前に福島原発事故跡の観光化というアイデアを述べられていた東浩紀さん。
発想がとても面白いと思った。
(「チェルノブイリ原発事故跡観光ツァー」はすでに実施されている)
著者は本業の「ゲンロン」という会社の社長と、現代思想の批評や哲学の大学と
兼務しておられる。
『訂正可能性の哲学』
(「グーグル画像」より)
本の趣旨を一言でいえば、人は誰でも誤るので「誤ったら、間違ったら訂正、
やり直しすればいい」ということ。
(「訂正」《「改善」「改正」》したつもりでも、後になってから初めのほうが正しかった、
そもそもどっちが正しいのか誤っているのかさえよくわからないことがありますが、
一応その時点で「こうだ!」「こっちが正しい!」と気づいたら訂正し、やり直しすればいい)
いつもように感じたある部分の言葉や文章だけを紹介し、感想を書きます。
(①「家族と観光客」 ②「持続する公共性《民主主義》」 ③「人工知能民主主義」の
3回に分け、今日は①です)
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「〈家族と観光客〉
(初めに著者は「家族の構成原理」をいう)
①強制性 ②偶然性 ③拡張性
(赤ん坊として生まれて家族の一員となるわけだから、他の動物と同様、もともと強制性がある。
どんな親の下、どんな家に生まれるのかわからない《偶然性=「親ガチャ」》。
拡張性とは《縮小することを含め》変化するということ)
…
(次に「観光客」についていう)
友でも敵でもない第三の立場…
いままでの政治思想は、そのような「中途半端」な(立場の者の政治への)参加の意味について
あまり考えてこなかった…
(しかし)ぼくたちはどうせすべての問題に中途半端にしか関わることができないのだから、
まずはその限界をきちんと認め、そのうえで新たな社会思想を立ち上げなければならないのだ」

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「家族」はおいて、「観光客」だけについてのみ感じたことを書きます。
私は旅が好きなので、「観光客」になることが多い。
そのときは(「観光客」になったときは これまで一度も意識したことはなかったが)、
「友でも敵でもない第三の立場」になっているといういうこと、強く自覚した。
著者は強く説く。
自分をそういう立場において政治や経済、社会を見ることの必要、大切さを。
(私がいままで読んだ「政治思想」の本の中には「観光客」に触れたものなど一つもなかった)
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「観光客」の一般的な特性の一つは、その観光地という地域社会にとっては
「どうせすべての問題に中途半端にしか関わることができない」一時的な、
恣意的な、無責任ないい加減な存在といえるかもしれない。
(ある地域での常住生活とは違い旅は一過性なので、ひどい場合は「恥のかき捨て」さえできる)
しかし(万能の神を想定すれば別だけど)「観光客」でなくとも、どんな人間も
生きるなかで「すべての問題に中途半端にしか関わることができない」。
(これは著者の根本的な世界や人生の見方という気がする。
だから、チェルノブイリや福島原発跡の観光地化やツァーという発想が可能になるのかもしれない。
いいと思うこと、やりたいことは何でも《「すべての問題に中途半端にしか関わることが
できない」から》やり《挑戦》、誤りや間違いに気づいたらそのつど訂正、やり直しすればいい。
この前の記事にしりあがり寿さんの〈おらぁ観光客だ〉を思った。
「自分はこの世界に観光客としてやってきた」という見方。
一度限りの自分の人生を生きる旅人としての「観光客」)

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私たち人間は「中途半端」でしかあり得ない。
人間なのだから、神ではないのだから誤る。間違う。
誤り、間違いに気づけば、直せばよい。
新たに知ったことがあり、関わったものがあり、そっちの方が正しいと思えば、
これまでの物事は訂正すればよい。
〈オマケの話〉
いちばん大切なことは「訂正可能性」が根元から絶たれること。
訂正、やり直そうにも、肝心かなめの当事者、本人がこの世にいないこと。
戦争は人が生きるということのすべて、根本を破壊する。
戦争ほど人間らしいバカな行為はない。
絶対、戦争には反対せねばと、この本(反戦本ではないけれど)を読んで思った。

すすき原 すすきに触れて 日がのぼる 吉屋信子