土曜日恒例のボランティアに行ってきました。明日は転職先に行ってやるべき事をやる日です。
最近は仕事が忙しく、特に目新しい情報も仕入れられていません。
考え事はしているのですが、それよりも目の前の仕事をしっかりこなす事を考えないといけません。
正直、ブログに時間を割いている余裕は殆どありません。体力の回復の為に寝ている時間が増えています。ですが、週一回の更新はやらないと気が済まないので、無理やり何か書いてみる事にしましょう。
「正しさ」について過去に色々と記事を書きました。
最近、人が求める事は三つの基準で示せるのではないかと考えています。
一つは、科学的正しさです。これは事実に基づき、実験などで確証するものであり、検証を重ねて正しさを割り出します。数学も厳密には実験は行いませんが論理的に証明を行います。
もう一つは、欲求です。人は何かを求めます。これが人とぶつかる場合もありますね。
最後に、公共性です。私は倫理というものについて今まで様々に考えてきました。
科学と倫理学は別物です。科学的に倫理を考察するという事はあり得ますし、自然主義のように全てを統一的に考える立場もありますが、普通の場合、自然科学に倫理学は含まれず、自然科学と、社会科学が科学と呼ばれ、それ以外の分野は人文学と呼ばれます。人文学を人文科学と呼ぶ向きもありますが、人文学は実験によって何かを調べる学問ではありませんよね。この実験というのが曲者で、観測はするけれど実験は行わない分野、例えば天文学は科学ではないのかとか、論理的推論で何かを確かめる論理学は科学ではないのかとか色々な指摘が考えられます。科学と非科学の簡単な線引きは存在せず、様々な基準で総合的に判断されるものであるという考え方が(科学哲学では)一般的です。ですが、世の中で多くの人がイメージする反証主義的な主張を踏まえて、倫理学を科学ではないとして考えてみましょう。
倫理はどういう状況で要請されるのでしょうか。それは欲求がぶつかる地点です。
欲求同士がぶつかり、誰かに危害が加わる恐れがある際に、かくあるべしという指令を出すのが倫理とか道徳であると仮に考えてみましょう。これを社会の仕組みの下で明文化したのが法律です。
つまり、倫理や道徳は公共性の要請なのです。この意味で、社会が倫理を形作ると考える人がいるのも理解できますし、逆に、少数派が多数派の社会に弾圧される事を批判する立場の倫理的主張がある事も理解できる訳です。反社会的な倫理というのもあり得ますね。人の欲求、そしてその交錯点の数だけ、倫理の要請があるとも言えますね。ただ、倫理というのは法的な武力による裏付けがないので、拘束力に乏しく、他人の欲求を尊重しない人間には無意味です。
又、誰の欲求が過大で、誰の欲求が不足しているのかというような客観的基準を誰かが、例えば全能の神のような存在が、決めてくれる訳ではありません。
この意味で公共性の要請である倫理はぼやけているという訳です。
科学的正しさは実験が可能ならある程度絞り込めますよね。
欲求は個々人が表明するもので、何らかの権力の支配下で明け透けに表明する事が難しい状況もありますが、基本的には内心でははっきりしています。まあ、無意識の欲求と言うものもあると言えばありますが。
ずっと、倫理とか道徳とか、実験で確かめられない正しさというものをどう位置付けるかで頭を悩ましてきましたが、全ての人間の欲求のぶつかる地点、交錯点に倫理が要請される可能性があり、社会の構築物が法体系なのだと考える事で、私の中では物事が非常にすっきりしました。汚い表現で恐縮ですが、長年悩まされてきた便秘が解消したような気分です。
今回は楽しい事や嬉しい事というテーマから逸れましたが、私としては気持ちが良い事だったのでシェアしました。それでは、また来週。