※ この記事は2024年配布の無料配布ペーパー『賭博者を読もう!』に手を入れたものです。
ドストエフスキーは四大長編から入った。そのため、初期から中期にかけて登場する青年主人公たちが、やさしくおっとりした器用貧乏調停役みたいな青年たちばかりであるのは最近知ったことだ。ぱっと思いつくのは『白夜』『虐げられた人々』『ステパンチコヴォ村とその住人』などの作品だが、いずれも周囲で巻き起こるトラブルに巻き込まれる人の良い青年たちが出てくる。彼らは如何にも文学作品の主体になり得そうなある種の「ナイーブさ」を持っていて、そういうところに好感度もあり魅力もあるが、やはり後期のクソヤバ登場人物たちを知る身としてはいささかの物足りなさがあるだろう。
その風向きの変化を明確に感じられる作品が、一九八八年に発表された『賭博者』だ。主人公、アレクセイ・イワーノヴィチのキャラクターの良さは筆舌に尽くしがたい。彼は貴族ではあるもののさして身分は高くなく、ある将軍家で家庭教師をする二十五歳の青年である。知らない人とも目が合っただけで喧嘩を吹っかけられる血の気の多さ、口が達者で詭弁を使いつつ行われる鋭く辛辣な悪口、恋をすれば自分でもわけが分からないほどめちゃくちゃになってしまう狂気、あと権力に対してかなり反発心があるなどの特徴を併せ持った非常なる面倒くささを持っている。当然、調和にまったく興味のないアレクセイは自分が属する貴族社会では浮いているのだが、青年主人公が迷惑を掛けられる側から掛ける側に回ったときの面白さったらない。「これまでたびたび読んできたいかにも大人しい青年主人公たちのあとに、こんなブレーキがぶっ壊れた可愛い男の子を出してくるなんて!」と当方読みながら色めき立ったが、考えてみれば、当時ドストエフスキーは平行して『罪と罰』を書いており、ある意味では「青年主人公転換期」としてこの二作はコインの裏表とも言える。ラスコーリニコフを書きながらアレクセイも書くドストエフスキー、死ぬほど面倒くさい男を同時期に二人も相手しているなんて一体どんな体力なんだ。
『賭博者』は、アレクセイが家庭教師として入り込んでいる将軍家で巻き起こる恋や金銭面での擦った揉んだを描く中編小説である。この小説の登場人物たちは、小説が始まった瞬間からとにかく金がなく、金がないために人生が詰んでいるのだが、それは将軍家の人々を冷ややかに眺めるアレクセイ自身も同じである。身分が低いアレクセイは、将軍家の令嬢ポリーナに激しい恋心を抱いているものの、まるで相手にされていない。
このポリーナとアレクセイの二人は、ドストエフスキー作品でも指折りの喧嘩カップルで、会話のすべてが試合と言っても良いほどの激しさを持っているため、読んでいると死ぬほど気持ちがブチ上がる。ポリーナとアレクセイが主従関係にあり、全然言うことを聞かないアレクセイ(奴隷)と誇り高いポリーナ(令嬢)という関係性の勾配が良いスパイスになっている。 人生に大逆転はあるのか。大逆転なんてそれはもう、ものすごい金額の遺産が転がり込んでくるか、さもなくば賭博で大勝ちするしか――ああ、我々にも破滅の虹が見えてきましたね!
有名な話だが、ドストエフスキーはこの話を書いていた頃、ルーレット賭博にハマって破産していた。政治犯として逮捕され、死刑執行の直前にまさかの恩赦を受けてシベリア流刑になり、刑期を終えて出てきた後のことである。無論、賭博ばかりが原因ではなく、兄ミハイルが亡くなり事業の借金を肩代わりせざるを得なかったという背景も、あるにはある。そんな折に、悪徳出版人と全集出版の契約を結ぶ羽目になった。この契約は、全集にむけて長編一篇の執筆を約束されるばかりか「締め切りに間にあわなければ、以降九年間の作品を印税を払わずに出版出来る」という悪魔のような条件までついていた。その納期に間に合わせるべく、死に物狂いになったドストエフスキーが口述筆記で僅か二十七日あまりで執筆した作品が本作である。登場人物たちの人生も詰んでいるが、恐らく本当に一番人生が詰んでいたのは作者であろう。当時の賭博場の風俗、賭博に取り憑かれた人間の熱狂、金がないばかりに死に物狂いに追い込まれる人間たちの描写の生き生きすることたるや、そのどれもが当の作者が頭からどっぷり浸かり込んだ体験談なのだから怖いくらいである。
また『賭博者』には女性キャラクターが多く登場し、それぞれ癖のある魅力を持っているのも良い。ポリーナの発露する複雑な感情が、男と金の庇護下でなければ生きていけない人生に対する自尊心の傷付きや絶望感から来ていることを思えば、フェミニズム観点からの読み解きも大いに出来うる。ドストエフスキー作品における社会から取るに足らない者とされる人間たちへの眼差しというのは、非常に高い精度を持って描かれるが、それは女性描写についても例外ではない。抑圧されて生きざるを得ない彼女らの目が苦痛と憎しみに燃え上がるとき、その背景にある社会の問題を踏まえて読むと、現代まで地続きであるさまざまな事象が立ち現れてくる。加えて、本作では印象的な老婆が――アントニーダが登場するが、老婆が生き生きと大暴れする作品は、おしなべて名作である。
「賭博者」は恐らく、ドストエフスキー作品でもどちらかと言えばマイナーな部類に入る作品だが、比較的薄いので、ちょっと気になった人はぜひチャレンジしてみて欲しい。本作においては難しい哲学要素はあまり登場せず、物語のうねりを一気に楽しめるのも特徴だろう。
破滅のよろめきと熱狂、追い詰められた人々の神経のうわずりがルーレット台に合わせて激しく旋回する『賭博者』! こんなに端的にキマる娯楽小説がドストエフスキーにあったなんて、と思わせてくれる一冊である。
付録・登場人物
アレクセイ・イワーノヴィチ
二十五歳で将軍家の家庭教師。勝ち気で向こう見ずな情熱を持つ若者。ポリーナに激しく恋をしている。ドストエフスキー作品に出てくるクソヤバ台詞を集めると、もしかしたら一番頻出度が高いかも知れないとささめかれている人物である。
個人的にアレクセイ、すごくお気に入りなのだが、私がクソ男が好きすぎて目が曇っているのか、それとも誰が見ても見所がある若者なのか分からない。読んだ人は教えて下さい。
将軍
五十五歳のロシア人男性。妻に先立たれている。デ・グリューに多額の借金がある。ドストエフスキーはこういう、いかにも取り柄のない気の弱いおっさんを書くのも上手い。
ポリーナ・アレクサンドロヴナ・プラスコーヴィヤ
将軍の義理の娘。気位が高く、アレクセイを振り回す。謎が多い。ドストエフスキーの愛人ポリーナ・スースロワがモデルとされている。高飛車でわけのわからない女、とこれまで解されがちであったが、当時の女たちが男の付属品であり続けるしか生きる方法がなかったことを思うと、彼女の身が引き絞られるような苦痛や不安、アレクセイへの想いについても実に納得がいく。
マドモワゼル・ブランシュ
二十五歳のフランス人女性。浪費家で権威欲が高いが、後半では独特の魅力が現れる。
ミスター・アストリー
純朴な性格の英国人実業家。ポリーナに恋をしている。温厚で理知的な人物である。地味な登場をし続けるが、アストリーのいない賭博者なんて考えられないほど良心の軸である。
デ・グリュー
フランス人侯爵。複数人の債権者。形式ばかりの軽薄で醜悪な人物として描かれる。当然、アレクセイとは仲が悪い。
アントニーダ・ワシーリエヴナ・タラセーヴィチェワ
七十五歳になる将軍の伯母。資産家で危篤状態とささめかれている。権威高で無鉄砲でやりたいように振る舞うが、心優しくもあり魅力的な婆さんである。