気に入った俳句を記事の終わりに載せている。
自分で作った時期もあったけど、納得のできるものが作れずいつのまにかやめた。
やめても俳句も短歌も好き。
18年前、長く入院していたときベッドで短歌をよく詠んだ。
自分の気持ちを五・七・五・七・七の言葉で表してみると、その自分を
もう一人の自分が見ている感じがし、何だかおもしかった。
(上手いとか下手とかはどうでもよかったので、巧拙にこだわることはあまりなかった。
『一握の砂』など啄木に惹かれていたので真似してみたわけだが、退院してからそのときの
わが「作品」を見ると、つまらながくてガッカリした。
床に就いていたときはただ作る、詠うこと自体に必死だったので、出来の良し悪しまで
気が回らなかったのだろう)
短歌の才能はないとわかり見切りはつけたけれど、嫌いになったわけではない。
短歌の三十一字もいいけれど、こんどは俳句の十七字に気が向いて、退院後は
そっちに転向した。
(が、《先に書いた通り、これもやめて久しい)
結局どっちもものにはならなず、創作はしないけれど味わう楽しみ、読者三昧に
徹することにした。
俳句、短歌の本を読むと、私の知らない人たちのステキな作品がいっぱいあり、
感動する。
(詩はどうだろうかとも思ったが、
詩は言葉へのこだわりが強く《それが感性豊かな詩人のそれぞれの個性を表し、読者の好みが
分れるのだろうか》、私の鈍感な感性ではついていけないもの、しかも長文が多く諦めた)
『俳句と人間』 長谷川 櫂 ・著

(「グーグル画像」より)
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全部おもしろかったけど、芭蕉の超有名な「古池や…」への著者の見方に
衝撃を受けるくらい感じたものがあり、それだけ紹介し、感想を書きます。
「非論理的な人間を何とか論理的に理解しようとするのが哲学だが、
論理一辺倒では矛盾や破綻や飛躍という人間のいちばんの妙味が抜け落ちてしまうだろう。…
この矛盾や破綻や飛躍を俳句では「切れ」と呼んでいる。
…
古池や 蛙飛こむ 水のおと 芭蕉
音を聞いて心に静かな古池の面影が浮かんだという句だった。
いいかえればこの句は蛙が水に飛び込む現実の音と古池という心の世界、
互いに次元の異なる二種類の言葉でできている。
ここで論理的には永遠にすれちがうしかない二つの世界(矛盾、破綻、飛躍!)を
何の無理もなく一句に収めているのが「古池や」の「や」がもたらす切れなのだ。
…
(著者は芭蕉の人生観の重要な一つを「かるみ」というが、その「かるみ」に立てば)
悲しみや苦しみに満ちた人生を、…害悪でしかない人間という存在を、
宇宙的な高みに立って俯瞰する」

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■ 「「古池や」の「や」がもたらす切れ」。
「古池という心の世界」と「蛙が水に飛び込む現実の音」を結びつけ、
その「や」が論理、理屈を超える。
五・七・五の、たった十七の文字が「悲しみや苦しみに満ちた人生を、…
人間という存在を、
宇宙的な高みに立って俯瞰する」
■ 「かるみ」。
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教科書に載るような芭蕉や蕪村たち、古い時代の人たちから、子規や虚子たち、
近代までしか私は知らず、「現代俳句」のようなおもしろいものがあることは、
それらに触れるまで知らなかった。
(新聞の短歌や俳句の投稿欄は知ってはいても、その気になって読んだことは一度もなかった。
そういえば俵万智という歌人の『サラダ記念日』はニュースになるほど世間を賑わしたので、
「現代短歌」があることは知っていた。ただ啄木好みの自分には合わないなあと感じた)
現代は、短歌もそうだろうけれど、俳句の世界もいろいろ、さまざまだ。
いちばん大事なのは受け手、つまり鑑賞者の感性でも、著者のような知識があれば
また違った味わい方が出来ておもしろいと感心した。
(ただ、創り手の芭蕉の思いは、著者のいう通りかどうかうわからないと思う。
上の引用で述べられていることは《私は深くうなずいたけれど》受け手、鑑賞者の味わい方では
違うと思う。
俳句・短歌に限らず、文学《広くは芸術》というのはみんなそういうものだろう)

芭蕉の旅、『おくのほそ道』は死を覚悟の旅だった。
芭蕉の生きた時代は現代のように「安心・安全」とはいかなかった。
人生観の重要な一つを「かるみ」とせざるを得なかったのだろう。
(享年50。 最後の句は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」)
時代は変われども、「かるみ」で生きたい。

顔中の 皺をあつめて 寒さいふ 大野林火