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エッセイ:義務としての労働、前提としての人生

こんにちは、株もっちーです。

水曜日は、ファイナンスインテリジェンス向上ネタの日にしてみます。

給与に頼らない収入の増大を目指し、知識を得て、実践していく場としていきます。

エッセイ:義務としての労働、前提としての人生

こんにちは、株もっちーです。

瞑想をしているとき、そんな問いが浮かんできた。

私たちは、いつから「国民」だったのだろう。 あるいは、いつから「働くこと」を前提に生きるようになったのだろう。

瞑想をしていると、ときどき不思議な問いが浮かぶことがあります。 先日、何の前触れもなく、こんな疑問が頭をよぎりました。

「なぜ自分は、労働を“美徳”だと思っているのだろう?」

誰かにそう言われた記憶はありません。 でも、働いていない自分を想像すると、どこか落ち着かない。 何もしていない時間に、理由のない罪悪感が混じる。

その感覚は、ずっと「当たり前」だと思っていました。


考えてみると、日本では「勤労」はとても特別な位置にあります。 日本国憲法には、教育・勤労・納税という、いわゆる「三大義務」があります。

学校ではこれを疑問なく教わりました。

  • 勤労は国民の義務
  • 働くことは大切
  • 社会を支えることは立派なこと

そこに「なぜ?」という問いは、ほとんど挟まれなかった気がします。 説明というより、前提として受け取ってきた。 だからこそ、深く考えたことがなかったのかもしれません。


もちろん、労働そのものを否定したいわけではありません。 誰かの役に立つこと、対価を得ること、社会と関わること。 それらには意味があります。

ただ、いつの間にか、

  • 働いている=価値がある
  • 働いていない=何か欠けている

という感覚が、自分の中に根を張っていた。

それは「選択」ではなく、 刷り込まれた価値観だったのではないか、 瞑想中にそんな推論にたどり着きました。


戦後の日本は、働くことで豊かになってきました。 長時間労働も、会社への忠誠も、当時は合理的だった。

でも、その合理性がいつの間にか道徳になり、 道徳が人格評価にすり替わっていった。

働かない人は、どこか怠けている。 休む人は、甘えている。 何もしない時間は、無駄だ。

そうした価値観を、 私は自分の内側にまで持ち込んでいたのだと思います。


仏教では、執着が苦を生むと言います。 「労働=善」という考えも、 社会を回すためには有効だったけれど、 個人の心にとっては、執着になることがある。

瞑想中に浮かんだ違和感は、 その執着が、ほんの少し緩んだ瞬間だったのかもしれません。


働くことが悪なのではない。 ただ、働いていない自分を否定する必要はない

そう思えただけで、 少し呼吸が深くなった気がします。

労働を美徳だと信じてきた理由を、 ようやく自分の事として見つめ直せた―― そんな静かな時間でした。

まとめに代えて

この文章は、働くことを否定するものではありません。 ただ、働く前に、役に立つ前に、 人はすでに生きている、という前提を 一度、置き直してみたかっただけです。

感じ方は、人それぞれでいい。 批判も含めて、自由に受け取ってもらえたらと思います。

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