…》
老いてもくり返すとは成長していないこと。学習能力が足りないのだろうか)
「「エコな暮らしをしましょう」などという面白みのない、スローガン」が
面白かった。
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⑥
現代は「ゲノム編集」技術により(人間を含め)生きものはすべて遺伝子次第
という風潮が生まれたけれど、
「遺伝子で日常の行動を説明しようとするには…意味がありません」
「説明できることがわかることなのではない」と著者はいう。
(遺伝子やDNAが究明されて生きものの生命がより理解されたのはよいことだけど、
人間が生きる上でいちばん大事なことは《上の紹介では引用しなかったが》続けて著者は述べる。
「生きることの面白さを実感」
また著者は「「わかる」とは」というしばらく後の文章で、
「自分の中で「生きている」ことの大切さや魅力を感じる日常感覚が、その小さな「知ること」
《ここでは遺伝子を「知ること」》によって刺激され豊かになっていくのが楽しいのです。
それが「わかる」という気持ち」だという。
またまた「人間は生きものであるということを基本に置き、…《生きることの》テーマは
「本当の賢さ」と「本当の幸せ」以外にはありません」とも述べられている)

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⑦
著者たちは「日本列島の形成」は、後に日本列島になる陸地が大陸と離れる
事実に目を向け、その陸地の移動という観点から、地面を這うのをよく見る昆虫
オサムシに気づき、「地面とムシが一つになっている自然を見るという、
あたりまえの目」を持つことができた。
考えれば簡単、あたりまえであっても、近代以降の科学の専門化、細分化の
成れの果ての(「学問の中で考えているうちに」)「象牙の塔」にはまり込み、
本当に大事なことが見えなくなっている。気づかないようにされている。
(著者は、「進歩と調和」ということで水俣病を述べる。
「海中の食物連鎖の上位にある魚介類を食す人間に水銀が濃縮される。
海を水として見て、生きものの場として見ない。
これが進歩を求めた科学技術の基本にある考え方でした」と)

何気なく 来て菜の花に 囲まれつつ 宮崎夕美