X(旧Twitter)にて、高野山の名僧・添田隆俊前官様が修行について解説された大変貴重なお話を紹介されている投稿を拝見いたしました。
とても心に響く公益的な内容でしたので、皆様の一助になればと思い、また一つの宗教的基準として当庵でもご紹介いたします。
『空海と真言密教』読売新聞社 1982年11月15日第1刷 P52より
この人に聞く 高野山専修学院長・大僧正 添田隆俊
同じことをくり返すことが一番大切な修行です
私の一番中心のモットーは、坊さんは何が何でも朝のお勤めをするということですね。
それを一生涯、無事にできれば、ありがたいこと、それは仏さんの御利益によることで、自分の力だけではなかなかできないことです。
風邪をひいたとか頭が痛いとかいうことになりますね。
三百六十五日、朝のお勤めで、本尊様にご挨拶するのは、坊さんとして当然しなくてはいけないことです。
それを五十年位前の管長さんたちは実に厳粛になされていたですね。
ちょっとぐらい熱があったって、お師匠さんがとめたって、生きている間は絶対に挨拶せねばいけない。
五分でも十分でも、そしてまた、帰ってきて寝てもかまわない。
生きている以上は挨拶しなければいけない。
修行するということは、生まれてから今までやってきた事柄、見たり聞いたりしたことをよく整理して、それを反省することです。
水をかぶったり断食したりするのは特別なことです。それは本当の修行じゃない。一般には真似できない。やはり修行というものは誰でもできるものでなければ修行にならない。
本当の修行というものは、自分の経験というものを整理して、それを毎日、整理していくことです。
それが本当の修行です。
お経を講釈したりするのは学者がやることです。
経験・知識を豊富にしたってだめです。
経験・知識を離れなければだめです。
仏教だったら禅宗ばかりが坐禅するわけじゃない。
すべての仏教、宗教というものは、坐禅というか、心を統一することが基本です。
それを通って、どうするか、ということでなければなりません。
だから、どんな人にとっても、お経を誦(よ)むということは、自分の心を統一する手段です。
むずかしい修行は誰もできません。
誰でもできることをやる、そういう点が一番大切です。
修行は専修学院だけで、あとは一生涯、ーぺんも、故郷(くに)へ帰っても遭遇することがない、なんていうのは駄目です。
専修学院の日常生活は、故郷へ帰っても、毎日、日常生活の延長である、というのが本当です。
修行というものは、一生に一ぺんしか遭遇しない、というものではありません。
二十四時間いつでも遭遇するチャンスがある。
それをうまく整理して統一して、今までのことを一層、明日に活かしていく努力、それが修行です。
昨日までのことをどうして今日と明日に活かしていくか、どれを進んでやるべきか、よく整理して個人個人がやるべきです。
人にいわれたからやるというのでは駄目です。心の整理です。
心というものは、一生に一ぺんぐらい経験したのでは駄目です。
毎日毎日、くりかえすことによって力が出てくるのです。
念力というのはそういう所から出てくるのです。
同じことを毎日、規則正しく、目的がなくてもいい、想(おも)う、仏様の姿を想う、それをやっているうちに、だんだん力が出てくる。
心というものは、同じことを二年三年四年、ずっと続けたら必ず力が出てきます。
その力が出るまでやらねばなりません。
そこに修行がある。
断食を十日や十五日やったら仏様が出てきたなどというのは嘘です。
そんなことではない。
その人の一生涯をかけて、長い時間をかけて、蓄積された心の重みというものがなければいけません。
想うということは、形もなければ重さも何もない。
それが長いこと同じことをずっとやっていると必ず形になり、重さというものが出てきます。
それが本当のわれわれの目的です。
だから、同じことをくり返すということが、一番大切な修行の信心(しんじん)ですね。
何を信心するかというと、同じことをくり返すことをです。
それはなんのためにやるかという理屈ではないし、われわれの理性的な経験・知識から割り出したものでもありません。(談)
