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天正18年5月20日浅野長吉・木村常陸介宛豊臣秀吉朱印状(3)

 

 

 

一、ひたち*1・弾正*2一人の人数ほともたせられ候時さへ、三木の干殺*3、鳥取のかつや*4かしころし*5、十三か国*6持候毛利を、六丁七町*7之内ニ、五万六万の人数を後巻二うけさせられ候てさへ、高松城*8を水責ニさせられ、太刀も刀も不入、水をくれ候て可被成御覧と被思召候刻、両人の者*9ハ存候哉、摠見院殿*10六月二日*11御腹をめされ候事、三日の晩二彼高松表へ相聞候時、右之高松城主*12水をくらひ可死事ハ無念次第候間、船を一艘被下候ハヽ、御前にて腹をきり申度候由、御歎*13申候といへとも、二日の日御腹をめされ候ニよて相ゆるし、舟を遣、腹をきらせ候と、敵味方の諸卒存候てハと被思食候て、六日の日迄ふねを不被遣候処ニ、毛利方ゟ国を五ヶ国、彼高松城二相添進上可申旨、種〻懇望申候間、(長いのでここで一旦区切る)

 

 

(書き下し文)

 

一、ひたち・弾正一人の人数程持たせられ候時さへ、三木の干殺し、鳥取の渇やかし殺し、十三か国持ち候毛利を、六丁七町のうちに、五万六万の人数を後ろ巻きに受けさせられ候てさえ、高松城を水責めにさせられ、太刀も刀も入らず、水を呉れ候て御覧ならるべしと思し召され候きざみ、両人の者は存じ候か、摠見院殿六月二日御腹を召され候こと、三日の晩に彼の高松表へ相聞え候時、右の高松城主水を喰らい死すべきことは無念次第に候あいだ、船を一艘下されそうらわば、御前にて腹を切り申したく候由、御歎き申し候といえども、二日の日御腹を召され候によって相赦し、舟を遣わし、腹を切らせ候と、敵味方の諸卒存じそうらわではと思し食めされ候て、六日の日まで舟を遣されず候ところに、毛利方より国を五ヶ国、彼の高松城に相添え進上申すべき旨、種〻懇望申し候あいだ、(長いのでここで一旦区切る)

 

 

 

(大意)

 

一、常陸介・長吉それぞれ一人に与えられた軍勢で毛利領国への派兵を命じられたときですら、播磨三木城の干殺し、因幡鳥取城の飢え殺しを行い、十三ヶ国持つ毛利軍によって6~7町(600~700メートル強)後で5~6万の軍勢で後方を包囲される不利な状況においてすら、備中高松城を水攻めにし、太刀も刀もいらず、水を与え高みの見物を決め込んでいた事を両名はよもや忘れているわけではなかろう。信長様が天正十年六月二日に御自害されたことは、翌三日の晩にはかの高松城も知っていた。高松城主清水宗治は水攻めで死ぬことは無念であるから、船を一艘寄越してくだされば、秀吉の目の前で腹を切りたいと歎願しているが、二日に宗治が腹を切ることで他の兵の命は助け、船を遣わせて、腹を切らせるようにと、敵味方の末端の兵士に至るまで知らなかったでは思い、六日までに舟を遣わさなかったところ、毛利方より五ヶ国、高松城に添えて進上すると申し出てきたので、(長いのでここで一旦区切る)

 

 

 

 

図.毛利領国13ヶ国

 

 

表.1582年10月のカレンダー

 

              「グレゴリオ暦」Wikipedia日本語版より作成

 

木村常陸介・浅野長吉に対し、かつて自分がいかに奮戦したかを述べているだけで、特に論ずべき点はない。

 

*1:木村常陸介

*2:浅野長吉

*3:天正6年(1578)から同8年の播磨三木城攻め

*4:渇や=飢渇、飲食物を欠乏させること

*5:因幡国邑美郡鳥取城の「飢え(かつえ)殺し」

*6:但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、石見国、播磨国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、長門国。隠岐国は数に入っていないのか?下図参照

*7:「丁」=「町」は長さの単位。1町=60間=360尺=109メートル

*8:備中国賀陽郡

*9:木村常陸介と浅野長吉

*10:織田信長

*11:天正10年、ユリウス暦1582年6月21日。グレゴリオ暦では1582年7月1日にあたるが、同年10月4日木曜日の翌日を10月15日金曜日としてからがグレゴリオ暦の始まりである。下表参照

*12:清水宗治

*13:懇願する、哀願する




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