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あおたな書房活動記録

 

晦日ですね。
毎年、年末年始はバタバタと年を越していて、大体調子が悪いです。
けれど、今年は少しだけ振り返ることにしました。主にあおたな書房の活動についてです。

簡単にいうと、みなさんありがとう!来年もよろしく!です。


もう少し内容を書くと次の通りです。

①ZINEを作りました。

②展示即売会に参加しました。
③めっちゃ楽しかった!やったー! です。

もう少し詳しく胸の内を書いたものが以下です。誰かの参考になりそうな出店レポではなく、感想文ですのでお気をつけください。

 

2024年の出店は2ヶ所。「文学フリマ大阪12」と「瀬戸まちなか本の市」です。

9月。文学フリマ大阪の会場は、広くて人がいっぱいでした。素直な感想。文フリのウェブサイトによると、761の出店で出入りした人が5000人くらい。

こんなにいろんな表現活動をしている人たちが集まるのか!という驚きと、みんなこんな楽しいことしてたのか!というわくわくゾクゾクが楽しかったです。初めての出店なので、新しい出会いばかり。
でも知らない場所のはずが居場所があるように思えて、そういうイベントなんだと感じました。急に趣味の話ができたり本の話ができたり、どこか同じ匂いのする人に出会ったり、全く関わりのなかった人と仲良くなれてしまったり。おもしろいことがあるなと思いました。おもしろいことは端的に言って希望。

自分の作品を受け取ってもらえるというのは、とても嬉しいし、正直不思議でした。
趣味として、というか趣味というカテゴリにも入れずに、人知れずやっていたことを本にまとめてみたら、人が興味を持ってくれて、笑ってくれて、感想を聞かせてくれるという。突如あらわれたボーナスタイムかと思いました。ありがたかったです。

そして、友だちが遊びに来てくれたのも嬉しかった。
ブースでずっと初対面の人と話すモードでいると、不思議なもので、知ってる人が現れると突然景色がコラ画像っぽくなる。そしてそのまわりがすごい神々しく見える。なんて心強いんだと思いました。

人がそこにいるということ。人と人が出会うこと、言葉を交わすこと、めちゃくちゃすごいことです。あなたがいるisすごい。語彙失くすぐらいマジでガチです。

イベントが終わってからも、知らぬ間に応援してくれていたり、欲しいと言ってくれたりした方々も、ありがとうございました。本当に嬉しかったです。パワーいただきました。

 

10月は、瀬戸 まちなか本の市「せとまちブックマルシェ〜ZINE special ! 〜」に参加しました。
会場は愛知県瀬戸市にある古民家を改装した宿泊施設でした。

はじめて行く場所で、イベントも初めて知ったので、文フリより緊張してました。でも、会場とまちの雰囲気が良くて、しかもスタッフさんや参加している人たちがとても優しく、おばあちゃん家に来たかな?くらいのリラックスモードで参加できました。

会場は居間のような畳のお部屋で、出店者もお客さんも座ってお話しできるような感じ。客層も幅広く、お客さんとお話もたくさんできて楽しかったです。何より、笑ってもらえるのが嬉しかった。

文フリは落ち着いて話せる場ではなかったので、また違った場で出店ができたのも勉強になりました。

屋号が「あおたな書房」なので、本屋さん?出版社?と聞かれたり、愛知での他の出店を聞かれたりは、少し姿勢を正しました。確かに買ってくれる人からすればこれは店。お金をいただいていることに改めて感謝。
また楽しんでもらえる作品を作って、遊びに来たいなと思いました。


それぞれのイベントにお越しくださったみなさま、スタッフのみなさま、お世話になったすべてのみなさま、ありがとうございました!

 

あと、通販もやってみました。どん。

aotanashobo.booth.pm

ポツポツとご注文をいただき、その度にリアルに寿命伸びた感じです。匿名配送なのでどなたかわからないのですが、あなたのそのクリックに救われました。

 

利益度外視の活動ではあるけれど、いただけるお金の中でいちばん嬉しいかもと感じています。お金が欲しいというより、自分がやったことでお金をいただく仕事として気持ちがいいということです。

合わない会社や組織で働いていると、何かを汲んだり何かを飲み込んだりして、どうしてもそこの言葉を話すようになってしまい、自分の言葉が嘘になりそうなのがいつも怖い。私の弱さや課題でもあるけれど、その仕組みが誰かの言葉を奪っていく瞬間を何度も見てきて思うことです。

その点、自分の作ったものを売るから自分のまま自分の言葉で人と接することができる。欲しいと思った人だけ買ってくれる。人と客でなく、人と人でいれる。それがよかったです。
本の内容は自分が書いたものなので、聞かれたことは自分で説明できるし、わからないことはわからないと言えるし、間違っていたら自分でごめんなさいが言える。面白かったと言われたら純粋にありがとうだし、つまんなかったと言われたら精進しますでしかない。自分で責任を持てる、というシンプルさ。

これは、楽しいを人任せにしなくてすむということ。この感覚は、私にとってとても大切です。
もちろん、人任せにしないことと人に頼らないということとは別で、むしろめちゃくちゃ人に助けられていることに気づきます。


特に今年は、というか今年も、人に助けられた1年でした。いろんな場面で力をくれたみなさま、本当にありがとうございました。

 

 

ちょっと話はそれましたが、最後に現時点で決まっている来年のあおたな書房の出店予定を書きます!

■ 2025年1月19日(日) 京都文学フリマ

■ 2025年2月9日(日) 広島文学フリマ7

■ 2025年3月2日(日) おかやまZINEスタジアム

です!遊びに来てください!!

来年は、研究がてら作品を持っていろんなまちに旅に出たいなと思ってます。できればこれからもいろんな土地で生活しながら、あてのないことをあてにしたいです。

 

現在、新刊製作中。佳境です。

新刊準備号を発行する予定でしたが、作っているうちに楽しくなってきたので、準備号という位置づけというより、ちょっと趣向の違うものを出品することにしました。

農キャラの世界はほんとうに深いです。ほんとうに。多くのマニア的活動は沼と言われたりしますが、農キャラ沼は、沼から新たな生命が芽吹く沼だなと気づきました。

活動はゆるやかに長く続けていくつもりなので、どうぞこれからもよろしくお願いします。どこかでお会いできますように。

 

それでは、よいお年をお迎えくださいませ。

 

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

文学フリマ香川1で買った本


7月28日(日)に、文学フリマ香川1に行ってきました。
会場は、JA高松駅すぐの高松シンボルタワー展示場。

文学フリマとは、「作り手が「自らが《文学》と信じるもの」を自らの手で販売する、文学作品展示即売会」(公式より)です。詳しくは、公式のウェブサイトをご覧ください↓

bunfree.net

 

はじめての香川県開催だったので、香川にゆかりのある本に出会えたらなーと思って出かけました。13時ごろに行くといくつか売り切れもあり、結局はジャンルにこだわらずふらふらと会場を歩きながら興味の持ったものを購入しました。出店のブースはそれぞれ個性豊かで、普段手に取らないような本の話もできたりして、楽しかったです。

 

どんな文化にも言えることだけれど、文学の場があって、場が多くの人に開かれていることはとても大切だと思っていて、私はそういった場に行くことが好きです。

行って、場のエネルギーに圧倒されたり、心がこもった作品を出会ったり、作品を前に人とお話ししたりしなかったり。人混みも人と話すのも得意ではないけど、とにかくそういう場で感じるあれこれに、私はとてもわくわくする。そして、そういう気分は生きるために大事。

と、いうことで、買った本を紹介します!

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ー目次ー

※『作品名』
  発行者 または 編・著者(敬称略) の順で記載しています

 

『うどん県の歩き方』

桑島明大 編著 十河和貴/三木野恵/林謙吾

香川といえばうどん!だけれど、香川の魅力はそれだけじゃない!うどん以外の香川県の魅力を伝えたい、という思いを持った4人に書かれたエッセイ集。内容は、観光地での思い出やうどん以外のグルメ、香川の暮らし、こんぴらさんの歴史などなど。話題に上がるのが少ない東讃地区にも触れていて、いろんな香川の魅力が描かれていました。
三木野恵さんの章で、「うどん」を単位として計算してしまうという話には共感しました。香川のお店で食べるうどんは安くて美味しいから(かけ小だと2〜300円)、東京で生パスタを食べても高いと感じてしまう、”うどん何杯分”と考えてしまう、という香川県民ならではの苦悩もとい うどん愛のお話。

うどん以外の魅力も知ることができるけれど、やはり香川をうどんなしには語れない部分を強く感じ語らない方が不自然なんだなと、それほど香川県民にとってうどんは生活の一部なんだと思いました。

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わたしの推し本屋』

BOOK遍路をつくる会 執筆者ーSAKI/TUG BOOKS 田山直樹/みみみ/しのはらあきひと/春木滉平/モリコレbooks/ひぞのゆうこ/ユカリーヌ/チノ/#高知の歩き方/ニシハラ/エイモリミキコ

香川を中心に活動されている「BOOK遍路をつくる会」さんが企画して集まった12名の執筆者による、本屋さんへの思い出や愛を語るエッセイ集、兼四国の本屋さんガイド。人とまちと文化の交差点にある本屋さんの在り方やそれぞれの関わり方が読めておもしろいし、どこも行ってみたくなりました。個人的に、香川は都会でも田舎でもない街の独特さに魅力を感じていて、個性豊かな本屋さんが多いこともその魅力の一つだと思っています。

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『日々是珈琲』『シマノオト』

こりおり舎 千々木大介/千々木涼子

愛媛県の大島にある、本屋と自家焙煎珈琲屋と宿のお店「こりおり舎」のお二人による作品。『日々是珈琲』は、コーヒーやコーヒーのある暮らしについて丁寧に綴られています。『シマノオト』は短歌、写真、短いエッセイと、珈琲がセット。私は暮らしの香りのするエッセイが好きで、島での生活にも興味があって購入しました。
船は陸路よりもどこか知らないところへ向かうような旅の感覚がするというお話、私も短期間ながら離島で暮らしていたので共感するところがありました。船で買い出しに行くだけでも特別に思えるし、景色を見ていると全く退屈しないし、陸路とは違った不思議な時間感覚を思い出しました。大島にも行ってみたいです。

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宇野港編集室を作るvol.1』『宇野港編集室を作るvol.2』

宇野港編集室 橋本誠

岡山県の宇野にある登録制のコワーキング・ZINEスタジオの「宇野港編集室」代表の方による、編集室ができあがるまでの記録。資金調達、工事、備品のこと、オープンまでのあれこれが赤裸々に綴られていました。これから実際にコワーキングスペースやゲストハウスを作りたい人にはとても参考になるのでは!という感じです。
宇野は、島へ渡る港があって個人的にも思い入れのあるまちです。昔ながらの建物が残っていたり、個性的なゲストハウスや美味しいお店があったり。そこに、新しい文化交流の拠点ができた!とのことで興味津々です。

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『よりみち芸術祭vol.1 in瀬戸内』『よりみち芸術祭vol.2 in岡山』

EDIT LOCAL LABORATORY

瀬戸内国際芸術祭の行われる地域の生活、文化に出会う「よりみち」に重きを置いた旅のエッセイとのことで購入。宇野港編集室の代表の方がやられている「EDIT LOCAL LABORATORY」の発行だそうです。

芸術祭のレポやアート作品についての解説はネット等でも読むことができるけれど、実際は作品自体よりも取り巻くものの方がより大切な視点だと思うので、勉強になりました。外からは見えないことが多く、本来は地域のためにあるものだと思うので。vol.1では、小豆島と粟島のアートプロジェクトのレポートが読めてよかったです。私が初めて瀬戸芸に遊びに行くきっかけとなった劇団「ままごと」さんも紹介されていて、地域の人との関係性を作りながら土地に根ざした新しい表現が生まれることの魅力とおもしろさに、改めて興味を持ちました。次回芸術祭に行くときは自分なりにテーマも考えようと思います。

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『日記研究日記』

國井弥卯

書き続ける、読み続ける、学び続ける、姿勢。参考文献や紹介されてる本が、私も気になっていたり読んでいたりしたのと、個人的に「日記本」が好きで購入しました。こちらも宇野港編集室のメンバーさんだそうで、そこで印刷したものだそうです。
「日記が書けない」の章で、日記を書きながら”自分の内側での検閲”が起こったり、メタ的な視点になってしまうという迷いも描かれていたのが印象的でした。私は日記ブログを書くのも読むのも好きなので、書いていることの「ほんと・ほんとらしさ(正直さのような)」みたいなものに興味があり、よく悩むので(私のに関しては誰も読んでないんだから何でも良いじゃーんとは思いつつ)、私も自分なりの答えを探したいなと思います。

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『ヤクザ短歌』

プチ文壇バー月に吠える コエヌマカズユキ

ジャーナリストの筆者が、実際にヤクザとして生きる男性に密着取材した記録が、短歌とエッセイで綴られています。社会の闇が垣間見えると暗澹たる気持ちになるけれど、1人の青年の生き様を知るという意味では心揺さぶられることもありました。
「怒るでも笑うでもなく淡々と聞かない方がいいよとヤクザ」「二つ折り財布は俺は使わねえ百万円が入らねえから」「幸せになってほしいから本当は離れてほしい俺なんかから」
短歌のリズムは軽快に感じるし、おもしろく読めてしまう。こちらの怖いもの見たさのような欲も満たされるけれど、これはフィクションではなく、リアルなんだと思うと読後感は複雑でした。

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『タイのにちじょう』

つきまる雑貨店

風景や看板、商品の写真がたくさん載っていてタイの日常を感じられるZINEでした。雑貨たちはとてもカラフルでかわいいので、パラパラみているだけで楽しい。特にビニール袋のパッケージを紹介するページに興味を持って購入しました。タイでは、屋台でビニール袋に食品やジュースを直で入れたりもするそうで、ビニール袋の需要が高いそう。だから、ビニール袋の種類も豊富で、買うときにわかりやすいようにカラフルで大きいのロゴが書いてあると聞いて、パッケージにも文化が現れるなあと興味を持ちました。

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『#高知の歩き方』

#高知の歩き方 古村藍里

高知県のガイドブックというより、生活者の目線で高知での暮らしを見つめるエッセイでした。
日曜市でその時だけの旬を味わえる環境を楽しんだり、伝統工芸の和紙に大切にしたいことを書いてお守りにしていたり、日々の暮らしを大切にする姿勢がすごく素敵です。筆者が小さなものに目を向ける心を学んだという、植物学者・牧野富太郎の「雑草という草はない」という言葉、いいなあと思いました。
歩き方とは生き方と近い言葉だなと思います。毎日を真摯に暮らして丁寧に綴ることは、誰かの毎日を応援することにもなる、と感じました。

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『本は簡単に作って良い』

アジフライ帝国 スターオブババア

”本を作るきっかけになりたいZINE”ということで、まさに、本を作りたい人の「どうやって作ったら良いのかな?」「何を書けば良いのかな?」という初歩の気持ちに寄り添ってくれる本でした。イラストもかわいくて癒されます。

個人的には、同人誌等の本作り経験者のお話がすごく参考になりました。実際に本を作った時の費用や紙の種類も載せてくれていて、経験者にしかわからない生の情報はありがたかったです。そして、特に本を作る人へのアドバイスは、本を作ろうとしている人だけでなく、本を作っているけれど自信を無くしかけている人にもすごく刺さると思います。私自身読んでみて勇気をもらえました。ありがとう、私もそちら側へ行きます!

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と、いうことで。

私もはじめて本を作りました!

『農キャラ研究』という評論エッセイのような研究本のようなものです。

c.bunfree.net

 

そして、2024年9月8日(日)に『文学フリマ大阪12』に出店いたします!やったー!

bunfree.net

会場は、天満橋OMMビル2F A・B・Cホールです。

 

何とか大きなミスなく印刷所さんから本が届いたので、ひとまず安心しているところです。

どんな形でも何かを作ることや、言葉にすること、表現することに純粋な楽しさを感じています。そして、誰かが作ったものを読ませてもらう体験の楽しさ、大切さをひしひしと。
プロアマ関係なくいろんな出会いのある場は、たくさんの人が交流してこそだなと思います。

今回の文学フリマ大阪では、761出店、833ブースが並ぶそうです。わたしも見て回るのを楽しみにしています。
わたしのブースは試し読み、チラ見大歓迎です。お目当てのついでに、ぜひ遊びにきてください!

お読みいただきありがとうございます。
それでは、会場でお会いできますように!!

 

Mendoing

 

しばらく使っていたシャンプーが、
シャンプーコーナーから消え、安売りコーナーに行き、3割引になり、半額になり……

お別れが近づいていることを察して、ドラックストアが目に付いたら積極的に安売りを漁っていたが、ついに、店頭から消えてしまった。

しばらく、旅行用に置いていた試供品を使っているけど、途端に肌の調子が悪くなる始末。ああ。また気に入るものを探さなければならない。ああ、めんどくさい。めんどくさいよお。

めんどくさいなら、ランキング一位のやつでも買えば?と思うだろう。違うのだ。むしろ色々試すのは好き、色々調べるのも好き。でも、私が気に入った!と思わないと、私が嫌な気分になることが、めんどくさいのである。つまり、私というものがめんどくさい。



次にしたい髪型が決められず、美容室に行けないでいる。

信頼している美容師さんだし、相談すれば提案してくれるし、気持ちも汲み取ってくれるし、きっとその提案は私が考えるよりもよい状態にしてくれる、とわかっている。

けれど、どうも、意志がゆらゆらしたまま行きたくない。

染めたいと思っていたけど、そうでもないかも。
切りたいと思っていたけど、そうでもないかも。
なら、前と同じで!と言えばいいじゃないか。
でも、髪が自由でいれる今こそ染めるタイミングでは?
てか、自分の髪なのに、髪が自由でいられないってなに?

ああ、こんなこと考えている時点で不自由。私がめんどくさい。

 

世の中は面倒なことばかりだ。
ひとつ面倒を終えても、新しい面倒に出会う。
もはや面倒なことを作り出しているといえる。
人類は、もし面倒から解放されるとなっても、きっと面倒を作り出すに違いない。
なんて面倒な生き物なんだ。

と、こんな面倒な文を書いているのは、きっと面倒からの逃避だ。
そう、こうやって時間を無駄にすることで、面倒でないはずのものまで面倒に繰り上がっていく。

面倒の無限ループである。

 

面倒を面倒だと感じているなあと意識する状態、これをメタ認知という。
いいか、メタるな。面倒は、メタるな。
面倒を俯瞰している時点でお前は面倒を生きていない。

面倒をいけ。面倒の真ん中をいけ。

面倒の中には、きらりと光る面倒がある、ということも我々は知っている。
だから、面倒をやめないのである。
むしろ我々は、面倒を愛しているのである。
ならば、存分に面倒を愛そうではないか。

ビバ、面倒。

 

ゲシュタルト崩壊するくらいに面倒を書き続ければ、もはや意味をなくしていって、面倒という概念が消滅するかもしれないと思って書き始めた。
だが、気づいた。

愛する面倒が消えてしまっては、この世は味気ないのかもしれない。

いや、その前に、面倒の化身である私が消えてしまう。

ああ、実に面倒。面倒だ。

 

したたか

 


先日、祖母が緊急入院をした。


コロナにかかって2ヶ月ほど体調をくずしていたわたし。久しぶりに元気が戻り、久しぶりに電車に乗った日だった。


ちょうど乗り換えの駅で、親族から電話がかかってきた。ちょうど近くの病院にいるという。
タイミングを見計らったか?なんて思う。祖母はたまに、ちょっとしたたかなところがあったから。


本人の様子はよくわからないけれど、親族の声がいつもと違うので、なにかを察し、病院に向かうことにした。

 

救急の待合は重い空気だった。しばらくして救急の先生に呼ばれ説明をうける。それはすごく的確で、冷静で、対応を迫られるなかでも、ひとつひとつ丁寧な話し方だった。治療のリスクや可能性、家族の意志もきちんと確認をしてくれて感謝しかない。

ただ、そこに、躊躇なくだすしかない、看取りという言葉には、正直、わたしの耐性がまだできていなかった。


うちの親族には、すぐに冷静さを保てなくなるひとがいて、この狭い親族というコミュニティでは、冷静さを保つための要員となることがある。

「大丈夫だよ。」

とは、ここでは定型文でしかないなあと思いながらに口に出す。


でもほんとうは、ずっと、口の中を噛んでいた。

どうにもできなさ。不安。いつかのだれかや、いつかの自分を重ねてしまう。どうにもできない、人間であること。

こういう気持ちは、見える景色をうそのように塗り替えてしまい、ここがどこだかわからなくなる。わたしは、それがとてもこわい。だから、口の中の痛みを頼りにして、明日は辛いもの食べられないなあ、と考えることでやりすごす。

 

しばらく待って、処置は成功し、先生いわく想定よりも悪くなかったと伝えられた。ただ、年齢的なこともあり、なんとも言えない部分もある。と。

処置後に通してもらった病室はかなりシビアな環境で、少し前の咳をしていたわたしなら、会えなかっただろうなと思った。

入院の説明を親族と一緒に聞いて帰る。できることもない、ただ、そういうものだ、として家に帰った。


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集中治療室での面会は、コロナ対策や患者の体力等のこともあり、10分という制限時間が設けられている。

鍵のかかっている扉からインターホンを押して病室に案内してもらった。


祖母は眠っていた。管や患部に触れないように手の自由を奪われたまま。


迷った。

起こしていいだろうか。


他の患者さんもいる中で、大きな声を出すのも憚られるし、いちおう声もかけているが、起きなさそう。


迷った。

 

例えばもう会えないとしたら。

例えば起こすことで容体が悪化したら。

例えばなにをしても起きなかったら。


8分くらい様子をみていたが、時計を気にしながら自分の体勢を変えると、ベッドの手すりに軽く腕をぶつけて、ガタッと音を立ててしまった。

すると、ビクッとしてバチッと、ちいさなちいさな目を開けた。


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祖母とは別居だったが、3歳くらいのとき、一度、わたしの子守りで祖母が家にきてくれたことがある。その頃祖母も働いていたし、珍しいことだったと思う。なにをしたかは覚えていない。うどんを作ってくれたような気がするけどそれも朧げ。


ただひとつ覚えていること、


祖母と昼寝をしていたが、先に起きたわたし。起こしても起きなかったのか、なんでそうしたのか忘れたけれど、寝ている祖母を起こしたくて、わたしは、わざと、おもちゃの箱を落とした。


大きめの音が鳴った気がする。


そりゃびっくりするだろう。
ビクッとしてバチッと目をあけて、だいじょうぶか?と言った。


そのときの反応とまったく同じだった。


そのとき同様わたしは、ごめん、と思った。
でも、ちょっと、しめしめと思った。


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気持ちよさそうに寝てるから起こそうか迷っててん、おきてくれてよかった!というと、

祖母も口を動かしてくれている。


数年前の脳梗塞の後遺症でなかなか言葉が出ないのだけれど、それでもなにかを言いたそう。

うん、うん、と聞きながら、言葉を待っていると「よかった」と言った。それまでの部分はわからなかったけれど、よかった部分だけはっきりと言った。


よかったんだね。

それなら、よかった。


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その後、一般の病棟に移動したところである。お医者さんはすごい。医療はすごい。それが、先生によると今回の治療をして耐えられる人は2割ほどだということだった。それを耐えたらしい。わたしは驚いている。医者も親族も驚いている。脳梗塞の時も思ったが、あなた、つよすぎる。


とはいえ、会う度に、なにかを感じることがある。なにかが遠のいていくような、近づいてくるような、いや、そんなことはないと思う。変わらぬ日常。そんなこともないのだけれど。


返事ははっきりしないが、意識はあるし、言葉はわかっているようだから、とりあえず言葉を続ける。
ほんとうのこと、ほんとうになってほしいこと。それはもう、ほとんどうそではないかと思いながら。


「したたか」の言葉の意味、あざとくてずる賢いだと思っていたけれど、調べると単純に「強い」らしい。やはり、祖母はつよい人なのか、なんて思っておく。

でも、つよい人なんていないからね。

だからどうすればいいんだろうね。

わたしには、どうすればいいかずっとわからないから、
もうちょっと付き合ってもらおうと思う。

 

 

長野旅行記

 

「ひとり旅じゃないんだからね!」


電話で旅行の計画を立てているとき、行き当たりばったりで行こうとするわたしにつっこむ友だち。
そうだね、人と行くんだ。人と旅行に行くのはいつぶりだったか。

 

2023年5月。晴れ。

早起きをして、家を出る。心配性な彼女に現在地のLINEをこまめに送る。いつも共に乱用しているBKBのスタンプで会話。

無事、家
から、でたよ
バンザイ!

BKB!ヒィーッア!これくらいのノリ。


駅着いたよーとLINEして、しばらく。
人混みから、カラフルな帽子がちらついて、手を振る。


……会えた!!!


かれこれ4年ぶりか。いまこの瞬間にこの旅の目的は果たされたと思った。満足。いやいや、旅はこれからなんだけど。

 

長野駅の前で一緒に写真を撮って、ぶらぶらとまちを歩きはじめる。

目的地は善光寺。わたしの希望。

「でもまあ、他に観光地もないけどな!笑」と地元をくさす彼女だったが、気になるお店や気になる路地は沢山あって、その都度寄り道をしながら歩いた。なんでもない景色を背景に写真を撮り合う。

食べたのは、納豆カレーのお店のカレーパン、長野名物のおやき、ラムネをプシュッとやり、お芋のお菓子は半分こ。最後の一個をかけて全力じゃんけん。もちろん観光地名物顔ハメもやった。

 

長野駅から善光寺へ。ガイドブックの目安から約4倍の時間をかけてたどり着いた。

いいお寺だ。

お参りをすませて、「お戒壇巡りする?」という話になった。

戒壇巡りは、本堂の地下の真っ暗闇を進んで”極楽の錠前”を触れば、ご本尊とご縁が結べて極楽浄土が約束される、といったもの。
ずっと興味はあった。信仰心より冒険心での興味。でも、わたしは閉所と暗所がものすごく苦手で、どこのお寺のも行ったことはない。パニックになる。

だけど、「ここは小さい灯りが足元にあるから大丈夫だよ。」と言われ、行くことにした。一緒なら大丈夫かな、と。

券売機で券を買って、靴を脱ぐ。彼女に先に行ってもらい、階段をおりて、中に入って3歩。

 

真っっっっっっ暗だった。

 

「え!まって!暗い!無理無理無理無理!!!」

と腰が抜けそうになりかけたところ、手をぎゅっと握ってくれた。「大丈夫」と。


わたしは全く大丈夫じゃなかった。
スマホのライトを即つけたかったし、くるり方向転換して戻りたかった。でも、後ろから次のグループが来ていて、戻るほうが危険。行くしかなかった。


真っ暗。本当の闇。目を開けてもつむっても闇。怖いを通り越して怖い。
むりむりむり、えええ、まだなの、あああああ、と情けない声を出し続けるわたしを、彼女が呆れていたかどうかを探る余裕もなかった。

「これ、ほら。」とガチャガチャと音が鳴る何かを手探りに発見。意外とあっさりとした彼女。「これをさわればいいんやな?!」とだんだん恐怖にキレてきて、(これで満足か?!あぁ!?)と内心不謹慎なほど逆ギレしながら、ガチャガチャガチャと触って、地上に出た。

 

放心状態のわたし。
「前行った時は足元に灯りがあったのになあ。」と不思議そうな彼女は、ごめんねと謝ってくれた。

放心状態のわたし。
「でも、一人ではいけなかった。ありがとう。」これは、心から思ったこと。こんなこと、わたしにはできないから。

放心状態のわたし。
さあ、お堂を出て、気を取り直そうとおみくじを引いた。凶だった。

 

噂によると凶が多いらしく、”凶だったあなたも大丈夫!”というおみくじ付き閻魔守が置いていてあった。彼女は、内容を気にしすぎてしまうからおみくじを買わないと言っていて、閻魔さまを指差し「ほら、こういう風に買わせようとするでしょ?」と、半分呆れていた。笑いながらも、わたしはこの気持ちの記念に閻魔さまを買った。

善光寺はアトラクション的に楽しいスポットが多くて、経蔵で輪蔵を回したり、山門の上に登ったりもした。山門は階段がとても急で、高所すぎて怖かったけれど、さっきの暗闇に比べればへっちゃらに思える。これもご利益と勘違いしておこう。

 

仲見世通りをゆるゆると歩く。お店に入ったり、あーだこーだ話したりしながら。途中みつけた公園に寄って、高校生のアベックがいちゃついている横で、陽気なアラサー2人が遊具に乗ってはしゃいだ。

夕ご飯は、信州そばを食べた。
初めて一緒にご飯を食べた時の話をした。彼女が大阪にいた頃の話。お腹がいっぱいだから食べて、と歳下のわたしに食べさせたことを気にしている、と。この日も、彼女の山菜の天ぷらを食べることになった。お腹はいっぱいだったけれど、懐かしかった。

 

彼女は家に帰り、わたしはビジネスホテルへ。
空いているのでどうぞ、と広い目のお部屋に通してもらいゆったり。

明日の予定を立てたり写真を整理したりして、
BKBのエンジンきります、のスタンプを連打して寝る。おやすみ。

 

2日目。


駅周辺で待ち合わせようか、という計画で、朝一はひとりでホテル付近を少し散策。

マップ検索しながら見つけた本屋さんが、とても良いお店でお店の方としばらくお話しした。だが、これはひとり旅ではない。待ち合わせの時間に遅れていたのに、わたしは電話にも出ず、彼女を心配させてしまうという。ほんとうにごめん。
謝るわたしに「迷ってるかと思って心配してたからよかったよ」と言ってくれた。

 

駅ビルで合流して、ハンズの手紙コーナーに立ち寄った。彼女は宇宙人の誕生日カードを指差して「これ買ってよ。」と言ってくる。「え、いやや!笑 これ買うとしても、帰ってから買うわ。」と断った。

私たちは、会えない代わりに、手紙や物を送り合ったりしていた。けれど、お祝い事の当日には全く間に合わなかったりする。それを許してしまうゆるさでやっていた。
これよりいいものあるはずや、それを見つけるんだ、というわたしのこだわり。彼女は不満そうだったけど、いいもののほうがええやん。というわたしの意地っ張り。

 

この日もたくさん歩きまわった。ご飯を食べる場所を探し、りんごのカーブミラーを探し、気になってるお店に着いてきてもらう。

途中、いろんな話をした。そんなこと気にして友だちいるん?とつっこんでくれたり、彼女が高校時代に友だちに言われて傷ついた話に共感したり、お互いの友だちの話をしたりした。

初めて聞くことばかりだった。お互いのこと、知っているようで知らないのだけど、何かが通じていて、どうも互いに、友だちだなんだの枠組みでないところに関係を置いていたように思う。辞書にある言葉で探すなら、同志のような。でも、そういうのも照れくさかったし、茶化しながら「ズッ友だよね」と笑っていた。


帰る時間。

駅で最後のツーショットをパシャリ。わたしは特急に乗るのでホームは別だった。
てっきり見送ってくれるかなと思っていたのに、写真を撮った後「じゃあ、またね!」とあっさり言って彼女は去った。

えっ!と思った。さみしくないんか?さみしいのわたしだけかよ!と思った。

でも、わたしたちは考えすぎるきらいがある。だから、もしかしたら、彼女なりに寂しくないようにしたのかな、とか、私に気を遣ってかな、とか、ふと思う。

仕方ないか。普段こんなに歩かないだろうし、彼女も疲れていたのかも。

電車に乗って、自由席に座る。
荷物を置く。
ふう。

すると発車前、ふと横を見ると、彼女が私を見て笑っていた。

彼女「見送る」
わたし「なにその技」

LINEで漫才しながら、手を振った。

なんやねん!!!!!

 

帰り道。

なぜか、びっくりするほど寂しくて、電車でずっと泣いていた。旅行でこんな気持ちになるのはなかなかない。

楽しすぎた日の帰り道は、こんな気持ちになるって、忘れていたかもしれない。

また会おうね、というには少し遠い。でも、また来るし、また会える。旅行はおしまいなだけ。


ありがとう。

 

 

 

 

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ブログに書く、とは、わたしにとっては、過去にする、という行為である。

誰かに何かを知ってほしい、という気持ちで書くこともあるけど、それは脳の別の回路で書いていることに最近気付いた。

そう、過去にする。

わたしは、この日がもう来ないことを受け入れないといけない。

彼女とは、出会ってから13、4年ほど経つが、実際に会ったのは10回くらい。数えると不思議に思うけれど、ほとんど人生の半分、ずっと一緒にいた。

わたしたちは、アホなまま、変なままでいた。おそらく世間からなにかがズレいるけれど、同じくらいに、なにかが真っ当だと思いたがっていた気がする。わたしたちは、似ていなかったけれど、似ている部分は互いに譲れない部分だったように思う。

だから、まあこんな変な関係で、これからもずっとアホなことを言ってくんだろうなーと思っていた。でも、もうそれはかなわないらしい。

誕生日のカードは別のを買っていたのだけれど、結局間に合わなかった。旅行記書いてと言われてたのに、書かなかった。いや、ごめん、書いてたけど更新ボタンを押せなかった。へんに人目を気にするの嫌だし、なにより人に見せる物語ではなくて、わたしたちの思い出なので。って、わたしのめんどくさい部分は伝えていなかったけれど。



寂しい。
という感情は、あとからくる。
ずっとくる。ずっといる。ずっとそばについてまわる。


寂しい。より、悔やんでいる。かもしれない。
気付けば、毎日泣いている。泣けば泣くほど、じゃあ、なぜもっと一緒に泣かなかった?と思う。

わたしはこの世のあとの世界を信じていない。だけれど、わからないから、もしかしたらあるのかもしれない。彼女にはあるかもしれない。
ちがう世界があったとして、ちがう世界もネットが通じていたとして。たまたまブログを見てくれるとしたら。なんて、ありもしないことを考える。


過去にする。
そうしないと前に進めない。
そうしないとその日にいたくなる。
でも、書いている間は過去じゃない気もする。


過去にする。
過去になる。
もうとっくに過去。

 

わたしはちょっとおかしくなってるかもしれない。でも、わたしはひらめいた。

ブログに書くとは、過去にすること。つまり、過去にするために書いておけば、過去はそこにいてくれるので、いつでも過去に行けるようになるのか、なるほど。と思って、更新ボタンを押すことにした。読めばその日に行ける。なんてね。


まったく、おかしな理屈だね。


もうめそめそするのをやめる。

「そして、世界は泥である」か

 

林智子さんの個展「そして、世界は泥である」を見てきた。

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行こうと思ったきっかけは、「そして、世界は泥である」という題名の一文に惹かれたこと。
例えば”世界は光である”よりも惹かれてしまうのは、ただのわたしの癖だけれど、この一節は、イタリアの厭世主義の詩人ジャコモ・レオパルディの詩の言葉だそう。

 

会場である京都芸術センターは、元明倫小学校の校舎を利用したアート施設。

展示は、廊下をぐぐっと奥まで歩いた先の展示室から始まった。

京都の深泥池、そしてその泥に作家が魅せられ着想を得たという本展。
薄暗い展示室に、絹の薄い布、そして、泥水のはった池のようなものが展示してある。池の表面には、泥水の中にいる鉄バクテリアの働きによって生まれる膜が現れる。作家はこの膜に、意識と無意識の境界を重ねたそうで、泥という言葉の持つイメージから想像できない、なんとも繊細な世界に誘われる。

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そして展示室内には、「N-Energy」という"水中の植物や微生物の循環作用から発するエネルギーを利用した発電装置"から発せられた環境音が流れていた。静かながら何とも言えぬ音が耳に入ってくるこの不気味さは、泥に足を踏み入れてしまった感触に似ているのかもしれない。ちょうど他の鑑賞者もおらず、ほんの少し異質な空気を感じた。


その奥の小さな部屋の展示で、びっくりしたのは、足元に土が敷き詰めてあったこと。

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足元の感触が変わると、体感も変わるし、ここがどこなのかという意識も変わって楽しい。単純にわくわくもする。
そして、鉱石ラジオなるものも設置されていた。鉱石に針をあてて電波をさがす。鉱石を媒介として、声なき声にまで耳を傾けるかのような体験。なにこれ、すご!

 

展示の順路は2階に続く。古い校舎のギシギシと鳴る階段を登って作品を体験しにいく。

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廊下にも作品があって、植物発電によって演奏された音に耳を傾けて歩く。なにとも書きにくいが、美醜とか良し悪しとか明暗のとかの価値判断によらない、生命活動の音。音なき世界から発せられている、聞こえないけど存在している音、なんて思うと、ロマンさえ感じる。

 

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ポツポツと水滴が落ちる度に、水面に投影された虹色が揺れる。…好きだ。

 

展示の最後は、真っ暗な部屋。吊るされた絹布と和鏡が目に入る。20分のサウンドインスタレーションを体験する作品。

照らされながら、恒星の自転かのように回っている和鏡。影と和鏡の反射がピタッとあう瞬間には一種の心地よさを感じながらも、重心がどこにもないような不安定さを感じる。

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ともなくして聞こえてくる音。はじまりは会話のようで、なんとなく聞き取れるけれど(解説によると、インタビュー音声らしい)どんどん重なり合ったり、環境音が混ざり合ったりしていき、聞こえていた言葉は意味伝達の役割をなくしていく。自覚的な世界から無意識の世界にアクセスさせようとしてくる轟音。どんどん泥の中にひきづり込まれるような、というか、そもそも世界は泥であるのだという世界観に見事に包まれていく。

しかも真っ暗で、状況がよくわからない。不安で、不快ともいう。不安になると、不安から逃れたくて、意味とか言葉とかのわかる何か手がかりが欲しくなる。でもそんなものはここにはなさそう。しかも泥だし。ずぶり。

しばらく爆音ノイズに身を委ねるしかなかったが、後半につれて、光が反射するような(といっても見えないけれど)キラキラとした澄んだような音や、小鳥の声も聞こえてきた。轟音のもやもやの中から出会える音としては、救いにも思えた。
最後は音とともに光も消えて鏡も止まった。

わたしは、なぜだか、満足して展示室を出た。


無意識の世界、見えない働き、常に起きているなにか。それらの存在の気配を感じたり想像したり、あるいはそれを自覚できるのかという問いかけであったり、に思いを馳せる体験だった。古い校舎の質感や匂いもあいまって、空間全体でそれらを体感したようにも思う。

泥といえば、足を踏み入れては戻れない一種の嫌悪感や、直視したくないものも連想する。混沌に耐えられず拒絶反応を起こしてしまうようなテーマとも。だが、作品は、わたしたちに立ち向かわせるわけでもなく、ただ意識を向けさせる。

泥と共に、泥の中で、それでも生は「そこにある」、それが世界である。だから?の部分があるとしたらそれぞれに委ねられているかもしれないがそれは主題ではない、その意味をわかろうとしてしまう意識を超えた往来こそなのだ。

意識と無意識、内と外、見えるものと見えないもの、他者と自分、生と死、(対比は無限だが対比以上に)それらの境界線、そしてつながりを繊細に見つめる、作家の澄んだ視座が印象的だった。

見えていないから、ないのではない。けれど、確かにある。
わたしはこの展示に触れた気持ちを、どう説明できるかはわからないけれど、なぜか、元気がでた。心の中の泥がかき混ざられたことを、喜びと錯覚したのかも。


展示は、6月9日まで。しかも無料、ふとっぱら、おすすめ。いい体験だった。

 

参考:
ジャコモ・レオパルディ『カンティ』脇功, 柱本元彦訳 名古屋大学出版会
会場内ハンドアウト 林智子 Artist Statement 安河内宏法「泥の中から/泥の中へ」

あー!の迷宮から抜け出すための行ったり来たり

 

ライブに行くのが好きだ、と言い続けて10年以上になる。

音楽はもちろん好き、そしてやっぱりライブが好き。音楽に触れているような、それはだれかの人生にふれているような、自分の心に触れているような、よくわからないけれど、生きている実感がして好きだ。

作品や演奏にいろんな感想をもつ。余韻でしばらく生きられる。感想をブログに書いてみたりして、ライブが終わっても楽しませてもらっていた。

そんなわたしが、ある日ライブに行ったとき、感想が「あー!」になった。それから、わたしは「あー!」にとらわれてしまった。

 

この「あー!」は最高すぎて言葉にならないね、の類の、きっとポジティブな何か。(のはず。)
きっと、よいことである。きっとそれは、最高だったのだから。

 

ただ、わたしは、このことに引っ掛かってしまった。自分自身に対して。

何かを言おうとするのに、言葉になっていないことに焦る。
ただ、言おうとして出てきた言葉に、そんなことを言いたかったのではないと憤る。
では、本当に言いたかったことはどんなことかを考えて言葉にして文章にしたときには、そのとき感じた純粋な「あー!」と感じた部分がどうも抜け落ちている気がする。

わたしは、ライブをみたあと、よく言葉の世界に戻ってこれない状態になる(と呼んでいる)。ただ、それはいつまでも続かない。続かないが、終わったときには、何かが消えている。だから焦る。言葉にならないのに、言葉にせずには消えてしまう。なのに困る。言葉にしても消えてしまう。

こういった引っ掛かりである。

 

「あー!」とは、一体なんだったのか。

言葉、以前、

意味、以前、

あるいは、以降の、何か。


音楽を聴いた時の感動やその体感は、どこまで言葉で説明できるのだろうか。
言葉にできないという言葉が存在するように、言葉は万能ではない。
言葉にできないものがあるから、音楽があるのかもしれない、とも思う。

それだから、わたしは気になる。

 

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心の琴線にふれたとき、明言しようとしてもうまくいかず、思わず「ああ」と言う。表れは漠然としているが、心は豊かに働き、何かをはっきりと感じている。その証しとしてときに落涙することさえある。

言葉にならない想いにも、大きな意味があることを知る者たちはいつからか、「ああ」という発露に「嗚呼」という文字を当てた。こうした出来事が、嗚咽のうちに現れる、内心からの呼びかけであることを示そうとしたのだろう。

 

若松英輔氏のエッセイ『悲しみの秘儀』より。言葉にならない言葉についてこのように綴っていた。まったくそうだなよあと思うきれいな文。心の機微、言葉にならないを、あるものとするためにあてた言葉、こそが「ああ」なのだ。もはや縋るような思いすら感じる。だから、嗚呼も立派な言葉だ。


なぜ引用したかというと、わたしは、「あー!」も言葉であることを忘れていた。(えー!みんな気づいてたんですか!!!???)
ただ、言葉で言えてるじゃん、それでいいじゃんという話ではない。

あー!は言葉なんだけれど、あー!しか言いようのない心の内に、もう少し言葉を与えてあげたい。それは、あー!という言葉に対する冒涜かもしれない。だけれど、あー!に全てを託すしかなかった、あるいは、あー!と言う言葉にしてしまったばかりに削ぎ落とされていく何かにこそ、音楽が音楽である所以があるのではないのか、というわたしの妄想のため。

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人は感じる。言葉で理解する以下でも以上でもなく。「あー!」は何かを感じた結果である。では、あー!は、いつの時点で、あー!になるのだろう。

表現者があー!を表現したくて、そのままあー!部分をわたしが受け取ったから、あー!なのか。

表現者・対象から受け取ったものは、わたしの内っ側でもうすでに血となり肉となり言葉となっているが、そのプロセスを経た後最も適切な言葉として「あー!」が発せられたのか。

それとも、まだ言葉になっていないからあー!なのか。ということは、いつか言葉になるのか?(それだと言葉がすべてになってしまう?)

 

と、書きながら思ったけれど、これらは、時と場合によるかも。

 

から、なぜ音楽に対してそう思うかという、感覚の話を書きたい。

音楽を聴き終わった後に言葉にしようとするとき、音楽を聴いていた過去を辿ることで言葉を探しにいく。探しにいくと「あー!」という喃語のようなものしか見つからない。それはあー!以外に、語りうる言葉を知らないんじゃないか。なぜなら、音楽を聴き終わるのは、未来に体験することだから。未来の言葉を知らないのだ。(意味わかりますか??わたしはわからない!!)


もう1つ違う感覚の話。

音楽は目に見えないはずなのだけれど、見たことないどこかに連れて行ってくれると思うこともあって、何度か走馬灯のようなものを見たことがある。これは比喩なんだけれど、というか、走馬灯も見たことないのだけど、簡単にいうと「あーこれは走馬灯で見る景色なんだろうな」という感覚のこと。

見たことないものを見ている。未来を見ている、未来の言葉を知らない。だから、あー!としかやっぱり言いようがない。

 

「あー!」には、対象と出会った喜びとか嬉しさも隠れているのだけれど、どちらかというと、まだ見ぬものへの恐れ、畏れに似た感覚から引き起こされるもののような気がしている。

 

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「あー!」は「あー!」でいい。ああでもAhでも、人の嗚呼にとやかくいう気もない。なのだけれど、わたしはだんだん、言葉にならないことをあーと言っておけばいいになってはいないか?という自問自答を繰り返すようになっていた。言葉にすることから逃げていないか?と。

言葉にならないことは絶対にある。する必要のないことも絶対にある。言葉にするという暴力さえも頭をよぎる。なんて、考えすぎると「語りえぬことは沈黙しなければならない」byウィトゲンシュタイン、という語られすぎている一文が浮かんだりもする。でも、結局わたしはそれについても語ろうと試みていないよなあ、と脳内チャンバラを始める。

これは、もうはっきり言って埒があかない。それでも、諦められないところにわたしがいるのだから仕方がなくて、こんな怪文を書いてしまう。

 

なので、最近はいろんなアプローチから謎に向かうことにしている。

例えば、音楽で「あー!」と思ったのなら、「あー!」のままを冷凍保存して解凍は言葉ではなく、音楽で解凍すれば、できるだけ「あー!」の状態を保存できるのではないか。これなら、「あー!」を言える、と。(てか言う必要あるのか?)

でもね、じゃあ、やっぱり、音楽って何?となってくるので、これは最強に楽しい。意味がわからなくて。

と書いたところで、やっぱり、最初に戻る。

意味、以前、なんじゃないか。

 

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意味とかいうてるけど、意味なんてないさ!!!

じゃああんた、好きに理由とかあるんか???

聴きたいもん聴くし、ライブ行きたかったら行くし、歌いたかったら歌う!以上!

というわたしもわたしの中には存在する。けれども、なあ、ほんまなん?なあなあ?というわたしもわたしの中に存在する。二重人格ではないけど、好きなら好きでいいさ、の一本になれば楽なのになと思う。この矛盾がわたしなんだけど。

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あることを気にしていると、どこからともなくそのヒントがやってくることもある。

中原中也は『生と歌』という芸術論の中で、「あゝ!」について触れていた。

 

古へにあつて、人が先づ最初に表現したかつたものは自分自身の叫びであつたに相違ない。その叫びの動機が野山から来ようと隣人から来ようと、其の他意識されないものから来ようと、一たびそれが自分自身の中で起つた時に、切実であつたに違ひない。蓋し、その時に人は、「あゝ!」と呼ぶにとゞまつたことであらう。


然るに、「あゝ!」と表現するかはりに「あゝ!」と呼ばしめた当の対象を記録しようとしたと想はれる。

と。

「あゝ!」は叫びだ。「あゝ!」にこめるしかなかった叫びには、「あゝ!」と言わしめたそのままが密接に重なっている。その叫びの経験こそが表現の原点であり、「ただ叫びの強烈な人、かの誠実に充ちた人だけが生命を喜ばす芸術を遺した」というのが彼の主張だった。(めっちゃ雑にまとめると、芸術表現はどこから生まれていて芸術はどこに宿るのか、みたいな話。以上の引用は冒頭だけれど、後半は音楽論でもあって、形式とか理屈とか小賢しい評論してるよりか叫び自体の経験とそれを喚起した記憶と向き合え、叫びに似せる技の習得こそ芸術、とはいえ技巧だけちゃうねん。表現を表現しようとかちゃうねん。そもそもの”叫び””生命の叫びを歌ふ能力”についてはどうなんやワレ?という話、だと思っている。)

 

わたしのライブに行った時の「あー!」は叫びの類だ。言葉であることを忘れていたくらいだから、こっちの方が感覚的に近い。感動の中でも衝撃が大きいもの。言葉で説明できないけれど、その凄まじさみたいなものに触れた時のものだと思う。そこにおそらく意味はない。そして、それはきっと、音楽の部分なんだと思う。

 

だから、やっぱり、「あー!」は「あー!」なんだ。そして「あー!」は全てなんだ。音楽全て。

 

まとめが雑になってしまった。

だけど、わたしはわかっている。語り尽くせないところにあるものに、心底惹かれているんだということを。
逆に、音楽を全て語り尽くせたとしたら、わたしは生きることに耐えられないんじゃないか、とも思っている。

 

ちょうど読んでいた本に良い言葉が載っていたので、結局は言葉に頼ることにする。

「人はつねに愛するものについて語りそこなう」byロラン・バルト

 

以上、あー!をめぐるゴールのない迷宮について、もとい、音楽をどうとらえる、とらえたいのか、について。書くことでやっと次のステップに行けそうな気がする。

音楽を通して、いろんなことを感じたり考えたりわかりそこなったりすることが、わたしのライフワーク。

 




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