今日は③ 〈ペットのクローン作ります〉。
クローンというと、私はすぐに「ソメイヨシノ」を想います。
「ソメイヨシノ」は日本各地にあまりに多く普及したせいで、いまは桜の代名詞の
ように扱われ、「桜前線」として春の到来を告げる指標になっている。
その「ソメイヨシノ」。(いまでは多くの人がはクローンと知っているけれども)実は近年、
1995年に分ったといいます(全然、知らんかった)。
(ちなみに「ウィキペディア」によれば
「接ぎ木を主流として増殖されたと考えられている…。遺伝子研究の結果、ソメイヨシノは、
エドヒガンとオオシマザクラの雑種が交雑してできた単一の樹を始源とする栽培品種のクローンである
ことが、1995年に明らかにされた」とありました。
繁殖という項目には「 各地にある樹は全て人の手で接ぎ木や挿し木で増やしたものである。
ソメイヨシノは発根性に問題があり、挿し木より接ぎ木の方が繁殖の成功率が高いことから、
接ぎ木を主流として増殖されたと考えられている。
なお栽培品種においては、その特質を維持したまま効率よく増殖させるために接ぎ木などで
クローン増殖させることは一般的なことであり、平安時代から行われてきたことである」とあった)
へぇー!!!

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あるペットが多くの人が羨むような魅力を備えており、(クローンを作る技術=
クローニングしたとして完璧なものに発達し)そのクローンがたくさん作られても、
ペットは動物だから「ソメイヨシノ」のようにはいかないだろう。
(そのペットのクローンということで遺伝子上は同じではあってもペットは能動的、
飼い主さんの愛情など育つ環境の影響、周囲との相互作用によって変化し、
そのペット一個《匹》だけの多様な生を生きると思う)
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③ 「〈ペットのクローン作ります〉
これまではひと握りの裕福な飼い主しかペットのクローンを手にしていないが、
科学の発展と価格の低下に伴って、生きもののコピー市塲は大幅に拡大するかもしれない。
(1996年、世界で初めてのクローン羊の「ドリー」誕生話が紹介される。→「ドリー」誕生の
遺伝子操作(クローニング)は「大人(の)動物の肉がちょっとだけあれば一卵性双生児を作れる」
ことを証明した。
だが同時に著者は、FDA《アメリカ食料品医療品局》の言葉も紹介。
「家畜のクローンの寿命やクローニングのせいで起こり得る長期的な健康への影響については、
この技術が登場してからまだ日が浅いため、どんな結論を下すこともできない」
そういう安全・安定性の問題もあり、クローニング技術そのものも問題があり完璧とはいえない)
…
ペットのクローニング
「クローニングは生殖であってよみがえりではない」…
(ということで)ペットをよみがえさせる構想が一般の人々をワクワクさせることはなかった。…
その反対に…(グローフィッシュが世に出たときと同じように)終末論的空想を呼び起こしたらしい…
(「動物の複製が人間の複製に対する恐怖を駆り立て」たから。
人間のクローンの不気味さ恐ろしさの問題とは別に、クローニングという生殖技術の難しさが
現段階では大きな壁となっており、クローニングの危うさについて、世界で権威のある有名な科学誌
「ネイチャー」に記載されている言葉を紹介しながら著者は述べる)
「たとえ自分のペットに異常なほど執着していている飼い主でもたった一匹を誕生させるために
100回を超える妊娠の失敗(クローニングの難しさ)を覚悟するとは思えない…」
…
(「愛したペットにいつかまた会える日まで」ということで、最後に著者は言う)
私たちがクローニングの限界をきちんと理解(し)…そして研究者が健康で元気に育つクローンを
(作れる技術を開発《完璧なクローニングが可能》、しかも費用も安くすみ、きちんと育てる責任を
持つなら誰でも「愛したペット」のクローニングが可能になるならば)…
私はペットの飼い主が自由に選択する権利をもっていいと思う。
…
動物をどれだけ大切にするかについては、人それぞれ価値観が異なり、…絆は感情的なものだ。
悲しみに暮れる飼い主が愛犬のDNAに生き続けてほしいと願う気もちに論理的理由など必要だろうか。
研究室でペットを作ることは、厳密に言えば「必要」ではないが、イヌの保護シェルターはもらい手の
いないイヌでいっぱいなのだから、ブリーダーによる繫殖だってほとんどが不必要なものだ。
新しい動物を作るひとつの方法が、もうひとつの方法よりほんとうに許しがたいものなのだろうか?
私はクローニングの成果が向上していくことを願っている。
この技術からは、死んだペットの複製を何匹か手に入れる以上のものを得られるからだ。…
広い世界のどこかには、狂牛病に抵抗力をもつウシや鳥インフルエンザに免疫をもつニワトリが
隠れているかもしれない。

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終りの9行に述べられていることに強く強く考えさせられた。
「動物をどれだけ大切にするかについては、人それぞれ価値観が異なり、…
絆は感情的なものだ。
悲しみに暮れる飼い主が愛犬のDNAに生き続けてほしいと願う気もちに
論理的理由など必要だろうか。
…
私はクローニングの成果が向上していくことを願っている。
この技術からは、死んだペットの複製を何匹か手に入れる以上のものを得られる…
広い世界のどこかには、狂牛病に抵抗力をもつウシや鳥インフルエンザに免疫を
もつニワトリが隠れているかもしれない」
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「動物をどれだけ大切にするかについては、…論理的理由など必要だろうか」
「ペット」という言い方は、「イヌ」や「ネコ」並みの概念ではなくても、
「花子」という特定の女性を「人間」と呼ぶようなものだろう。
そのペットとの縁というつながりは、「大切に」しようとするなら家族と同じ
ということを痛感する。
(私はペットを飼っていませんが、わが子のようにネコ二匹《かってはイヌ三匹》を可愛がっている
ブログ読者がおられます。
イヌ三匹もはもう亡くなっているのですが、最後の一匹のまだ元気だったころからの、その方の私は
読者でもあります。
彼女《雌イヌ》の元気なころに保護子ネコ一匹が引き取られて同居、この子との愉快な関わり、
病気で亡くなるまでの姿がとても悲しいながらもちょっと笑えるユーモアも交え《読む者に
気を遣わせまいとされるサービス精神がとても豊か》、複雑きわまりない痛々しいお姿、心が強く
強く伝わってきました)
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「広い世界のどこかには、… かもしれない」
本当にそう思う。信じる。
禅では「自分にこだわるな」という。
自分にこだわり過ぎると、自分だけの狭い世界に囚われ、この世は「広い世界」
であることを忘れてしまう。自分しか見えなくなる。
「広い世界のどこかには、… かもしれない」と思うことはとても大事なこと。
(読書の効用は、さまざまな人がいろいろなことを述べていることを知り自分の世界が広がること)

千年は 永くはないよ ねこじやらし 辻 桃子