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天正18年5月20日浅野長吉・木村常陸介宛豊臣秀吉朱印状(4)

 

 

 

(承前)船を被遣、高松城主*1腹をきらせられ候て、毛利をゆるさせられ、彼逆徒等明智*2可刎首事こそ、道の道*3にて候と被思召、高松の城・其外之城〻被請取、不移時日馳上、光秀被刎首候事を、両人*4ハ忘申候哉、自然*5両人家中にも覚候者有之ハ相尋、鉢形の城*6可取巻儀可有之候哉、景勝*7・利家*8ニ可入合*9申候由こそ、堅被仰出候ニ、安房国堺目・常陸国堺目迄*10、彼おとり人数*11を召連相越、持かね*12候城を請取候儀、天下之手柄にハ成申間敷候哉、城相渡者有之ハ、鉢形城を取巻候上にてそれ/\ニ上使*13ニ二百三百宛そへ*14、人数を遣、うけ取候てこそ可然候か、敵有之所ハ差置*15、二万計の人数を召連あるき*16候事、御分別*17無之候事、

 

 

(書き下し文)

 

(承前)船を遣わされ、高松城主腹を切らせられ候て、毛利を赦させられ、彼の逆徒ら明智首を刎ねるべき事こそ、道の道にて候と思し召され、高松の城・そのほかの城〻請け取られ、時日を移さず馳せ上り、光秀首を刎ねられ候事を、両人は忘れ申し候か、自然両人家中にも覚え候者これあらば相尋ね、鉢形の城取り巻くべき儀これあるべく候か、景勝・利家に入り合い申すべく候由こそ、堅く仰せ出だされ候に、安房国堺目・常陸国堺目まで、彼おとり人数を召連相越、持かね候城を請け取り候儀、天下の手柄にはなり申すまじく候か、城相渡す者これあらば、鉢形城を取り巻き候上にてそれぞれに上使に二百三百宛添え、人数を遣わし、請け取り候てこそしかるべく候か、敵これあるところは差し置き、二万ばかりの人数を召し連れ歩き候事、御分別これなく候事、

 

 

(大意)

 

(承前)船を遣わし、高松城主の清水宗治に腹を切らせることで毛利を赦免し、逆徒である明智光秀の首を刎ねることこそ道理であると考え、高松城やそのほかの城を請け取ったあと、時を移さずに上洛し、光秀を討ち取ったことをそなたら両名は忘れたというのか。万一常陸介・長吉両名の家中にも記憶がある者がいればその者にその時のことをよく尋ねて、鉢形城を包囲すべきか、景勝や利家と合流するよう堅く命じたのに、安房や常陸の国境まで少ない軍勢を連れて行き、落城間近の城を請け取ることなど天下の手柄になるまいか、城を明け渡す者がいれば、鉢形城を包囲し、それぞれの使者に200~300の手勢を添えて城を請け取ることこそ然るべきことではないか、敵がいるところを放置して、2万ほどの軍勢を連れてあちらこちら移動することは自分の本意とするところではない。

 

 

 

図. 5月20日までの浅野長吉軍の進路

 

                横浜市歴史博物館編『秀吉襲来』54頁、1999年より作成

 

秀吉は木村常陸介・浅野長吉の進軍が、安房国境*18や常陸国境付近ばかり攻めていて、上杉景勝や前田利家が手こずっている鉢形城へ向かうのを避けているではないかと叱責しているようである。その際に信長臣下時代の播磨三木城の干殺しや因幡鳥取城の飢え(かつえ)殺し、備中高松城の水攻め、さらには「逆徒」明智光秀の首を取らんと時日を移さず上洛したことなどかなり自慢話をしている。

 

 

*1:清水宗治

*2:光秀

*3:道理に適っている

*4:木村常陸介・浅野長吉

*5:もし、万一

*6:武蔵国大里郡、下図参照

*7:上杉

*8:前田

*9:合流する

*10:下図参照

*11:劣る人数=少ない人数

*12:兼。もたない

*13:じょうし。上級権力者から公命を帯びて派遣される使者

*14:添え

*15:そのままにする、放置する

*16:歩き。あちらこちら動き回る

*17:「御」が付いているので秀吉の意思

*18:上総国境というべきところか




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