北条氏規印判状写
陣触
此方*1為被官者ハ、御崎*2・小田原*3ニ被為移候間、妻子・郎党・兵粮・荷物以下、小田原御講*4ニ入、小屋懸ニ而致御用等*5、可走廻*6者也、仍如件、
寅正月四日*7(氏規朱印「真実」)
長谷川*8奉
海老名五郎右衛門殿*9
(『静岡県史 資料編8 中世4』972頁)
(書き下し文)
北条氏規印判状写
陣触
この方被官たる者は、御崎・小田原に移らせられ候あいだ、妻子・郎党・兵粮・荷物以下、小田原御構いに入れ、小屋懸にて御用などを致し、走り廻るべきものなり、よってくだんのごとし、
寅正月四日(氏規朱印「真実」)
長谷川奉る
海老名五郎右衛門殿
(大意)
北条氏規印判状の写
陣触
私の被官である者は三崎城や小田原城に移動させたので、妻子や郎党、兵粮や荷物などを小田原惣構の中へ運び入れ、仮小屋などを懸けて御用を勤め、奔走すべきである。以上。
長谷川九郎左衛門尉が本文書を承った。
海老名五郎右衛門殿
本文書は「寅」のみであるが小田原北条氏宗家の発給文書は「年号月日」ではなく「干支月日」で発せられることが多い。漢字文化圏において太陰太陽暦であることは共通していても、王朝や政権により年号や閏月は異なっていた。そこで年号を用いず十干十二支で年代を記せば閏月はともかくとしても、対外貿易など「国際的」に通用する。実際小田原北条氏は中国との貿易を盛んに行っていた。ちなみに下表のように天正10年、北条氏は「閏12月」を採用した。暦はきわめて政治的・宗教的である*10と同時に農耕などにおいて極めて実用的な意味をもっていた。したがって太陽暦が採用されても1980年代まで多くの地方の年中行事は旧暦にもとづいて行われていた。1966年「丙午」の出生率が大幅に減少したこともそうした点から考えれば十分に納得できるだろう。
表1. 天正10年「閏12月」か天正11年「閏1月」か、発給人別通数

ところで小田原城の惣構を山の上から一望した経験をお持ちの方々は、その規模の大きさに驚かれたことと思う。かくいう自身も惣構を俯瞰した時の印象は強烈である。小田原市教育委員会のサイトから画像を引用する。
図1. 小田原城惣構

図2. GooleMapより見た小田原城惣構の規模

図3. 小田原城と三崎城の位置

宿場町のみならず郷村をも囲い込む規模である。籠城戦に備えて要塞を大規模化し守りを固めた、あるいは領民を中に収容するスペースを設けて「保護」したという側面もあろう。しかしそれだけ町や郷村が戦場となる可能性が高くなり、近現代の「市街戦」*11のような凄惨な結果を招きやすいことも確かである。戦争は領国内外の人々を否応なく巻き込んでゆくものであることを忘れてはなるまい*12。
大久保桂子「戦争と女性・女性と軍隊」*13は16世紀ヨーロッパの軍事力が10万を超えるようになるが、それは常備軍などではなく「企業体」の集合によって行われていたと指摘し以下のように述べる。
「常備軍」の内実は、戦争を商売とする事業家が、社会の底辺で生活を維持できずにいる労働者を雇い、戦利品を主な利益として期待する、いささかギャンブル的な企業体の連合であり、「国家」はこの企業体に戦争という「業務」を委託し、最低限の保証金を支払ったにすぎない。
このような企業体が数万の大軍を構成して戦地を進軍すれば(中略)食糧はもちろん、寝る場所の確保さえ困難をきわめ、略奪が横行する。ある程度組織化された軍隊であれば、食糧や武器をはじめとする必要物資の確保は私的な請負業者に依存しており、このような請負業者は、軍隊とともに移動し、進軍先で物資を調達することになっていた。しかし大都市の住民に匹敵する数の軍に毎日食糧を供給することが、容易であったはずがない。軍隊は地域依存型の資源搾取によって、かろうじてその存在を支えていたにすぎない*14
このような軍隊を大久保氏は「移動する大都会」と呼んでいる。豊臣軍はまさにこの意味において「移動する大都会」であり、迎え撃つ小田原北条氏の惣構もまた「城郭都市」と呼ぶにふさわしい規模を誇る*15。
この大久保氏の指摘を踏まえて本文書を読んでみよう。
氏規の被官はすべて三崎城と小田原城に移ったので、そなたも妻子・郎党、兵粮・荷物などを惣構の中に運び込み、仮小屋住まいであったとしても北条氏のために奉公せよ、という趣旨である。
「兵粮・荷物」とあるからこれらが自弁であったことがわかる。また郎党は直接の戦力になるが、妻子もまた兵站や輜重兵を担う「キャンプ・フォロア」(非戦闘従軍者)として必要欠くべからざる存在だった。
北条軍も豊臣軍も大名や領主、国人などの軍隊の集合体であり、軍律で見たように統率力に欠けていた。その点で近世ヨーロッパの軍事事情とよく似ていたといえる。
最後に大河ドラマなどの多くの映像作品が中近世移行期の戦争の実態をはき違えていることを指摘しておく。落城寸前の城主が女装して落ち延び、敵兵のチェックを免れる演出をよく目にするが、これはありえない。身ぐるみ剥がれた上、女性であると分かるとレイプに及ぶことが「習い」となっていた。さらに男女問わず奴隷として生け捕られた。林英夫氏は「戦場になれば敵人より暴姦に会うもの」が武家社会の「常識」として記憶され、幕末ペリー来航時にこの記憶が呼び覚まされ、民衆にまで広まっていたと指摘している*16。一方で籠城戦において女性が軍事行動で大活躍したという記録もしばしば見られる。
*1:氏規
*2:相模国三浦郡三崎城、下図参照。本文書発給者氏規は三崎城主であるとともに伊豆国韮山城主。三崎は北条水軍の根拠地で湊町だった。その規模は「黒船千艘繋ぐとも狭からず、およそ唐国にもあるべからず」といわれるほどで中国との貿易が盛んだった
*3:相模国西郡/足柄下郡。下図参照
*4:「構」の誤りカ。城下町どころか周辺郷村をも要塞化した小田原城惣構のこと。現在の小田原市中心部をほぼ網羅する規模を誇る
*5:仮小屋で御用を勤め。「御用」は北条氏のために尽くすこと
*6:「馳走」と同じで奮戦する意
*7:天正18年。グレゴリオ暦1590年2月8日、ユリウス暦同年1月29日
*8:氏規の奉者長谷川九郎左衛門尉
*9:未詳
*10:フランス革命暦=共和暦など古今東西見られる現象である
*11:日本はアジア太平洋戦争の前半まで戦場は国外で「銃後」と明確に区別されていた。また後半も空爆のみで明治以降市街戦を経験していない
*12:大河ドラマをはじめとする戦国・幕末期の映像作品の戦争シーンにはこの視点が欠けている
*13:『岩波講座世界歴史』25,1997年
*14:213頁、下線は引用者
*15:2024年現在の小田原市の人口はおよそ19万人である。数十万人規模の軍隊がどれほど「大きな都市」であるか実感できるであろう
*16:「戦のならい」立教大学『史苑』49-1、1989年。なお林氏は1920年生まれで戦争を経験している