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自分で考えることが、贅沢なことになってきている気がする。

どこもかしこもAIが作った文章だらけだ。

他人が送ってくる企画書も、どうせAIがまとめたんだろうと思うと、目を通す気になれない。
明らかに「この人、こんな言葉づかいしないよな」と感じる文章がたくさん混じっている。

人が書く文章は、その人の顔と同じように、特徴的な輪郭があって、しわやしみがあって、左右対称でもない、いびつなものだ。
そのいびつさを味わうのが文章を読む楽しさの大きな部分を占めていると思う。
企画書だって読み物である。
だけどAIに書かせた企画書にはその人の味がない。
なので、「この人はどんな人なのだろうか」「そして今どんなことを感じているのだろうか」ということがわからない。
企画書にそんなものは要らないと思われるかもしれないけど、やっぱり大切だと思う。
ぼくは企画書が欲しいのではない。
要は、その人と一緒に仕事してみたいと思えるか、だけなのである。

とはいえ、たとえばものすごく便利なツールとか、これまでの問題が一気に解決するようなサービスに関する提案など、そこに人が介在する余地のないようなものの企画書もある。
そういう企画書はAIのほうが書くのが得意かもしれない。
そんなところまで否定しているわけではないし、基本的にはAIは面白いな、すごいな、いい意味で世界を変えていっているなと思っている。
AIのおかげで、人間は面倒なことから解放され、人間にしかできないことに集中できるようになっていくのだろうなとも思っている。

…であれば余計に、文章を書くのをAIに任せるのはもったいないように思うのだ。
しつこいけれども、文章というものはその人の身体の延長にあると思う。
50年間生きてきて、しょうもないこともうれしいことも悲しいことも、色々と経験してきたぼくという人間の身体から生まれるものである。
人の文章を読むというのは、その人と握手したり、抱き合ったり、あるいはその人の中に潜りこんで、自分とは違う操作感の身体が動いていく様を味わう体験なのである。
上手いとか下手とかは、まったく関係ない。
そんな面白い体験を、ただ文章を書くだけで可能にしてしまう。
なんともコスパのいい楽しみではないか。

とまあここまで書いてきて思うのだが、結局、そうやってAIに頼らずに時間をかけて文章を書くということ自体が「しなくても特に困らないこと」になってきているのだろう。
つまりは贅沢である。
今の時代、みんな時間を気にしている。
おそらく多くの人たちは文章を書くということに時間をかけたくないのだ。
だからAIに企画書を書かせても、特に気にならない。
それを読む人がどう思うかも、特に気にならない。
そんなことより早く仕事を終わらせて、さっさと帰ってやるべきことをやり、ようやくできた時間で何か楽しいことをする(そして、それは「企画書を書くこと」では絶対にない)。

飛躍する。
これって、他のことでも同じ状況なのではないだろうか。
面倒だと思うことをどんどんAIに任せる。
あるいは別の自動化ないし省略化システムに任せる。
ぼくらはどんどん自分で考える必要性を失っていく。

遊びについても同じじゃないだろうか。
スマホを手にすればいくらでもタダでゲームができ、マンガが読め、映画が見れる。
こっちが飽きたら次へと移り、そっちのコインがなくなったら復活するまであっちの更新を読み、ずっと受動的な楽しみを得続けている。
そのあいだ、ぼくらはただひらすら「反応」し続けているだけで、ほとんど何も考えていない。

なんとなく、そんな世界の中で、じっと立ち止まって何かを考えこんだり、ああでもないこうでもないとアイデアを考えたりすることは、とんでもなく非効率で、ムダで、何も生み出さない贅沢なことになっていくような気がしてきた。
まあ、だからといって、じゃあそんな時間はもったいないなと自分で考えることをやめてしまったら、さてどんなことが起こるのだろう。

そのあたりを自分で考え続けていくかどうかは、その人次第なのだろう。




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