ひろさちやさんという仏教(学)者の説く仏教はとてもわかりやすいので
ときどき読みたくなります。
(わかりやすい、やさしい道理でも私はすぐ忘れる。ときどきは強制的にでも
外から吹き込まなければならない)
『わからないことがわかるということが悟り 道元 正法眼蔵』 ひろさちや・著
(「グーグル画像」より)
(そもそも自分がブログをしようと思いついたのは禅にすごく惹かれたから。
障害者になったとき、禅語に救われた思いがしたという体験があるからです)
けれども難しそうでこれまで読んだことない。
(けれどもこの解説本を読んでわかった気がしています)
すごく心に響いた三つの話、①「薪は薪、灰は灰」 ②「あるがままの姿を拝む」
③「時節因縁」ということだけ紹介し、感想を述べます。
その三つとも道元の禅の核心をついており、「此処(ここ)、今」を大事に生き
なければならないという心のあり方、精神、態度・姿勢をいっています。
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「①〈薪は薪、灰は灰〉
悟りと迷が別々の世界にあるのではない、いま目の前に現れている存在すべてが悟り…
「灰は灰のあり方においてのち(後)があり先がある」…
その灰を灰としてしっかり見ることができれば、それが悟り
…
道元が言うように、病気になれば目の前に病気があるだけです。病気が現成しているのです。…
わたしたちはその現成した病気をしっかりと生きればよい。…
(「現成」とは道元の言葉で、「現在のありのままの姿、状態に成っていること。
道元が禅を学ぶために唐に渡ったときの体験を記した『典座(てんぞ)教訓』の中に有名な話が
あり、禅の心をよく伝えているので引き合いに出されます。→
道元は太陽の照りつける暑い中、シイタケを干している老典座《典座とは禅宗の寺院で料理を
つかさどる役目の僧》に会い、「たいへんでしょう。私が代わってやります」と言った。
するとその老典座は答えた。
「ありがたいが、あんたにやってもらったら私がやったことにならん」
つまり、寺のみんなの食事を用意するすべての働きが自分の修行である)」
「②〈あるがままの姿を拝む〉
(著者は法華経の「諸法実相」は「あらゆるものはそのままで素晴らしい」というと述べられます
「優等生は優等生のままで素晴らしいし、劣等生は劣等生のままで素晴らしい」とも。
続けて述べられます)
たとえば「水の循環」。目の前のコップ1杯の水…
最後は海など地上に降り、再び水になることは分かるけれど、その行き先は分からない…
わたしたちに分かるのは、いま目の前にある状態だけ
(つまり「現成」)
…
(今は)自分の必要な分だけ悟っていればいいのです。
そして(迷いながら)一歩一歩歩んでいけば、自然にまた次の道が見えてくるようになる…
→
種も芽も花も仏性
その花こそが仏性だ(種や芽はまだ仏性になっていない)。そんな解釈はおかしい。…
迷いは迷いで仏性だということ(まだ種や芽であっても仏性)」
「③〈時節因縁〉
(仏教の「法位」という言葉は「存在のあるがままの姿」ということで「時節因縁」と同じ言葉。
つまり①、②と同じことです)
「あなたが病気のときは、病気という法位(「時節因縁」)において病んでいるのです。
病気が治って健康になるのではない。病気のときは病気という仏性(法位=「時節因縁」)が
そこにあるのです。
仏性(法位=「時節因縁」)がないのではありません。…
病気をしっかり苦しめばよいのです。
…
(『正法眼蔵』の中に「有時」の巻というのがあり、そこに道元の時間論があります。
道元の「ある時」は「有る時」であり、「いま現在、そこに有る(存在する)」のであり、つまり
「有る(存在する)」のは「時(現在)」に他ならない、現在(いま)のみ存在すると説く)
道元は、時間というものは「現在」という意味なのだと言っているのです。…
「過去→現在→未来」…そうではない。「現在・現在・現在…」なのだと…
「現在1」には「自己1」が、「現在2」には「自己2」が、「現在3」には「自己3」が対応します。
過去について思い悩むのは、たとえば、「自己1」を「現在2」に対応させようとするようなもの
…
時節因縁(そのときそのときのあり方ということ あるいは「法位」というもの 「いま現在」)
病気のときには病気という現在がある。苦しみのときには苦しみという現在がある。
苦しみから逃れようとするのは、これを過去のものにしたいと思うことです。
そうではなく、苦しみも仏性なのだから、その仏性をしっかり生きよ」

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「時節因縁」という言葉は知っており自分なりの解釈はしていたけれど、
(他の仏教ではどうかわからないけど)道元のとても深い捉え方に驚いた。
(上では紹介していませんが)本の最後の方に「特別章 道元の「哲学」とは何か」
というのがあって、
「迷いと悟りはもともと同じものー無分別智(分別するな)」
「即今・当処・自己に生きる」
「ただ現在だけしか存在しない 「世界」は今の瞬間だけ「現成」している
=今の瞬間だけ「現成」しているのが「世界」」と道元禅の心がまとめられていた。
上に、「時節因縁(そのときそのときのあり方ということ
あるいは「法位」というもの 「いま現在」)」とあります。
著者は最後の最後にもう一度、「時節因縁の大切さについてこう述べる。
「若いときは、ひたすら若さに生きればよいのです。
若いときは、その若さが実相なんですから。老いれば、老いが実相ですから、
その老いをひたすら生きればよい。…
わたしたちは、そのときそのときの自己のあり方を、しっかりと生きればよいのです
それが時節因縁です。」

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もちろん、「若いときは…若さに生き… 老いれば…老いを…」といわれても、
人生のことは実際複雑で、〈薪は薪、灰は灰〉のようにくっきりとはいかない。
でも、釈迦はもともと「生」というのは「死」「病」「老」とともにあるので
苦しいのが当たり前、本質だという。
私が仏教に近づく切っかけとなった禅僧、玄侑さんは生きてゆく中で避けられない
「偶然」(そもそも誕生、生まれたこと自体が「偶然」でもある)を大切にすることを
「なりゆき(成り行き)を生きる」といわれる。
この前の記事で書いた同じく禅僧、南直哉さんも「生きているだけで大仕事」と
いわれる。
(みんな、ここでひろさちやさんがいわれることと同じ)

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この本で私が衝撃ともいえるほど、ガーン!ときたのは、道元の時間への見方、
とらえ方である。
上の紹介(引用)の「「有る(存在する)」のは「時(現在)」に他ならない」
「時間というものは「現在」という意味」
「「過去→現在→未来」…そうではない。「現在・現在・現在…」なのだ」
自分の人生は「今ここ」しかないのだから大切に過ごさなければならない、と
通り一遍の受け止め方しかしていなかったけれど、
「「有る(存在する)」のは「時(現在)」という当たり前の事実にしっかり
目を向けなければならないと(覚悟の思いで)感じた。
(こんど病気したら、その「病気をしっかり苦し」もう)

残る生(よ)の おほよそ見ゆる 鰯雲 齋藤 玄