赤楚衛二演じるオカルト雑誌の編集者小沢は、夙川アトム演じる編集長佐山が雑誌「不思議マガジン」の特集記事を作成中に失踪したことをきっかけに、彼の残したさまざまな断片を掻き集めながら、上層部からの指示に従い、特集を引き継ぐことになる。菅野美穂演じるオカルトライターの瀬野は佐山とは旧知の仲であったためか、小沢とともに佐山の痕跡を辿っていくことになる。佐山が残したのは林間学校のビデオを始めとした「何か」に関する断片的な収集物であり、そこにはホームビデオらしきものもあれば、雑誌の記事、昔のテレビ番組もある。小沢はだんだんと佐山の残したものに取り憑かれるようにのめり込んでいくが、合わせて怪異現象も起こっていく。瀬野は小沢と協力して佐山の残した痕跡から、佐山自身がインタビューした相手にコンタクトを取るなど精力的に活動していくが、やがて小沢は精神に異常をきたすようになる。そして失踪した佐山の居場所を突き止めた二人は、目の前で妻とともに自死を果たした佐山を前に、その元凶である近畿地方のある場所に向かうことになる。そこで瀬野はかつて我が子を亡くしたことを小沢に語る。小沢は周囲で引き起こされる怪異を止めるべく、瀬野とともにさまざまな媒体で登場する御神体のような岩を探し求めていくが、やがてましらさまなどと作中では呼称される存在に出会い、岩に吸収される。すべては我が子と再会するために瀬野が仕組んだことであったのだった。
背筋の原作は愛読しており、文庫版 近畿地方のある場所について (角川文庫)で語られたような、映画としてのストーリーラインを維持するためのパースペクティブが与えられることになる。
瀬野と名指されることになる女性ライターの思惑を基軸に、かつての宗教団体への所属、子を失った母の幽霊、昔話として語られる近畿地方の怪談、それに伴って風習として残る子供たちの遊び、といった要素がコラージュされている。また、小説版では「性的」な要素というか痕跡がグロテスクにあった(そもそも小説版の冒頭はアダルトビデオのインターネットへの流出と、その違法サイトへの書き込みから始まる)ものの、それらの痕跡は映画版では消えている。また、怪談として語られる昔話の細部も異なっている。
これはどういうことなのか、という点が一つ考える材料となるのではないか、と思っている。また、特に私は結論めいたものを持っているわけではないので、以下は取り留めのないメモのようなものである。
私は映画版は映像メディアの話だと思っていて、本邦においてはホームビデオとかホームムービーとかの日常的な撮影はないものの、例えば2000年代くらいに隆盛を極めたブログ文化を始めとしたテキストベースの記録はあちこちに残っている。そこのリアリティは同時代に生きていた人間としては感覚として分かる。
他方で映画で象徴的に使われることになる「ビデオ」すなわちVHSというものがあり、レンタルビデオが事業として成立していた時代に『リング』(1998年)が感染するメディアとして取り扱われた。それは後に『着信アリ』(2003年)などにも携帯電話へとモチーフを変え、続いていくことになる。ビデオデッキとブラウン管のテレビというモチーフ。
また、同時にビデオを浸食するものとしてインターネットの勃興がある。ニコ生による凸映像が挿入されていたが、リアリティーとテンションは異常に高い。ビデオが怪異が「囁かれる」程度であることに対して、現代における映像メディアの扱われ方はやや差異があるようにも感じられる(しかし、これは印象のため誤りを含むかもしれない)。
映画として語るにあたって、『残穢』(2016年)で採用された小説家による語りという方法ではなく、オカルト雑誌編集者とライターが収集した映像メディアを主軸に語ることを採用した。小説版はテキストベースであること、またカクヨムという小説投稿サイトというメディアの特性を活かして、さまざまなテキストベースからの媒体をモキュメンタリーとして活用した。
おそらくここに性的な要素が語られなかった背景があろうかと思っている。直接的な要素を排除、という点。同時にこれはましらさまの存在を直接的に描かざるを得ない宿命と表裏であった。『残穢』がそういった超常的な存在を語りの手法のよって抑制的に描いたこととは対照に、『近畿地方のある場所について』では採用された語りによってそれと対峙せざるを得なくなった。そして、そのために小説版の冒頭部分にあった性的な要素を始めとした、インターネットにあった「いかがわしさ」のようなものが排除されることになった。