生きておればいろいろな思わぬこと、理不尽なことが起き、
「何で自分が…(家族が…)」と悩む。
(私も障害者になったとき、胃ガンになったとき、人並みに悩んだ。
悩みは少しでも減らしたい。
先ずは自分に起きた事実は事実としてきちんと受けとめる。つまり納得する。
次に、これからそういう身体で生きていかなければならないが、「どうしよう?」…
何か心の支えになることが書かれたものはないかと立ち寄った本屋さんで、
たまたま山積みされていたので手に取りやすかったということで、禅語の文庫本を見つけた。
パラパラめくっただけですごく気に入り、買った。
《それは偶然のことだったが、「偶然」ということでは障害を負った事実と同じ》
それ以降、その文庫本、禅語にどれほど励まされたことだろう)
考えてみれば、「禅語」という禅宗の心、生き方の載っている本に接しただけ。
大したことではない。
(でも長く生きておれば、「大したことではない」ことが、《あくまでも自分にとって》
「大したことになる」「大したことにする」ことがある。
結婚、仕事のような人生の「大したこと」、重大事も、考えてみればきっかけ、始まりは
小さな「偶然」でしかない。
そのことへの向き合い方でさまざまな可能性が生まれるのだろう)
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上の()のようなことを体験し、私は宗教に「目覚め」た。
いまでは、これから(これまでも何度も)紹介・引用するひろさちやさんに倣い、
私も自分のことを(ちょっとおこがましいけど)「仏教者」と名乗ろう。
『お経から人生を学ぼう』 ひろさちや・著

(グーグル画像より)
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本は、例えば「法華経」など有名なお経について述べられているのですが、
ここでは私の心にいちばん響いた以下の三つのお経からだけ紹介します。
「●阿含経
〈自分自身を燈明にせよ〉
いくら羅針盤が北を指していても、…その判断をするのが自分自身です。
われわれは法を燈明とする前に、まず自分自身を燈明とすべきです。
〈世間を捨てる〉
「自由」ということは、じつは自分に由るということです。
(阿含経は数ある仏経典の中で初期のもの。タイなど東南アジアの仏教国で
いちばん重んじられており、上座部《昔は「小乗」といった》仏教の基本経典。
「出世間」が大事なのでサンガを作って修行。
ちなみに「サンガ」とはネットによれば「仏教における出家修行者(比丘・比丘尼)の集団や、
仏教徒のコミュニティ全体を指す言葉」とのこと。
釈迦の言葉)「世間はわれと争うけれども、われは決して世間と争わない。」
「過去を追うな。未来を願うな。過去はすでに捨てられた。未来はまだやって来ない。
だから現在のことがらを、現在においてよく観察し、揺らぐことなく動ずることなく
よく見きわめて実践すべし。ただ今日なすべきことを熱心になせ。
誰か明日の死のあることを知らん」
(よく似ているイエスの言葉)「だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である」」
「●般若経
〈「苦」を実体視してはいけない〉
「四苦八苦」というのは、この世界に生きている人間存在そのものが「苦」であることを教えたもの
〈「空」の哲学〉
小乗仏教が「苦」を実体視し、出家というかたちで「苦」を克服しようとしたのに対して、
物事には実体なんてものはない、すべては「空」であるという哲学でもって、
わたしたちが直面しているさまざまな「苦」に対処しようとしたのです。
〈「分別智」と「無分別智」〉
「分別智」→分ける必要のないものをわざわざ二つに分けて、「どちらがいいか?」と判断する
「無分別智」=「空」→有と無を超越した考え方」
「●観音経
〈観音様の救いとは何か〉
その苦しみ・悲しみを苦しみ・悲しみのまま、しっかりと生きる力を与えてくださるのが観音様
「みんなが観音様」
喧嘩をするとき、観音様であるわたしが観音様である相手と喧嘩しているのだと思うことはできる…
怠け心が起きたとき、観音様が怠けるのだと思うことができるでしょう。
そのような自覚の上で喧嘩をし、怠けるのです。
あるいは、相手を観音様として拝みながら喧嘩をする。」

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この本では真面目に(硬い言葉で)述べられていたけれど、ここでこれまで紹介した
ひろさんの著作の多くはくだけた、ちょっとハチャメチャな言い方をされていた。
(もちろん仏教学術書という感じのもあるけれど、読者にとって仏教を身近な日常的な人生の中に
生かしてほしいという著者の願いが、意図してくだけた表現にさせてしまうのだろう)
〈自分自身を燈明にせよ〉
〈世間を捨てる〉
世間でもっともらしく「普通」だとか「常識」だとか「当然」だとか
いわれていても、安易にそれらに乗っかってはいけない。
合わせてはならない。世間にまどわされてはダメだ。
迷ったとき、最後は自分を信じよ、自分の信じた道を行け。
(その道が正しいとか間違っていると、人間が判断はできない《できるのは神仏、絶対者のみ。
とは言ってもそんな存在、信じるか否かの問題》。
但しこれだけは言えると私は思う。→人を殺すことは絶対、間違っている
人を殺すことさえなければ、いかなる人生もすばらしい)

〈「苦」を実体視してはいけない〉
〈「空」の哲学〉
〈「分別智」と「無分別智」〉
「苦」を滅するために修行し「悟り」の境地に至ろうと努力するのもいいけど、
「物事には実体なんてものはない、すべては「空」」と捉えれば、
もともと、「苦」という実体は存在しないことになる。
「苦」という実体のないものを、「苦」ではないという同じく実体のないものと
分けて比べる。
(分ける必要のないものをわざわざ二つに分けて、「どちらがいいか?」と判断する)
そういう「分別智」ではなく、「有と無を超越した考え方」の「無分別智」
「空」の生き方。
(そんな生き方ができたらどんなにいいだろう!
「〈自分自身を燈明にせよ〉の実践はできそうでも、「空」の境地はなれそうにない。
もう20年近くほぼ毎日、約5分ほど坐禅しているけど、雑念に襲われてばかり。
で、いまは姿勢の矯正と腹式呼吸の鍛錬と割り切った)

「みんなが観音様」
すばらしい!!!
「相手を観音様として拝みながら喧嘩」
「怠け心が起きたとき、観音様が怠けるのだと思う」
これならできる。
(これからは自分も他人も観音様だと思おう!
しかし、喧嘩はしない方がいいし、怠け心は起こさない方がいい。
けど、「観音様」を心に想い浮べるために、ときどき喧嘩したり怠惰になるのもいいかと思った)

寂しいは 寂しいです 春霰 飯島晴子