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『近畿地方のある場所について』(2025年)

 白石晃士の『近畿地方のある場所について』を観る。

 赤楚衛二演じるオカルト雑誌の編集者小沢は、夙川アトム演じる編集長佐山が雑誌「不思議マガジン」の特集記事を作成中に失踪したことをきっかけに、彼の残したさまざまな断片を掻き集めながら、上層部からの指示に従い、特集を引き継ぐことになる。菅野美穂演じるオカルトライターの瀬野は佐山とは旧知の仲であったためか、小沢とともに佐山の痕跡を辿っていくことになる。佐山が残したのは林間学校のビデオを始めとした「何か」に関する断片的な収集物であり、そこにはホームビデオらしきものもあれば、雑誌の記事、昔のテレビ番組もある。小沢はだんだんと佐山の残したものに取り憑かれるようにのめり込んでいくが、合わせて怪異現象も起こっていく。瀬野は小沢と協力して佐山の残した痕跡から、佐山自身がインタビューした相手にコンタクトを取るなど精力的に活動していくが、やがて小沢は精神に異常をきたすようになる。そして失踪した佐山の居場所を突き止めた二人は、目の前で妻とともに自死を果たした佐山を前に、その元凶である近畿地方のある場所に向かうことになる。そこで瀬野はかつて我が子を亡くしたことを小沢に語る。小沢は周囲で引き起こされる怪異を止めるべく、瀬野とともにさまざまな媒体で登場する御神体のような岩を探し求めていくが、やがてましらさまなどと作中では呼称される存在に出会い、岩に吸収される。すべては我が子と再会するために瀬野が仕組んだことであったのだった。

 背筋の原作は愛読しており、文庫版 近畿地方のある場所について (角川文庫)で語られたような、映画としてのストーリーラインを維持するためのパースペクティブが与えられることになる。

 瀬野と名指されることになる女性ライターの思惑を基軸に、かつての宗教団体への所属、子を失った母の幽霊、昔話として語られる近畿地方の怪談、それに伴って風習として残る子供たちの遊び、といった要素がコラージュされている。また、小説版では「性的」な要素というか痕跡がグロテスクにあった(そもそも小説版の冒頭はアダルトビデオのインターネットへの流出と、その違法サイトへの書き込みから始まる)ものの、それらの痕跡は映画版では消えている。また、怪談として語られる昔話の細部も異なっている。

 これはどういうことなのか、という点が一つ考える材料となるのではないか、と思っている。また、特に私は結論めいたものを持っているわけではないので、以下は取り留めのないメモのようなものである。

 私は映画版は映像メディアの話だと思っていて、本邦においてはホームビデオとかホームムービーとかの日常的な撮影はないものの、例えば2000年代くらいに隆盛を極めたブログ文化を始めとしたテキストベースの記録はあちこちに残っている。そこのリアリティは同時代に生きていた人間としては感覚として分かる。

 他方で映画で象徴的に使われることになる「ビデオ」すなわちVHSというものがあり、レンタルビデオが事業として成立していた時代に『リング』(1998年)が感染するメディアとして取り扱われた。それは後に『着信アリ』(2003年)などにも携帯電話へとモチーフを変え、続いていくことになる。ビデオデッキとブラウン管のテレビというモチーフ。

 また、同時にビデオを浸食するものとしてインターネットの勃興がある。ニコ生による凸映像が挿入されていたが、リアリティーとテンションは異常に高い。ビデオが怪異が「囁かれる」程度であることに対して、現代における映像メディアの扱われ方はやや差異があるようにも感じられる(しかし、これは印象のため誤りを含むかもしれない)。

 映画として語るにあたって、『残穢』(2016年)で採用された小説家による語りという方法ではなく、オカルト雑誌編集者とライターが収集した映像メディアを主軸に語ることを採用した。小説版はテキストベースであること、またカクヨムという小説投稿サイトというメディアの特性を活かして、さまざまなテキストベースからの媒体をモキュメンタリーとして活用した。

 おそらくここに性的な要素が語られなかった背景があろうかと思っている。直接的な要素を排除、という点。同時にこれはましらさまの存在を直接的に描かざるを得ない宿命と表裏であった。『残穢』がそういった超常的な存在を語りの手法のよって抑制的に描いたこととは対照に、『近畿地方のある場所について』では採用された語りによってそれと対峙せざるを得なくなった。そして、そのために小説版の冒頭部分にあった性的な要素を始めとした、インターネットにあった「いかがわしさ」のようなものが排除されることになった。

情けなさの意味

ある人から病について「若いのに情けない」と言われた。私は特段の反発を感じずに、たしかにそれは情けないだろうと思った。本来であるならば、生得的ではない病について当人の責を問うような意味を含む情けなさの標的とすべきではないだろうと思うところ、私は存外それは情けないのかもしれないと思った。

一つにはある人のパーソナリティーがあろうかと思う。そこで具体的な反論を行ったとしても、何ら有意なものにはならないだろうという予感が、私の反発を抑えた。二つにはその情けなさという言葉の持つ意外な響きに私が打たれたからである。三つには、コミュニケーションにおける適切性について、不可避的に発生しうる他者との摩擦についてどのように考えていくべきかを考えたからである。

一つ目については属人的な問題であろう。しかし、当人へのコミュニケーションを取ることの忌避感、あるいは深さについては一定の課題を残すことになる。二つ目については、情けないという何気ない言葉であるものの、どこか懐かしい響きを持つその言葉の射程はどういうものだったか、ということが想起された。祖母が以前に息子を指して情けないと言っていた。その情けなさは世間に対するものがあった。しかし、ここでの情けなさは世間一般で通常とされている水準感に対して劣後していることを指摘するものであろう。一人前という言葉があるが、一人前の人間であれば病気はしない、にもかかわらず、病気をしてしまった、ということについての感興なのだろうか。三つ目については一つ目のものと重複感はあるものの、遮断的なキャンセルカルチャーの持続性を思う。結果としてそれは言葉の持つ豊穣さを取り零してしまうことにならないか、とも思ったのであった。

言葉の、と書いたがそれは別に言葉ではなくとも良い。情けないという否定的かつ攻撃的な言葉であったが、それを向けられた当人は当事者性を持ち、かつ、シチュエーションとして一定の不適切性を認識していながら、それを興味深く感じたとき、果たしてそれはキャンセルされるべきなのか、というものであろう。

それこそ情けない事態なのではないか、とも思うのである。当事者において許容されるべき要件というものはかなりの権力に強いられる可能性を孕んでいるところが難しいが(権力勾配があればかなり安易に呑まされるものでもある)、同時にその権力勾配があったとしてもそこから得られる経験はありうる。個々のシチュエーションを吟味しないことには概説してどうこうと言いづらい部分がありつつ、同時に私は情けないという言葉の持つ広がりを享受はした。

人は言葉で構成されている。折に触れて思い返すのは投げかけられた言葉だ。言葉の持つ意味を信じる、ということを考えたとき、情けないという言葉は、あるいはその言葉の意味は一体どのようなものになるのか。

要約可能性と残骸

全文を読んでいない状態でこれを書くことが適切なのか、しかし一方で適切性というものは何によって担保されているのかすら分からないものの、ぼんやりと考えている方向感に合致したような、まさに言語化された、としか思えない気分があり、これはこのインタビューで言わんとしていることそのものではないのか、と思うことひとしきりであるのだが、この恥知らずな感覚は、だが一方で、たしかに身体的に感じられたものであることには疑いの余地はない。

 ――「言語化」ブームをどう見ていますか。

 言語化能力を付けたいというのは、「誰かが思っているであろうことを私が真っ先に言葉にしたい」という欲望だと思います。でも実際は、言語化という言葉は「私がこれを言語化しました」というかたちではなく、誰かに対して「言語化してくれてありがとう」と感謝する文脈で使われることが多いと思うんですよ。その裏側にある前提は、「みんなが同じことを思っている」ということです。それが不思議だなと僕は思うんですよね。

 「あなたの言語化能力はすばらしいですね」という褒め方は、「私も同じようなことを思っていたんだけど、私よりも先にあなたが言葉にしましたよね」ということだと思う。それは共感といえば聞こえはいいけど、嫉妬でもあるし、逆にいうと、そういうかたちでしか気持ちを確認できない、すごくさみしい状態だなと思うんです。

 ほんとうは、自分と同じことを相手が思っているわけがない。言語化された言葉を見て、同じことを思っていたような気がするだけです。だから言語化」ブームというのは結局、それぞれの内面的なものを平板化して、一つの型にはめようとする同調圧力の表れなのかなと思いますね。だからこそ、他人とちがう内面を持つと「思想が強い」と言われてしまう。そういう警戒感があるわけです。(福尾匠へのインタビュー記事「言語化」ブームの裏側にあるもの 批評家が語る「置き配的」な社会:朝日新聞、太字は引用者)

この指摘は端的に言って正しいように思う。言語化するということは要約可能性を上げることであり、それは「つまり」だとか「したがって」だとか、ある論理体系に自身と他者を招き入れようとすることに他ならない。

この共通化によって、私たちは私たちとしての感覚を共有することができることになる。渡邉雅子が論理的思考とは何か (岩波新書)でカプランの議論を敷衍しつつ整理したように、

論理的であること=「読み手にとって記述に必要な要素が読み手の期待する順番に並んでいることから生まれる感覚である」→論理的であることは社会的な合意の上に成り立っている(P.51、引用者注:傍点や太字といった文字飾りは省略)

ということなので、ここでいう言語化という意味を含意しているのは、社会的な合意の上で成り立つ論理的な構造を持つ文章や発話であろうと思われる。この論理性と同調圧力と名指されることになった言語化は一体的なのだろうと思うのであった。

当然のことながら、言語化可能である領域は要約可能性を高めていくことに他ならないわけであるが、その捨象は結果として多くの豊穣な含意を削ぎ落としていくことになる。よく分からないカオティックな状況が、一定の論理性によって言語によって再構成されていく過程において、取り出されたものの周縁にあった非言語的なものは要約が困難であるがゆえにあたかも存在しなかったもののように捨て置かれてしまうことになる。

言語化すること、という側面にあるものは常に非言語的なものを削ぎ落とし、一定のレベルまで抽象化した作業である、ということについては言葉を操る人間としては留意が必要であろう。言語化が得意である、ということは同時に、捨て置かれた残骸の山を前提としている。




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