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一言坂の戦いとは?家康、武田軍の動きを読めず。三方ヶ原の戦い前哨戦をわかりやすく解説!

 「一言坂の戦い」は、「西上作戦」で三河国へ攻め込んだ武田信玄と、それを迎え撃つ徳川家康の間で起こった戦。

家康の予期しないタイミングで開戦したため、家康は撤退を即決。

本多忠勝の奮戦で撤退に成功するも、信玄に二俣城を取られる結果となりました。

一言坂の戦いまで

西上作戦

 武田信玄は「駿河侵攻」で同盟相手の今川家を裏切ったことにより、最終的に北条家と徳川家の2家を敵に回します。

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 その後、当主の北条氏康が病死すると武田家と北条家は再び同盟を締結(甲相同盟)。

武田信玄
背後からの危険が無くなったことだし、徳川家を攻めるか
 

 徳川家の討伐を始めることになりました。

重要拠点、二俣城の危機

この「西上作戦」と呼ばれる作戦を始動させた信玄は、総勢30000の軍を

  • 山県昌景隊...三河国へ侵攻
  • 秋山虎繁隊...山県隊と共に三河国へ侵攻(その後美濃で上村合戦を起こす)
  • 武田信玄本隊...2隊の出陣の後、遠江国へ侵攻

3手に分けて進軍させました。

三河国へ侵攻した昌景は、降伏した奥三河の支配者「山家三方衆」に案内をさせ、いくつかの城を落とします。

そして三河国での戦果に満足した昌景は、遠江の武田軍本隊の元へ合流していきました。

一方の信玄は、家康を裏切った天野景貫を案内役に

  • 天方城
  • 一宮城
  • 飯田城
  • 挌和城
  • 向笠城

などの城を1日で全て陥落させます。

その間、信玄から5000の兵を預かった馬場信春

武田信玄
別働隊として本隊と別れて行動せよ
 
分かりました
 
馬場信春

 

と別働隊となり、只来城を落として二俣城へ向かい攻撃を始めました。

 そしてこの二俣城は

  • 浜松城(徳川家の本拠地)
  • 掛川城(浜松城の支城)
  • 高天神城(浜松城の支城)

を結ぶ重要拠点。

家康にとっては、この状況を黙って見ているわけにはいかず

徳川家康
二俣城を取られては家臣からの信用を失ってしまう
 

 と考えた家康は、武田軍を迎え撃つべく出陣することにしました。

しかし昌景の侵攻により三河国からの徴兵ができず、かき集めた軍勢はわずか8000

武田軍との戦力差は圧倒的なものでした。

一言坂の戦い

徳川本隊の撤退

武田軍に向かって出陣を開始した家康はまず、本多忠勝内藤信成を先鋒にして武田軍の動向を探らせます。

すると先鋒は、思ったよりも早く武田軍と遭遇することに。

予想外の遭遇に焦った先鋒は直ちに軍を退きますが、武田軍が攻めかかってきたため戦闘が開始。

戦いが始まると、家康は

徳川家康
兵力差もあるし、戦いの準備をしてなかったから多分勝てないだろう
 

 と考え、犠牲を少しでも減らすため退却の判断を下します。

本多忠勝大久保忠佐に殿として戦場に残らせると、家康率いる本隊は浜松城まで撤退していきました。

忠勝、決死の退却

残された忠勝は、地形的な不利もあいまって絶体絶命の危機に。

馬場信春の突撃を食らい、小杉左近の鉄砲攻撃を受けた忠勝隊は

本多忠勝
このままでは居ても壊滅するだろうから、一かバチか突撃しよう
 

 と左近に向かって敵中突破を決行、左近はあえて攻撃せずに軍を通したため、忠勝はなんとか戦場からの離脱に成功したのです。

その後

この戦いで家康は大損害こそ免れたものの、屈辱的な敗北を喫します。

また、家康は二俣城の救援に失敗したため、邪魔の無くなった信玄は二俣城を陥落させることになります。

【参考】

一言坂の戦い - Wikipedia

西上作戦 - Wikipedia

三方ヶ原の戦い - Wikipedia

木崎原の戦いとは?兵力差10倍を覆す!「九州の桶狭間」をわかりやすく解説!

 「木崎原の戦い」は日向国統一を目指した伊東義祐が、当主を失ったばかりの島津家に挑んだ戦い。

この戦いでは伊東軍3000vs島津軍300という、島津軍の圧倒的不利な戦況でしたが、大将の島津義弘の活躍で島津軍が勝利

両軍の戦死者が1000人を超える激戦となりました。

木崎原の戦いまで

当主、島津貴久の死

時は1571年、島津家当主の島津貴久が病死します。

父の肝付兼続が貴久との戦いで死に、島津家へのリベンジに燃える肝付兼亮

肝付兼亮
当主が死んだ今が、島津家を倒すチャンスだ
 

 と島津家の代替わりを狙い、島津家の薩摩国へと侵攻を始めました。

そして同じく、日向国の大部分を支配していた伊東義祐

伊東義祐
肝付家側について島津家を倒そう
 

 日向国における島津家の勢力を排除するため、島津家への戦いを表明します。

木崎原の戦い

加久藤城での奮戦

義祐はまず、人吉城を拠点とする相良義陽

伊東義祐
伊東軍と相良軍で島津軍を倒そう
 
分かった、援軍を送ろう
 
相良義陽

 援軍を要請します。

そして一族の伊東祐安伊東祐信に3000の兵を持たせ、島津領へ攻めさせました。

小林城を出た伊東軍は

  • 伊東祐安...飯野城(島津義弘の居城)の警戒
  • 伊藤祐信...加久藤城(義弘の妻子、川上忠智の居城)を攻撃

という2つの隊に分け、それぞれ行動することにしました。

加久藤城に到着した祐信はまず、周辺の民家を焼き払い挑発します。

しかしスパイを伊東軍に送り込み、事前にこの情報を知っていた義弘は

島津義弘
報告通りだ
 

 と冷静に、周辺の大口城や馬関田城に危機を知らせました。

そして

  • 五代友喜隊40人...伏兵
  • 村尾重侯隊50人...伏兵
  • 遠矢良賢隊60人...加久藤城の救援
  • 島津義弘隊130人...加久藤城~飯野城間に布陣
  • 有川貞真隊20人...飯野城の守り

と300人を5つの部隊に分け、自らは戦闘の準備を整えました。

一方その頃、祐信は加久藤城の攻撃に着手します。

しかし、義弘のスパイから誤情報を知らされていた祐信は、間違って樺山浄慶という人物の屋敷を攻撃。

最終的に浄慶は討たれましたが、浄慶の投石により伊東軍は一時混乱を見せました。

その後、ようやく本格的な攻城戦が始まりますが、攻め口が攻めづらい場所だったため、祐信は苦戦を強いられることに。

そして伊東軍が手間取っている間に、島津軍の援軍が加久藤城に到着。

加久藤城の川上忠智による奮戦もあり、戦況を立て直したい伊東軍は一度軍を退いていきました。

因みにこの時、相良家の援軍が島津領へ進出していましたが道中、義弘が事前に立てていた旗を見て

相良義陽
ここには島津軍がいる
 

 と勘違いを起こし、そのまま人吉城へと帰っていきました。

祐信の隙を突いて

祐信は池島川という場所まで撤退すると、この時期は暑かったため軍の中で

伊東軍の武士
兵数的に多分勝てるし、今ゆっくりしてても大丈夫だろ
 

 と池島川で水浴びをする兵士が続出し、伊東軍は完全に油断をしていました。

この情報が義弘の耳に入ると、義弘は直ちに進軍を開始。

正面から伊東軍に突撃し、義弘は一騎打ちで祐信を討つなど戦果を挙げます。

そして多くの伊東軍を討ち取った島津軍は、一度撤退していきました。

その後大将を失った祐信隊は、駆けつけた祐安隊と合流。

伊東祐安
祐信が死んだ今では、島津軍に勝てると思えない
 

 と判断し、北原城への退却を始めました。

釣り野伏せ炸裂

伊東軍が退却するルートに、白鳥山という山がありました。

伊東軍が白鳥山に登ったことを知った白鳥神社の光巌上人は、僧と農民に伏兵を装わせ、伊東軍を混乱させます。

そしてそこに突撃していったのが、島津義弘。

義弘は鎌田政年に60人を預け、伊東軍の背後に回らせると、自身は120人を率いて伊東軍に攻撃を仕掛けたのです。

義弘は序盤こそ劣勢で木崎原まで軍を退いたものの、加久藤城からの援軍を受けると形勢逆転。

白鳥山で待機していた五代友喜隊の伏兵が姿を現し、伊東軍は

  • 島津義弘隊...正面
  • 鎌田政年隊...背面
  • 五代友喜隊...側面

という3方向から攻撃を受ける形となります。

この島津家伝統の戦法「釣り野伏せ」を食らった伊東軍は大混乱。

しまいには、撤退中に村尾重侯の伏兵が姿を現し、攻撃に耐えきれなくなった祐安は射抜かれ戦死しました。

そして、伊東軍の主力とは別方向に逃げた祐安の子と弟も、大口城からやって来た新納忠元に襲われ、討たれることになります。

その後

この戦いにより伊東軍は810人が討たれ、その中には祐信や祐安などの伊東家の重要人物も多くいたことから、伊東家の国力は大きく衰えることに。

また、勝利した島津軍も300人中257人が戦死する、という大被害を背負うことになりました。

【参考】

木崎原の戦い - Wikipedia

島津義弘 - Wikipedia

伊東義祐 - Wikipedia

志賀の陣とは?信長、敵に四方を囲まれる!織田家による四面楚歌の戦いをわかりやすく解説!

 「志賀の陣」は、摂津国へ攻めに行った織田信長の隙をつき、浅井長政朝倉義景が京を狙い挙兵した戦い。

この戦いではその後、反織田勢力が次々と便乗して挙兵。

信長は多くの敵に囲まれピンチを迎えますが、最終的には講和に終わります。

志賀の陣まで

金ヶ崎の戦い

時は1568年、織田信長足利義昭を担いで上洛戦を開始、義昭を将軍の座につけます。

その功績により室町幕府では、信長が大きな影響力を持つように。

そして信長は

織田信長
上洛せよ
 
……(信長の命令には従いたくない)
 
朝倉義景

 と朝倉義景が命令に従わないことを大義名分に、朝倉家攻めを始めます。

そして信長と義景の間で「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)と呼ばれた戦いが起こると、織田軍は序盤は優勢に戦いを進めます。

しかし、信長の同盟相手で信長の妹であるお市の方を娶っていた浅井長政

浅井長政
古くからの盟友である朝倉家に敵対はできない
 

 と信長を突如裏切ると、事態は急変。

有利だった織田軍は退路を断たれ、たちまち大ピンチとなりました。

織田信長
このままではまずい
 

 と思った信長は撤退戦を繰り広げ、何とか越前国からの撤退に成功しました。

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姉川の戦い

  「金ヶ崎の退き口」での敗北から約2ヶ月後、岐阜城へ戻った信長は

織田信長
次こそは朝倉・浅井を倒してやる
 

 とリベンジを決意。

今度は、盟友の徳川家康との連合軍で朝倉・浅井に勝負を挑みました。

そこで起こったのが「姉川の戦い」。

両者兵数はほぼ同じで、開戦当初は互角の戦いが続きます。

が、徳川家臣の榊原康政の奇襲により、側面に攻撃を食らった朝倉軍が敗走。

士気の崩れた浅井軍も同様に敗走していき、この戦いは織田・徳川軍の勝利となりました。

野田城・福島城の戦い

一方で、信長が朝倉・浅井と戦っている間、畿内では織田家の勢力が手薄になっていました。

そしてこれを狙っていたのが三好三人衆

上洛戦や「本圀寺の変」で信長に敗北し、四国に追いやられていた三人衆は

三好三人衆
織田軍の少ない今が、畿内に攻め込むチャンスだ
 

と言わんばかりに挙兵、 摂津国に攻め寄せました(野田城・福島城の戦い)。

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これを知った信長は自ら出陣、三人衆方の浦江城・畠中城を落とし、三人衆が信長に和平を申し入れるまでに戦いを有利に進めます。

しかしそんな中、石山本願寺の本願寺顕如が信長との敵対を表明。

三人衆側に味方し、一揆勢が織田軍めがけて攻めかかったのです。

劣勢となった織田軍は、なおも三人衆と顕如に対して状況の打破を試みますが、さらなる困難が待ち受けることになります。

浅井長政、朝倉義景の挙兵

野田城・福島城の戦いで信長が苦戦していることを知った朝倉義景浅井長政

朝倉義景
信長が摂津で苦戦してるうちに京を奪おう
 
そうしよう
 
浅井長政

 と京までの守りが甘いところを狙って挙兵したのです。

信長はこのため朝倉・浅井軍に背後を突かれる形に。

この織田軍にとって最悪の状態から「志賀の陣」は始まります。

志賀の陣

宇佐山城の戦い

 朝倉・浅井家の守りとして置かれていた宇佐山城主の森可成は、この報せを知ると

森可成
私が朝倉・浅井軍を受け止めなければ
 

 と侵攻ルートの重要拠点である坂本に向かい、織田信治(信長弟)と青地茂綱と共に敵を迎え撃つ姿勢を整えます。その数1000~3000

そこに30000から成る朝倉・浅井軍が攻め、戦いが起こると緒戦では織田軍が勝利

しかし延暦寺が顕如の要請で参加すると、側面から攻撃を受けた織田軍は崩壊

可成、信治、茂綱は戦死し、朝倉・浅井軍は宇佐山城に攻め込みました。

この時城主を失っていた宇佐山城でしたが、可成の家臣の活躍により頑強な抵抗をします。

そして

朝倉義景
宇佐山城はまだ落ちそうにないな
 
なら宇佐山城は無視して、さらに先を進もう
 
浅井長政

 と陥落を諦めた朝倉・浅井軍は宇佐山城を通り越し、京へ進軍していきました(宇佐山城の戦い)。

織田軍の撤退

朝倉・浅井軍が京まで迫ってきていることを知った信長は

織田信長
今、摂津国で三人衆を倒しても、京を取られたら勝ち目が無い
 

 と、摂津国から京へと撤退する判断を下します。

醍醐、山科まで進軍していた朝倉・浅井軍は、1度比叡山延暦寺に撤退して織田軍を迎え撃つ体制を取ります。

比叡山延暦寺攻防戦

そして織田軍が延暦寺を包囲したことにより、織田軍vs朝倉・浅井・延暦寺での戦いが始まります。

信長は包囲した当初、延暦寺に

織田信長
朝倉と浅井側についたら延暦寺を焼き討ちにするぞ
 

 と伝えるものの、延暦寺は無視。翌年の「比叡山焼き討ち」へと繋がっていきます。

こうして織田軍は延暦寺を包囲することになりましたが、延暦寺には多くの兵が籠っており、容易に落とせるものではありません。

そのため、織田軍の主力は延暦寺から身動きが取れない状態となります。

六角の挙兵と長島一向一揆

織田軍主力が延暦寺に釘付け、ということは、織田領のあちこちの守りが手薄、ということ。

これをチャンスだと捉えたのが六角義賢本願寺顕如でした。

信長へのリベンジを誓っていた義賢は、

六角義賢
今のうちに挙兵しよう
 

 と近江国で本願寺教徒と共に挙兵。織田軍の連絡路を妨害しました。

顕如もこのチャンスに乗っかるように、各地の本願寺教徒に

顕如
一揆を起こしなさい
 

 と一揆を起こさせ、伊勢で「長島一向一揆」が発生します。

最終的に信長は、この一揆の鎮圧に約4年間もの年月を費やすことになりました。

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秀吉・長秀vs六角・本願寺

近江国で浅井軍を警戒していた木下秀吉(豊臣秀吉)と丹羽長秀は、義賢の挙兵を知り

丹羽長秀
六角義賢が近江国で岐阜城と京への連絡線を遮断している
 
なら近江国にいる私たちが六角軍を倒そう
 
豊臣秀吉

 横山城から出陣、六角軍を破ることに成功します。

この敗北により

六角義賢
信長と戦っても勝ち目がない
 

 と判断した義賢は信長と和睦。この戦いからいち早く離脱しました。

一方で本願寺勢力は未だ健在、織田信興(信長弟)を討ち取る戦果を挙げています。

堅田の戦い

そんな中、近江国の堅田で

  • 猪飼昇貞
  • 居初又次郎
  • 馬場孫次郎

という3人の武将が織田方に寝返ります。

そのため信長は

織田信長
揺らいでいる堅田を抑えて、延暦寺への補給を断とう
 

 と堅田に1000人を送り、砦を占領させます。

しかし、この動きを読んでいた朝倉景鏡、前波景当が延暦寺から堅田の織田軍を攻撃。

織田軍は奮戦するものの、包囲されたため織田軍は敗北。堅田の奪取に失敗しました(堅田の戦い)。

義昭の仲介で講和

志賀の陣開戦から約3ヶ月、織田軍は六角と和睦したものの、依然として各地に敵を多く抱えていました。

そこで、信長は新たな手段に出ます。

将軍と朝廷の仲介を元に、朝倉・浅井・延暦寺(朝廷の仲介は延暦寺のみ)に停戦を求めたのです。

どの大名も、将軍と朝廷にはなかなか逆らえません。

義景が

朝倉義景
雪が降って、延暦寺と本国の連絡が途絶えてしまうかもしれない
 

 とこれからの戦いに心配したこともあり、停戦は成立

3ヶ月続いたこの戦いは、引き分けという形で幕を下ろしました。

その後

この戦いにより、信長は弟や家臣を多く失うことに。

また、志賀の陣の翌年、信長は勧告を無視した延暦寺に対して攻撃を仕掛けます。

徹底暦な攻撃を受けた延暦寺は、最終的に焼き討ちされることになりました。

【参考】

志賀の陣 - Wikipedia

野田城・福島城の戦い - Wikipedia

宇佐山城 - Wikipedia

金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)とは?信長、浅井長政に裏切られる!絶体絶命の撤退戦をわかりやすく解説!

 「金ヶ崎の退き口」(金ヶ崎の戦い)は、朝倉家を攻めていた織田信長浅井長政が裏切り、攻めてきたことで起こった戦。

この戦いで周囲を敵に囲まれた信長は、絶体絶命の大ピンチに陥ります。

しかし織田家臣の活躍により、信長はこの危機を脱することになりました。

金ヶ崎の退き口まで

命令を無視する朝倉義景

時は1568年、足利義昭を担いで上洛に成功した織田信長は、将軍の命令として

織田信長
上洛せよ
 

 と越前国を治める朝倉義景に要求します。

この要求をした理由には

織田信長
本拠地の美濃国から京へ行く道中にある越前国は服従させなければ

 という信長の思惑があったとされています。

これに対し、歴史ある名家としてのプライドがあった義景は

朝倉義景
新興勢力の織田家には従いたくない
 

と2度の信長による命令を拒否。

これにより信長は

織田信長
これで、将軍の命令に従わない朝倉家、を倒す口実ができた
 

 と同盟相手の徳川家康と共に、朝倉家攻めをすることになります。

金ヶ崎の退き口

金ヶ崎城を落とす

そして越前国を攻めた織田・徳川軍は、重要拠点の金ヶ崎城を落とすため、手始めに支城の手筒山城を落とすことに成功。

翌日には金ヶ崎城を攻め、猛攻に耐えられなくなった城主の朝倉景恒は、降伏勧告を受け入れ、金ヶ崎城はいとも簡単に落城しました。

これに対し朝倉家では、義景が金ヶ崎城の援軍として出陣しますが、家中での混乱が原因となり、義景は退却。

金ヶ崎城(敦賀郡)一帯の奪還を諦め、防衛向きの木ノ芽峠という場所で織田軍を迎え撃つ準備をしました。

浅井長政の裏切り

このようにして連合軍は朝倉家の城を落とし、有利な状況を作り出していました。

ですが、そんな戦局が一瞬にして打破されることになります。

信長の妹のお市の方を娶り、織田家と同盟を結んでいた浅井長政が信長を突如裏切り、連合軍向かって進軍していたのです。

これにより信長は、朝倉家と浅井家に挟み撃ちされる危険性が出てきました。

もちろん、長政はなんの考えも無しに信長を裏切ったわけではありません。

長政が裏切った理由は、かつて信長が長政と同盟した際

織田信長
浅井家と仲のいい朝倉家には攻めない
 

 と言っていた信長が約束を破ったため。

約束を先に破ったのはむしろ信長だった、と言えると思います。

お市の方が小豆の袋で危機を知らせる

ちなみにこの時、浅井家の内情を知っていたお市の方が信長に「両端を縛った小豆の袋」を渡し

お市の方
この袋のように、貴方が袋の鼠になりますよ
 

 というメッセージを伝えた、という逸話があります。

しかし、この話は後に作られたものである可能性が高いそう。

信長が朽木元綱の活躍で脱出

こうして長政に裏切られ、ピンチを迎えた信長は

織田信長
一旦ここから逃げて立て直そう
 

 と金ヶ崎城からの撤退を決めます。

そしてわずか10程の供を連れた信長は織田軍よりいち早く京へ脱出。

ちなみにこの脱出には、松永久秀の説得を受けた豪族の朽木元綱の協力により朽木を脱出できたため、「朽木越え」とも言われています。

織田軍3将の撤退戦

その後、信長の命を受けた池田勝正明智光秀木下(豊臣)秀吉により、連合軍の撤退戦が始まります。

この時

朝倉義景
この機に乗じて織田軍の武将を討ち取ろう
 

 と考えた朝倉軍が連合軍を追撃するも、秀吉たちの奮戦により、朝倉家は主だった武将を討ち取ることが出来ませんでした。

こうして連合軍は1300人の死者を出しながらも、京への撤退に成功したのでした。

その後

この戦いにより、信長は勢力拡大の計画を大きく狂わされます。

しかし体制を立て直した信長はこの後、朝倉家と浅井家の両方を滅亡に追い込むことになります。

【参考】

金ヶ崎の戦い - Wikipedia

織田信長 - Wikipedia

朝倉義景 - Wikipedia

浅井長政 - Wikipedia

石山合戦とは?11年の間行われた史上最大の一向一揆をわかりやすく解説!

 「石山合戦」は、勢力を著しく拡大していた織田信長に対し、本願寺顕如が起こした一揆。

この一揆により「信長包囲網」はさらに強固なものとなり、信長は11年間もこの一揆に苦しめられることとなりました。

石山合戦まで

信長と義昭の決別

時は1568年、織田信長は上洛戦を開始、足利義昭を将軍にすることに成功します。

しかし、その翌年

織田信長
天下統一したい
 

と考える信長と

足利義昭
他の有力大名と共に幕府再興をしたい
      

と考える義昭の間で食い違いが発生すると、信長は「殿中御掟」という掟を義昭に提出。

義昭は

足利義昭
信長が私の行動を制限させようとしている
 

 と不満を抱き、以降両者の関係は悪くなっていきました。

そんな中、織田軍が畿内から軍を退いた1570年6月、畿内から追い出されていた三好三人衆

三好三人衆
信長の居ない今のうちに畿内に攻め込もう
 

 と信長に対して挙兵します。

これを知った信長は岐阜城から出陣、三人衆の気づいた野田城・福島城に向かって進軍しました。「野田城・福島城の戦い」の開幕です。

石山合戦

緒戦は織田軍勝利

織田軍は野田城・福島城から5km離れた天王寺を中心に、浦江城や畠中城を落とし戦いを有利に進めます。

また織田軍に20000の援軍が到着したことで三人衆は勝算をなくし、信長に和平を申し入れるほどに不利となります。

しかしそこで、本願寺顕如率いる本願寺教徒が突如、織田軍に襲いかかりました。

実はこの時、顕如は

顕如
信長が本願寺を壊すと言ってきた
 

 ということを信長に言われたため、織田軍を攻撃したと言われています。

しかし、結局の所は織田軍優勢に終わり、顕如は石山本願寺に退却することで石山合戦の前哨戦である「淀川堤の戦い」は終わったのでした。

長島一向一揆の発生

このようにして顕如は反織田の色を鮮明すると、各地の本願寺教徒に

顕如
信長に対して一揆を起こそう
 

 と呼びかけます。

この呼びかけにより、本願寺勢力の大きかった伊勢国長島で「長島一向一揆」が発生。

この一揆で一揆衆は、織田軍の侵攻を2度退け、信長の一族を大勢討ち取ることになります。

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1度目の和議

しかしそれに比べて、本拠地の石山本願寺では平穏な時が流れていました。

というのも、先ほどの戦いの後、顕如の義兄弟の武田信玄の仲介により両者は和睦。

この頃は大坂での戦闘は行われていなかったのです。

熾烈を極める情報戦

ですが顕如はその和睦期間中、物理的な戦いではない「外交戦」を展開していました。

武田信玄毛利輝元といった「信長に不満を抱く大名」と同盟を結び

顕如
東の武田と西の毛利で織田を挟み撃ちにしよう
 

 と企んでいたのです。

そして信長もこれに対抗し、信玄のライバルの上杉謙信に近づくなど戦いの準備を整えていました。

越前一向一揆の発生

このように顕如と情報戦を繰り広げていた信長は、同時進行で朝倉家を滅ぼします。

そして朝倉家の治めていた越前国では、新たに前波吉継という武将に統治を任せましたが、これが失敗。

冨田長繁という武将が吉継などに不満を抱き、本願寺教徒を巻き込んで一揆を起こしたのです(越前一向一揆)。

この一揆により越前国では、吉継などの上層部が殺され、支配体制が崩壊。

たちまち越前国は、長繁などの国人や一揆衆の治める国へと様変わりしたのです。

これにより、信長は越前国の支配権を奪われることに。

そして一揆の発生を知った顕如が

顕如
越前国の支配者を送って支配させよう
 

と石山本願寺から七里頼周を送り、最終的には七里頼照という僧が指導者となりました。

この顕如の行動により、信長は

越前国を使って間接的に私に攻撃している
 
ここに名前を入れる

 と激怒します。

これにより両者の関係は最悪なものとなり、信長と顕如は2度目の戦いを起こすことになります。

2つの一揆の鎮圧

そして1573年4月、信長包囲網の大黒柱である武田信玄の病死により、包囲網側に暗雲がたちこめます。

まず長島一向一揆では、信長が織田家臣を総結集させ、数万(100000以上とも)の大軍で一揆衆を陸と海から攻撃。

100000以上の一揆衆を閉じ込め兵糧攻めし、一揆衆は30000以上の餓死者を出した後、長島一向一揆は鎮圧されたのです。

また、越前国では

武士
頼照は大坂から来た分際で、厳しい政治をしすぎだ
 

 と頼照の政治に不満を持つ武士が出始めます。

これにより、越前国で一向一揆の中の一揆が発生しました。

これを知った信長は、この越前国の混乱の隙をつき侵攻、たちまち信長が越前国を奪い返したのです。

2度目の和議

顕如はこの惨状を知ると、

顕如
2つの一揆が鎮圧され、本願寺勢力はもうこの石山本願寺しかない
 

と弱気になります。

そして顕如は信長に和議を申し出、信長もいまだに包囲網によって苦しめられ

織田信長
今はできるだけ敵を減らして各個撃破したい
 

 と考えていただけに、和議は成立しました。

そんな中、中国地方では覇権を握る毛利輝元が織田側の三村家を滅ぼすと、毛利家と織田家の関係は破綻寸前となります。

そして翌年、信長から追放されていた義昭が、輝元を頼って鞆の浦に落ち延び

足利義昭
信長を倒して幕府を再興してくれ
 

 と頼むと輝元は

分かりました
 
毛利輝元

 と信長と戦う覚悟を決め、以降包囲網には毛利家も参加していくことになります。

天王寺の戦い

この毛利家の参戦を知った顕如は

顕如
今が信長を倒すチャンスだ
 

 と3度目の挙兵をします。

それを知った信長は、塙直政を大将として石山本願寺を包囲しました。

しかし海岸からの支援を受けていた本願寺軍は、逆に織田軍をカウンター攻撃。

織田軍は敵に囲まれ、雑賀衆の射撃により織田軍は直政が戦死するなどの大被害を受けます。

勢いづいた本願寺軍はさらに織田軍を追撃、今度は本願寺軍が織田軍の天王寺砦を包囲しました。

天王寺砦では本願寺軍が猛攻を仕掛けており、籠っていた明智光秀などは

明智光秀
あと3~5日も持たないです
 

 と信長に報せを送るほどに追い詰められていました。

この危機を知った信長は急いで京都を出ると、兵を集めようとしますが、何しろすぐには兵など集まりません。

そのため、4日後には本願寺軍の5分の1である3000人しか兵が集まりませんでした。

しかし、信長は

織田信長
ここで光秀たちを助けない訳にはいかない
 

 と本願寺軍に向かって決死の突撃をします。

本願寺軍の包囲網を破った信長は、天王寺砦の軍勢と合流。

そのまま本願寺軍へ突撃すると

本願寺教徒
まさか兵力の劣る織田軍から攻めてくることは無いだろう
 

と油断していた本願寺軍は意表を突かれ、本願寺軍はたちまち2700人の犠牲を出して敗走していきました。

第一次木津川口の戦い

この「天王寺の戦い」の後、信長は石山本願寺の周囲に城を築き包囲、本願寺が支援を受けられないようにしました。

苦しい立場となった顕如は、そこで毛利家に助けを求めます。

この求めに応じた輝元は

毛利輝元
我が家の強力な水軍を使って、織田軍の本願寺包囲網を破ろう
 

 と、700~800(兵糧船を含む)の船を織田軍の300艘にぶつけます。

そこで起こった「第一次木津川口の戦い」で毛利水軍は、焙烙火矢(現代の手榴弾)を使い、織田軍を撃破。大量の兵糧を本願寺に運び込んだのでした。

紀州征伐

先ほどの「天王寺の戦い

天王寺の戦い (1576年) - Wikipedia

」などで活躍を見せていた雑賀衆はこの時、一部が織田家に寝返るなど分裂が起きていました。

そして

織田信長
雑賀衆を潰し、本願寺の力を弱めよう
 

 と信長は考え、雑賀衆の本拠地である紀伊国への出兵をします(紀伊征伐)。

100000の大軍で攻め入った織田軍に対し、鈴木孫一率いる雑賀衆2000はゲリラ戦を展開。

織田軍を1度破ることには成功したものの、両軍が膠着状態となると

鈴木孫一
大軍の織田軍に勝てる気がしない
 

 と孫一は抵抗を諦め、信長に降伏しました。

第二次木津川口の戦い

前回の第一次木津川口の戦いで敗北を喫した信長は

織田信長
焙烙火矢を防げる燃えない船を作れ
 
では表面に鉄を貼った船を作りましょう
 
九鬼嘉隆

 と鉄甲船の建造を、九鬼水軍を操る九鬼嘉隆に命じました。

鉄甲船の存在により、勝算が見えた信長は毛利水軍との再戦を決意。

そこで起こった「第二次木津川口の戦い」では、毛利水軍は焙烙火矢を再び織田軍に投げつけますが、鉄甲船では無傷

むしろ鉄甲船の大砲により毛利水軍は返り討ちに逢い、この戦いで織田軍は圧倒的勝利を飾りました。

この戦いにより、石山本願寺は再び織田軍に包囲され、危機的状況に陥ることになりました。

荒木村重の反乱と終戦

その後、有岡城の荒木村重が信長を裏切ります。

この反乱により織田軍では一時混乱を見せますが、その一年後に有岡城は陥落。

「有岡城の戦い」が終戦したことにより、兵糧が不足し始めていた本願寺は希望を失い、顕如はついに信長との和議を決めます。

この和議により、顕如は石山本願寺を出ていかざるを得なくなり、顕如は石山本願寺を退去していきました。

しかし、顕如の長男の教如

教如
家に帰ったら貧しくなる者のため、このまま抵抗を続けるべきだ
 

 と引き続き信長への抵抗を続けました。

しかしその3ヵ月後、情勢の悪化などから教如も抵抗を諦め退去、石山本願寺は信長の物となりました。

ですが、石山本願寺が信長に引き渡された際、石山本願寺が炎上。

三日三晩燃えた後、石山本願寺は完全に焼失しました。

その後

この後、教如が顕如の意に反する行動を行ったため、教如は顕如に絶縁されます。

両者は後に和解をしますが、顕如の死後に教如と弟の准如との間で内乱が発生。

本願寺は2つの宗派に分裂することになりました。

【参考】

石山合戦 - Wikipedia

野田城・福島城の戦い - Wikipedia

長島一向一揆 - Wikipedia

越前一向一揆 - Wikipedia

天王寺の戦い (1576年) - Wikipedia

第一次木津川口の戦い - Wikipedia

第二次木津川口の戦い - Wikipedia

有岡城の戦い - Wikipedia

長島一向一揆とは?織田一族が最も戦死。3度にも渡る一向一揆をわかりやすく解説!【図解】

 「長島一向一揆」は、当時勢力を拡大してきていた織田信長に対して、長島(伊勢国)の本願寺教徒が起こした一揆。

最大で100000人以上も参加したこの一揆は、3度にも渡る信長との戦いにより鎮圧。

信長は一族や家臣を多く犠牲にして、本願寺勢力を大きく衰退させました。

長島一向一揆まで

信長の伊勢平定戦

時は1566年、尾張国を統一していた織田信長は、美濃国の斎藤龍興を稲葉山城で撃破(稲葉山城の戦い)。美濃国を占領します。

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 その後、龍興は伊勢国の長島まで逃亡します(諸説あり)。

そのため信長は長島に侵攻し占領、領主を従わせることに成功しました。

その2年後、信長は伊勢で最も力を持っていた北畠具教を「大河内城の戦い」で倒すと、伊勢国のほとんどを手中に収めました。

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石山合戦の影響で勃発

本願寺勢力をまとめる本願寺顕如はそれまで、信長に勢力拡大の祝いをするなど、織田家との敵対を避けていました。

しかし、信長と将軍の足利義昭の仲が悪くなると顕如は

顕如
将軍の味方になって、信長包囲網に参加しよう
 

と信長との敵対を決意。

総本山の石山本願寺から織田軍を攻撃、「石山合戦」が勃発します。

そしてその影響は、伊勢の長島にも及びました。

願証寺を中心に100000人もの信徒がいた長島は、石山本願寺の一揆を知ると

長島の本願寺教徒
私たちも一緒に信長に抗おう
 

 と信徒が一揆を起こしたのです。

一揆衆は石山本願寺から派遣された下間頼旦によって、長島城を攻めこれを落とします。

そして小木江城を攻撃し、城主の織田信興(信長の弟)を自害させると、桑名城にも侵攻。

守っていた滝川一益を追い出し、これを陥落させました。

第一次長島一向一揆

信長の伊勢出陣

一方の信長は、この時「志賀の陣」によって周りを敵に囲まれており、長島での一揆を気にする余裕はありませんでした。

しかし翌年、志賀の陣での危機を乗り越え、近江国での勝利を重ねると信長は

織田信長
余力が出てきたし、長島の一向一揆を鎮めるか
 

 と長島へ50000の大軍で出陣します。

織田軍は住宅を焼き討ちするなど長島を荒し回りました。

撤退する織田軍を叩く

その後、織田軍は戦いの準備を整えるため、1度軍を撤退させます。

これを知った一揆衆は、織田軍の帰路に伏兵を配置。織田軍を待ち伏せしました。

この先回り攻撃により、織田軍では戦死者が続出。

氏家卜全が戦死柴田勝家がケガをするなど、第一次長島一向一揆は一揆衆の勝利に終わります。

第二次長島一向一揆

撤退路の増設に失敗

第一次長島一向一揆から約3年後、浅井家と朝倉家を滅ぼすと、信長は一揆衆とのリベンジマッチを望みます。

そして信長は

織田信長
前回は道の細い場所を撤退してやられたから、今回は別のルートで帰ろう
 

 と水路での移動ができるようにしようと考えます。

そこで信長は大湊の会合衆に

織田信長
移動用の船を出してくれないか
 
ごめんなさい。それは出来ないです
 
会合衆

 と依頼をしますが、失敗に終わります。

しかし信長は出陣を決行。80000人を率いて伊勢国へと進軍していきました。

北伊勢の小豪族が続々と降伏

伊勢に着いた織田軍は、太田城を拠点に城攻めを開始し

  • 西別所城(羽柴秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆が落城)
  • 坂井城(柴田勝家、明智光秀が落城)
  • 近藤城(柴田勝家、明智光秀が落城)

といった城を陥落させます。

すると

豪族
信長と戦っても勝ち目がない
 

 と諦めた

  • 春日部家(萱生城、伊坂城)
  • 赤堀家(赤堀城)
  • 大儀須家(桑部南城)
  • 千種家(千種城)
  • 富永家(長深城)

といった「北勢四十八家」呼ばれる北伊勢の小豪族が次々と降伏していきました。

再び帰国を狙って奇襲

この降伏によって有利となった織田軍でしたが、大湊の会合衆が船を出してくれないために

織田信長
撤退する道がまともにないのに、長島に攻撃するのはリスクが大きい
 

 と判断した信長は、岐阜城へ退くことにしました。

そして帰国の道中、再び一揆衆が織田軍を待ち伏せし、攻撃を仕掛けます。

そのため、今度は殿となった林通政が戦死。

織田軍は一揆衆からの攻撃を受けながらも、大垣城への撤退に成功させました。

この第二次長島一向一揆では、織田軍もある程度の犠牲を出したものの、北伊勢を平定できたので、織田軍の勝利となります。

一揆衆に内応した会合衆を処罰

その後、信長の要求を断っていた会合衆が「一揆衆に加担していた」という事実が発覚します。

これに怒った信長は、会合衆の代表者を処刑。

以降、会合衆は一揆衆への味方をしにくくなりました。

第三次長島一向一揆

100000超の大軍で出陣

翌年、一揆鎮圧のため岐阜から津島(尾張国)に移動した信長は、3度目の侵攻を開始。

今回は、

  • 織田信忠(信長の嫡男)
  • 織田信雄(信長の次男)
  • 織田信孝(信長の三男)
  • 滝川一益
  • 柴田勝家
  • 佐久間信盛
  • 羽柴秀長
  • 池田恒興
  • 丹羽長秀
  • 佐々成政
  • 前田利家
  • 九鬼嘉隆

といった主要な家臣のほとんど(秀吉、光秀は不在)を連れ、総力を挙げての出陣となりました。

各所で一揆衆を撃破

そして120000の大軍(70000~80000とも)で長島へ侵攻した信長は、陸と海からの攻撃により、一揆衆の砦を次々と落としていきます。

そのため、100000人もの一揆衆は

  • 長島城
  • 屋長島城
  • 中江城
  • 篠橋城
  • 大鳥居城

5つの城に追い詰められることに。

そのうちの大鳥居城は、織田軍の大鉄砲での攻撃により戦意を喪失します。

織田軍に降伏を申し出ますが

織田信長
兵糧攻めをしよう
 

 と考えた信長にこれを断られると、籠っていた宗徒が続々と脱走。

織田軍がこの脱走した1000人程を討ち取ったため、大鳥居城は落城しました。

また、篠橋城も大鉄砲により織田軍に降伏を申し出、

本願寺教徒
長島城に入ってから裏切るので、長島城まで移動させてください
 
よかろう
 
織田信長

 と言う条件で信長は長島城への移動を許し、篠橋城は開城しました。

しかし実は一揆衆には裏切る気などさらさら無く

本願寺教徒
裏切ると言っておけば、信長も長島城への移動を許すだろう
 

 という思惑から、信長に嘘の降伏をしたのです。

そして信長はこの一揆衆の考えを読んでおり、

織田信長
一揆衆が長島城へ行けば、長島城の兵糧の減りが早くなるから好都合
 

 と考え、一揆衆の移動を許したのです。

捨て身の攻撃で織田一族が討死

そしてその長島城では、篠橋城の一揆衆が助けを求めて入城したことにより、兵糧の減りが早くなっていました。

そのため、しばらくすると長島城では餓死者が続出。

負けを悟った一揆衆は信長に降伏を申し入れ、これが許可されました。

しかしやはり一揆衆を許せなかった信長は、城から逃げる一揆衆に鉄砲で攻撃。

頼旦や指導者の顕忍など多くの教徒が射殺されました。

そしてこの仕打ちに起こった一揆衆が、織田軍に捨て身の突撃をします。

守りが甘かった織田軍は、この攻撃をもろに受けてしまい、信長の兄の織田信広を筆頭に、多くの織田一族が討たれることになりました。

この攻撃は結局織田軍によって鎮圧されますが

織田信長
油断していると大変な目に遭う
 

 と考えた信長は、残る屋長島城、中江城を厳重に包囲。

2重に柵で囲った後に城を燃やし、城内の20000人程を焼死させ、信長は長島一向一揆の鎮圧に成功させました。

その後

この戦いにより長島の支配体制は崩れ、この後長島の地は滝川一益が治めていくことになります。

またこの戦いにより本願寺の主戦力が1つ消え、残るは石山本願寺と越前国の2つのみとなりました。

【参考】

長島一向一揆 - Wikipedia

石山合戦 - Wikipedia




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