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天正18年6月28日加藤清正宛豊臣秀吉朱印状

 

 

 

関東御陣為見舞、使者殊筒*1服一・帷子百到来、遠路切〻懇志思召候、仍此表之儀、弥無残所被仰付候、武州鉢形城*2北条安房守*3居城候、被押詰、則可有御成敗と被思召候処ニ、命之儀被成御助候様ニと、御侘言*4申上二付、去十四日城被請取候、安房守剃髪山林*5候、同国八王子城要害堅固二付、敵歴〻*6之者共余多楯籠候条、越後宰相中将*7・加賀宰相*8・越中侍従*9・木村常陸介・山崎志摩守*10ニ被仰付、去廿三日則時責崩、悉討果、大将分十人、其外弐千余討捕之、討捨追討等不知其数候、妻子・子・足弱*11迄も悉被加御成敗候、同国忍城之儀、浅野弾正少弼*12・石田治部少輔*13ニ佐竹*14・結城*15・宇都宮*16・多賀谷*17・水谷*18・真田*19・佐野*20以下被仰付、水責仕候、城中ゟ様〻御侘言雖申上候、不被聞召入候、付井*21城ハ家康内本田*22・鳥居*23・平岩*24ニ被為*25取巻候、韮山*26之儀者北条美濃守*27此中御侘言申上候、彼者事最前上洛仕、被成御覧候故、不便*28ニ被思召、命被成御助候、剃頭高野*29*30候、然者小田原*31一城落居*32不可有程候、城内下〻計略申分色〻雖有之、不被入*33聞召入候、悉可被干殺御覚悟*34候、弥以出羽・奥州迄平均静謐候、伊達*35・山方*36・南部*37以下令参陣候、当表被成御仕置、至于会津*38被移御座、両国御掟堅可被仰出候、随高麗人渡海*39之由候、着岸次第可召具旨、小西*40かたへ被仰出候、其元之儀、馳走専一候、猶増田右衛門尉*41可申候也、

 

  六月廿八日*42 (朱印)

 

    加藤主計頭

          とのへ*43

(四、3276号)

 

(書き下し文)

 

関東御陣見舞いとして、使者ことに道服一・帷子百到来、遠路切々懇志に思し召し候、よってこの表の儀、いよいよ残るところなく仰せ付けられ候、武州鉢形城北条安房守居城に候、押し詰められ、すなわち御成敗あるべくと思し召され候ところに、命の儀お助けなされ候ようにと、御侘言申し上ぐるにつき、去る十四日城請け取られ候、安房守剃髪山林候、同国八王子城要害堅固につき、敵歴々の者どもあまた楯て籠り候条、越後宰相中将・加賀宰相・越中侍従・木村常陸介・山崎志摩守に仰せ付けられ、去る二十三日則時に責め崩し、ことごとく討ち果たし、大将分十人、そのほか二千余これを討ち捕り、討ち捨て追い討ちなどその数を知らず候、妻子・子・足弱までもことごとく御成敗を加えられ候、同国忍城の儀、浅野弾正少弼・石田治部少輔に佐竹・結城・宇都宮・多賀谷・水谷・真田・佐野以下仰せ付けられ、水責め仕り候、城中より様々御侘言申し上げ候といえども、聞し召し入られず候、付井城は家康内本田・鳥居・平岩に取り巻かせられ候、韮山の儀は北条美濃守この中御侘言申し上げ候、彼の者のこと最前上洛仕り、御覧なされ候ゆえ、不便に思し召され、命お助けなされ候、剃頭高野栖み候、しからば小田原一城落居あるべからざる程に候、城内下々計略申し分いろいろこれあるといえども、聞し召し入れらず候、ことごとく干し殺さるべく御覚悟に候、いよいよもって出羽・奥州まで平均静謐に候、伊達・山方・南部以下参陣せしめ候、当表御仕置なされ、会津にいたり御座移され、両国御掟堅く仰せ出でらるべく候、したがって高麗人渡海の由に候、着岸次第召し具すべき旨、小西方へ仰せ出だされ候、そこもとの儀、馳走専一に候、なお増田右衛門尉申すべく候也、

 

(大意)

 

小田原攻めの見舞いとして、道服ひとつと帷子100を持たせた使者が到着した。遠路はるばる懇志である。さてこちらの戦況について。鉢形城は北条氏邦の居城である。攻め滅ぼすつもりだったが、「命ばかりはお助けを」と願い出てきたので、去る14日に降伏を認め城を請け取った。氏邦は頭を剃り寺に入ることとなった。また八王子城は堅固な要塞で敵勢の重立った者が立て籠もったので、景勝・利家・利長・常陸介・片家に命じ、去る23日に攻め落とし、ことごとく討ちとった。大将クラスの頸を10、そのほか2000ほどの頸を討ちとり、切り捨てて追い討ちをかけ討ちとった者の数は知れないほどである。さらに城内に立て籠もっていた妻子や子ども老人まで皆殺しにしてやった。さらに忍城の方は佐竹氏ら関東勢を長吉や三成が指南として水攻めしている最中である。城内から降伏の申し出はあるが一切認めていない。津久井城は家康家臣の本多らに包囲させ、韮山城は氏規が降伏した。彼の者は以前北条氏の上洛を求めた際に一度面会しているので哀れに思い、命を助け高野山へ入れることとした。したがって小田原城ただ一城のみが平穏無事であることなどありえない。城内や下々の者は企みや意見も様々だろうが一切聞き届けず、飢え死にさせるつもりだ。いよいよ次は奥羽を平定し、政宗・義光・信直を参陣させ、会津に移動し、両国の統治をしっかり行う。したがってそちらも朝鮮からの使節が着岸し次第連れてこさせるよう行長に命じたので、そなたも一層注力しなさい。詳しくは長盛が口頭で伝える。

 

 

 

 

Fig. 天正18年6月28日の豊臣軍展開図

 

                         横浜市歴史博物館『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

清正に鉢形、忍、八王子、津久井、小田原の各城の戦況を伝えた文書である。

 

下線部①では八王子城を23日に攻め落とし、大将10人分を始め、2000もの首級をあげ、落城後も追撃を加え、無数の兵士を討ちとったと認めたあと、城内に立て籠もっていた老若男女を皆殺しにしたと記している。

 

②では次に奥羽を平定し同時に伊達、最上、南部らを佐竹氏ら同様参陣させるとしている。豊臣政権では軍役を負担することが臣従の証しとなるので、「参陣」させることがその要となる。

 

③では唐入の準備を入念にせよと命じている。

 

 

 

*1:

*2:下図参照、以下同様

*3:氏邦

*4:降伏の申し入れを攻撃側が「侘言」という

*5:入山する=寺に入る

*6:身分の高い者、ここでは北条氏の重臣クラス

*7:上杉景勝

*8:前田利家

*9:前田利長

*10:片家

*11:健脚な者を「足強」と呼ぶのに対し脚力の弱い者、老人

*12:長吉

*13:三成

*14:義重

*15:晴朝

*16:国綱

*17:重経

*18:勝俊

*19:昌幸

*20:房綱

*21:相模国津久井

*22:本多忠勝

*23:元忠

*24:親吉

*25:使役の助動詞。E.g.「為替」

*26:伊豆国

*27:氏規

*28:フビン。不憫

*29:紀伊国高野山金剛峯寺

*30:ずみ。住処とする

*31:相模国

*32:「平穏である」と「落城する」という正反対の意味があるが前者を採用する

*33:衍字

*34:心構え

*35:政宗

*36:最上義光

*37:信直

*38:陸奥国

*39:朝鮮人からの使節

*40:行長

*41:長盛

*42:天正18年、グレゴリオ暦1590年7月29日、ユリウス暦同年同月19日。この時点でユリウス暦は10日遅れているが128年ごとに1日ズレが大きくなり、現在は13日遅い

*43:清正




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