禁制 信濃国
一、放火事、
天正十七年十二月 日*8 (朱印)
(四、2880号)
(書き下し文)
禁制 信濃国
一、軍勢、甲乙人など乱妨狼藉のこと、
一、放火のこと、
一、地下人・百姓に対し非分の儀申し懸くること、
右の条〻もし違犯の輩においては、たちまち処罰せらるるべき者なり、
(大意)
信濃国において禁ずることの条々
一、軍勢が掠奪を働くこと、
一、同じく人家に火を放つこと、
一、地下人や百姓などに対し謂れのない言いがかりをつけること、
右の条々に背く者があれば即座に罪の軽重により処罰するものである。
本文書には充所はなく、法的効力の及ぶ範囲を明示した「信濃国」という「所付」があるだけである。通常禁制は個別の郷村や寺社に対して下されるので所付が文書を受け取る主体となり、事実上の充所と見做される。しかし本文書の所付は「信濃国」一国であり、文書を受け取る主体ではない。
禁制は一般に個別の郷村や寺社が軍勢に対し、制札銭などを負担し申請してはじめて下されるものだが、この場合は前もって広域的に効力が及ぶものを下したようだ。下表のようにこの時発給された禁制の42パーセントの所付が国単位で、しかもいずれも家康領国である。
表1 天正17年12月日付秀吉禁制「所付」一覧

前述のように禁制は下図のように郷村や寺社が申請して交付されるが、今回のケースは申請なしに交付されている点に特徴がある。
図1. 禁制の交付手順

そのねらいは二つあると思われる。ひとつは大規模戦争になるとの見通しのもと広域的に効力を及ぼす禁制をあらかじめ発したということ。いまひとつは家康領国内へも秀吉の権力が及ぶことを誇示したということである。
また所付を欠いたものが在地に残されているのも、雛形をそのまま交付したことによるのではないかと思われる。
ところで軍律には天文22年(1553)9月21日毛利元就・隆元連署条目や永禄2年(1559)3月20日今川義元戦陣定書などが知られる。ここでは前者のある部分に注目したい。
一、動駆け引きの儀、その日/\の大将の下知に背き候て仕り候者は、不忠たるべく候、たとい何たる高名、また討ち死を遂げ候とも、忠節立つべからざること、
(『中世法制史料集』第4巻、259頁、428号)
下線部では「その日その日の大将の下知」とあり、大将が日ごとに変わりうることを示している。主従関係にあるならばそのようなことはないが、その日によって将とそれに付き従う兵卒の組み合わせが変わるということは、主従関係にないことを示している。また「下知に背く」者が多数現れていたことをも示している。
このように戦国期の軍隊は大規模化によって「顔の見えない関係」によって成り立っていた。抜け駆けする者、戦線を勝手に離脱する者など多くの逸脱行為を押さえる必要があったのである。
これは高名を馳せたところで恩賞に与れる者とそうでない者によって軍が構成されていたことによる。
『雑兵物語』は「雑兵」と呼ばれる最下層の戦闘員の視点から上級の武家の嗜好を一つ一つ例を挙げては「世間知らず」であると酷評し、「味方の地」ではなく「敵地」で隠した金品を掘り当てる方法も教え、こう述べてもいる。
おれは主を四五拾人も取って見たが、ところどころによって覚悟*9が違うものだ。今武家の水を飲んで*10、ことに陣中へつん出たが、惣じて侍衆*11の云うこんだ、打死が手柄だと聞いたが、今六*12めったと死なないもんだぞ。
(『雑兵物語・おあむ物語』65頁、岩波文庫)
自分はこれまで40~50人の主人に仕えてきたが、武家によって家風はまったく異なる。「侍衆」、つまり武家は「討死」することが手柄と思っているが、自分たち雑兵は死に急ぐことはないと仲間に諭している。
こうしてみると、中近世移行期の軍隊が一枚岩でないことに気づかされる。禁制のような軍律が必要とされる所以である。