今度相州江御進発路次中御とまり*1おちつき*2振舞*3御法度
一、御膳*4ハ七五三*5たるへし、此外別の造作*6一切有間敷事、
一、御相伴衆*7・小性衆*8、合五拾人分ハ、汁二・引さい*9たるへき事、
一、其とまり/\ニ八木*10九拾石・大豆*11拾石、合百石事、
一、その知音*12ちかつき振舞事むよう*13たるへし、并八木以下少も出すましき事、
一、薪・さうし*14・ぬか・わらの事ハ不苦事、
右条数之外、かくし*15候て振舞又ハ兵粮出すニおゐてハ、可為曲事、関白殿*16より惣御人数に御兵粮被下うへハ、
二重に請取候ものをハ、八幡大菩薩・氏神*17成敗可被仰付候也、
天正十八年正月廿八日*18 (朱印)
近江中納言殿*19
(四、2917号)
(書き下し文)
今度相州へ御進発路次中御泊まり落ち着き振る舞い御法度
一、御膳は七五三たるべし、このほか別の造作一切あるまじきこと、
一、御相伴衆・小性衆、合わせて五十人分は、汁二・引菜たるべきこと、
一、その泊まり泊まりに八木九十石・大豆十石、合わせて百石のこと、
一、その知音近付き振る舞うこと無用たるべし、ならびに八木以下すこしも出すまじきこと、
一、薪・雑事・糠・藁のことは苦しからざること、
右条数のほか、隠し候て振る舞いまたは兵粮出すにおいては、曲事たるべし、関白殿より惣御人数に御兵粮被下さる
る上は、二重に請け取り候者をば、八幡大菩薩・氏神成敗仰せ付けらるべく候なり、
(大意)
このたび相模小田原へ出陣につき宿泊先での行動ならびに振舞の規範
一、夕食の膳は七五三の膳のほかに、料理を出すことを禁ずる。
一、相伴衆・小姓衆、合わせて五十人分は、汁二膳と引き菜とする。
一、泊まる場所場所にて米90石、大豆10石を用意すること。
一、顔見知りが近づいてきても兵粮から振る舞うことを禁ずる。米も一切提供してはならない。
一、薪・雑事・糠・藁は振る舞っても構わない。
右の条文のほか、秘かに振る舞ったり兵粮を横流しするものは処罰する。関白殿から下されたありがたい兵粮であるのだから、二重に請け取った者は必ず処罰するものである。
最初の2ヶ条は膳に関する規定であるが、戦地であるにもかかわらず七五三の膳を指定するとはかなり贅沢な部類に入るだろう。
3ヶ条目は、1人あたりなのかよくわからない。ただ『雑兵物語』には次のような記述がある。
米は壱人に六合、塩は拾人に壱合、味噌は十人に弐合と申す。夜合戦などがあるべい時は、米が増し申すで御座あるべい。米も一度に渡せば、上戸めは酒に作りてくらひ(喰らう=当時酒は「食べる」といった)申すものだ程に、三日四日のをば一度に渡し、五日より日数多は飯米渡さないものだが
(岩波文庫、82頁。下線は引用者)
雑兵たちにまとめて米を渡すと酒を造って飲んでしまうから5日分以上は渡さないという習慣になっていた。
4,5ヶ条目は兵粮の横流しを禁じた条文である。大規模な軍勢であるので兵站もそれに応じて膨らんだはずである。当然のことながら管理が行き届かないところも出てくるだろう。そういった行為を行った者を処罰するということである。
最後は関白秀吉から「下された」「御」兵粮であるから二重に請け取ろうとする不心得者は許さないという決意で締めくくっている。
実際に兵粮の横流しという行為が行われていたのか興味深いところだが、史料的には余り確認できない。やはり掠奪の方が効率的で危険も少なかったのだろう。