ポール・クルーグマンのミルトン・フリードマンについてのエッセイがおもしろい。
フリードマンは、自由な市場の重要性を世に知らしめた点では、アダム・スミス以来の偉大な経済学者だ。しかし彼の学問的な著作はバランスがとれているのに、一般大衆や政治家に対しては「市場はすべて善で政府はすべて悪」という単純化された話をするようになり、それが電力自由化の失敗や中南米の極端な民営化政策による経済破綻などの不幸な結果をまねいた。

特に重要なのは、ケインズとの関係だ。ケインズは、市場にすべてゆだね、安定化政策は金融政策で行えという古典派の教義を否定し、金利がゼロに近づいた場合には金融政策はきかないと主張した。金利がゼロになると、それ以上金利を引き下げることもできないし、貨幣も債券も同じになるから、中央銀行が債券を買って通貨を供給しても効果がないのである。

フリードマンとシュワルツは、"A Monetary History of the United States"でこれを否定し、FRBが十分な通貨を供給しなかったことが結果的に大恐慌を深刻にしたことを実証した。ところがフリードマンは、一般向けの話では、FRBがデフレ政策をとったとか、さらには大恐慌を引き起こしたのはFRBだと主張するようになった。

しかし、このような極端な主張は誤りである。1990年代の日本では、日銀は民間需要をはるかに上回る通貨を供給したが、デフレを止めることはできなかった。金融政策の有効性という点では、フリードマンよりケインズのほうが正しかったのである。
なるほどおっしゃる通りだが、クルーグマン自身の過去の議論との整合性はどうなるのだろうか。彼は1998年の日本経済についてのエッセイで、日銀がインフレ目標を設定して通貨をジャブジャブに供給すればデフレを脱却できると主張した。実はこのエッセイでも、彼はゼロ金利のもとではマネタリーベースを増やしても何の効果もないことを認めているのだが、
もし中央銀行が、可能な限りの手を使ってインフレを実現すると信用できる形で約束できて、さらにインフレが起きてもそれを歓迎すると信用できる形で約束すれば、それは現在の金融政策を通じた直接的な手綱をまったく使わなくても、インフレ期待を増大させることができる。
と主張するのだ。う~ん、マネタリーベースを増やしてもインフレは起きないのに、日銀がインフレ目標を設定すればインフレが起きる? デフレ下では金融政策は無効であり、それを民間人が知っているのに、なぜ彼らは日銀の「約束」を信用するのだろうか。日銀が「金融政策を通じた直接的な手綱」以外のどういう政策手段をもっているのか。Mr.マリックでも雇って超能力を使うのだろうか。

このエッセイの訳者などの外野から「インフレ目標を設定しろ!」という大合唱が起きたにもかかわらず、日銀がそれを設定しなかった理由は、クルーグマンの理論がこういう「大きな弱点」を抱えていたからだ(植田和男『ゼロ金利との闘い』)。根本的な原因は自然利子率が負になっている(投資需要が極度に減退している)という異常な状態であり、デフレはその結果にすぎない。デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。

要するに、短期の異常現象は短期的な変数だけでは必ずしも説明できないのである。なぜ投資需要が減退し、企業が貯蓄主体になってしまったのかは(定義によって)ケインズの枠組では説明できない。ケインズは投資需要の源泉をアニマル・スピリッツという冗談ですませてしまったが、いま日本で深刻なのは、まさにアニマル・スピリッツの低下である。

だからクルーグマンのいうように、フリードマン以降の「ケインズ反革命」を再検討する時期に来ていることは確かだが、それはケインズに戻ることを意味しない。両者がともに捨象した経済システムの生産性(TFP)を内生変数として分析し、それをいかに上げるかという問題を考えなければならないのである。