武州岩付城*1二三之丸迄追破、頸数多*2討捕之旨、浅野弾正少弼・木村常陸介かたゟ昨夕註進候ニ付而、様躰*3被仰含*4、御上使*5両三人*6被差越候、其趣弾正・常陸可申聞*7候、各同前ニ無由断城取詰*8、一人も不洩可討果候、女子共ハ悉此方へ可差越*9候、引散*10候者可為越度候、委細両三使可申候也、
五月廿二日*11 (朱印)
本田中務少輔とのへ*12
鳥居彦右衛門尉とのへ*13
平岩七介とのへ*14
(四、3220号)
(書き下し文)
武州岩付城二三の丸まで追い破り、頸あまた討ち捕るの旨、浅野弾正少弼・木村常陸介方より昨夕註進候について、様躰仰せ含められ、御上使両三人差し越され候、その趣弾正・常陸申し聞くべく候、おのおの同前に由断なく城取り詰め、一人も洩らさず討ち果すべく候、女・子どもはことごとく此方へ差し越すべく候、引き散らしそうらわば越度たるべく候、委細両三使申すべく候なり、
(大意)
武州岩付城二の丸、三の丸まで攻め落とし、頸を多く討ち取ったとのこと、浅野長吉・木村常陸介より昨日夕刻に報告があり、二三名の使者にその戦況を申し含めそちらに遣わした。使者を送った件については長吉・常陸介がそなたたちに申し聞かす。それぞれこれまで同様油断なく城を攻め立て、一人も洩らさず討ち果たすように。女・子どもはすべてこちらへ送るように。紛失した場合は越度とする。詳しくは使者が申す。
図. 武蔵国埼玉郡岩付城周辺図

充所の三名は家康の家臣である。家康軍は豊臣軍とは独立した指揮系統にあったことはこれまでも指摘してきた。
さて「北条記」は岩付落城についてこう記す。
浅野弾正本城に入り籠りし女童部を穿鑿*15して、よき侍の妻子共を捕へ小田原表へやり
『戦国史料叢書 第2期 第1』203頁
浅野長吉は城内に立て籠もっていた女童部を品定めした上で、小田原の秀吉の本陣ヘ送り届けたと。「女・子どもはことごとく此方へ差し越すべく候」を秀吉の意図がどうであれ長吉はそのように理解したようだ。当時の戦争における習慣を示していて興味深い。女装して城から落ち延びるという筋書きがいかに荒唐無稽かを示して余りある。