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天正18年4月日伊豆国田中郷大仁村宛豊臣秀吉禁制

  

 

 

       条〻 

                伊豆国

                   田中郷内大ひと*1*2

 

 

一、地下人百姓等急度可令還住事、

 

一、軍勢甲乙人*3、還住之百姓家不可陣取事

 

一、対土民百姓自然*4非分之儀申懸之族在之者、可為一銭切*5、并麦毛*6不可苅取事

 

右若於違犯*7之輩者、速可被加御成敗者也、

 

   天正十八年卯月 日 (朱印)

(四、3158号)

 

 

 

(書き下し文)

 

       条〻 

                伊豆国

                   田中郷のうち大仁村

 

 

 

一、地下人・百姓などきっと還住せしむべきこと、

 


一、軍勢甲乙人、還住の百姓家陣取るべからざること

 


一、土民・百姓に対し自然非分の儀申し懸くるの族これあらば、一銭切たるべし、ならびに麦毛苅り取るべからざること

 


右もし違犯の輩においては、速やかに御成敗を加えらるべきものなり、

 

 

(大意)

 

       条々      伊豆国田中郷の内大仁村

 

一、地下人・百姓などかならず還住させること。

 

一、豊臣軍の兵士が、還住した百姓の家に陣取ってはならない

 

一、土民や百姓に対して万一謂れのないことをいう豊臣軍兵士がいたならば「一銭切」に処す。また麦穂を刈り取ってはならない

 

右の旨に背く者がいれば、速やかに処罰するものである。

 

 

 

本文書の所付である大仁村の位置は下図の通りである。

 

図. 伊豆国田方郡田中郷内大仁村関係図

 

                 『日本歷史地名大系 静岡県』より作成

4月付で秀吉から発給された禁制は下表の通りで、少なくとも139通を超える。未発見のものや破棄されたもの、浅野長吉など家臣が発給した禁制も考えると相当数に上り、伊豆、相模、武蔵の郷村をほとんど網羅したと思われる。在地支配が殲滅戦でない戦争においてきわめて重要であることは論を俟たない。

 

話は大きく横道に逸れるが、ウクライナ映画「バンデラス」ではドネツク/ドネツィクやルガンスク/ルハンシクなど東部の住民に親ロシア派が「キエフはファシスト政権である」と信じさせているシーンがある。最後は証拠隠滅すべく住民を親ロシア派が一斉砲撃し、村を焼き払って終わるのだが。このシーンは現地住民の支持、つまりなんらかの「正当性」がなければ軍事的に圧倒しても、戦後処理で大きく躓くことになることを示している。「世界の警察」たる米軍がアフガニスタンやイラクで泥沼にはまったのと同様である。

 

 

表. 天正18年4月日づけ秀吉発給禁制一覧

 

                秀吉文書集四-3048~3188号、同八-6121号より作成



伊豆国に「箱根」と「真鶴」を含んでいることに違和感を覚える向きもあるだろうが、そこは当時の秀吉や上方の認識が「その程度」であり、またそれで特に支障がなかったことを示している。現実に国境や郡境、村境を争うのは百姓であり、秀吉を含む領主はそれを裁定することで「公儀」=支配者となったからである。

 

この時発給された禁制は三ヶ条という様式で統一されているが、上表のように放火の禁止と還住した百姓の家に陣取りすることの禁止に分類される。当時はまだ軍律が定められはじめた、統率のとれない兵士ばかりだったので、こうした禁制を発しなければならなかった。本文書では一条目で百姓を還住させ、農業の復興を図ろうとしても、その百姓の家に陣を取る、すなわち百姓を追い出す行為が常態化していたのでこうした内容に切り替えたのだろう。軍隊は「移動する大都会」*8なので、宿不足のような一種の都市問題を引き起こすことは必然であった。

 

藤木久志氏は戦国期の軍隊が統率のとれない傭兵集団であると再三にわたって指摘しているが、氏が紹介された事例を二つほど見ておきたい。

 

ひとつは「応仁記」に「諸大名の軍勢と京中辺土*9の乱妨人*10、乱れ入りて数日を経て取るあいだ、諸商人これを受け、奈良と坂本には日市を立てぞ売りける」と掠奪したそばから商人が家財や男女を買い受け、奈良や近江坂本のような交通の要衝にはこれらを売買する定期市が立ったと記された事例である*11。応仁年間すでに掠奪品の流通ルートが張り巡らされていたことになる。

 

今ひとつは土佐一条氏との戦において伊予国の土居氏部将の桜井某が自軍に向けて「下々の乱取りするを、そのままに置き、心任せにせよ」と掠奪することを放置した事例である。農書「清良記」でも知られる土居清良は桜井のこの行いを咎めると、彼は進んでこう反論したという。

 

 

下〻は、かようのことに利を得させねば、勇まず…法度を強くすれば、気を屈し、かつて徳*12なきと思い、ひそかに伏す*13常には、乱取りなどのこと、堅く無用と戒め置き、さて間に見合わせて、これを許す。何事にも一概には定がたし、時宜によると心得られよ、

 

(藤木『土一揆と城の戦国を行く』130~132頁、朝日選書、2006年)

 

 

すなわちふだんは軍律で掠奪を禁ずるが、時々黙認せねば末端の兵士は動かないといい、掠奪が末端の兵士にとって当然の権利だった実態を吐露している。軍事指導者たる者これを見極め、時には手綱を緩めることで士気を上げることが必要であるというのである。

 

以上のことから本文書の1条と2条で還住した百姓を「保護」し、荒廃した田畠を復興させようとした秀吉の意図を読み取ることができる。それは反面で兵士の統率が難しかったことをも示している。軍律や禁制、さらには社会規範や共有されている倫理観などは「あるべき理想像」*14を示しているに過ぎず、それが現実「~である」*15を示す保証はどこにもない。むしろその正反対である。

 

 

そもそも戦争のあり方も歴史的状況により大きく変化していることから原始的な戦争は掠奪を目的として行われたものだったのではないか、というのが本ブログの仮説である。

 

次に3条の「付けたり」を問題とする。4月=初夏は端境期にあたり百姓の死亡率が高く、冬蒔き小麦の収穫は生死に直結する。それを豊臣軍の兵士が刈り取ったりすれば第1条、第2条で還住させた百姓の生活基盤を破壊することになる。つまり死文化させないための「付けたり」だったのである。

 

 

*1:

*2:下図参照

*3:「甲の人や乙の人」=「少年A」のように不特定多数を表す用語。ここでは末端の傭兵のような兵士を指す

*4:もし、万が一

*5:一銭でも盗めば斬罪に処するという新井白石の解釈と「切」とは「限り」の意味で犯人の財産を一銭残らず没収するという伊勢貞丈の解釈があるがはっきりしない。「厳罰に処す」という意味では変わりない

*6:水田裏作の冬蒔き麦。麦を刈り取る季節を「麦秋」といい、初夏=4月を指す。「秋」は夏と冬の中間を指すだけでなく作物の収穫期も意味する

*7:イボン

*8:大久保桂子「戦争と女性・女性と軍隊」、『岩波講座世界歴史』25巻、1997年所収

*9:田舎

*10:掠奪を目的とする人々

*11:藤木『戦国の村を行く』139頁、朝日新書、2021年。初出は1997年

*12:=得

*13:敵に降伏する

*14:sollen

*15:sein




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