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2025年3月16日の日記 楽しさの為にすべき事・天使と悪魔

日常の一コマ

 

昨日もボランティアに行ってきました。

今日は、平日は仕事だったので一日のんびり過ごす予定です。

今週は仕事がまあまあ忙しく、結構疲れています。ゲームも歩く事を要求されるので、ほどほどにしておかないと倒れてしまいます。前にも言いましたが、私は運送業なのでデスクワークではなく、主に肉体労働をしています。なので、自分の力を良く見極めて無理のない範囲で頑張る必要がありますね。

 

そろそろ桜が咲きそうですね。お花見が楽しみです。

予定に楽しい事があると、嬉しいですね。

 

倫理・道徳についての考察

 

ところで、今日は、楽しい事の為にやるべき事を考えていきたいと思います。

人間には守るべきルールやモラルやマナーがありますね。

倫理や道徳は社会構築物…つまり社会を構成する人間の都合で作られたもので、不変でも普遍でもなく、建前、もっと言えばウソであるという思想を紹介する哲学者、例としてはニーチェを紹介する永井均氏のような方もいます。

人間の極限状態における考察は参考になります。ですが、私は倫理や道徳が人間の都合だとは思いながらも、それがウソであるとはあまり思いません。詳しくは、氏の著作物を参照してみて下さい。(ちなみに永井氏は道徳に疑問を呈しながらも、反道徳を唱えている訳ではなく、社会の中である程度、建前である道徳を守りながら生きていく事を主張しており、過激派ではありません)

・これがニーチェだ ISBN‐10 4061494015

・倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 ISBN‐10 4480093435

確かに、社会が良くない場合もあるでしょう。反社会的な倫理というのもあり得るとは思います。

しかし、素朴に考えると、倫理は人と人が上手くやっていく為に必要な事ですから、極限状態ばかり想定するのはおかしいと思います。

私個人は、「適度な」ルールやモラルやマナーは基本的には人が気持ち良く生活する為に必要な事だと思います。

そういう基本的な秩序に帰する事を守らず、安全が崩壊すると人は楽しい事ができない訳です。お花見に悪者が乱入したら嫌ですよね。

自分自身に置き換えて考えてみても、悪い事をすると良心の呵責があります。

ネットスラングですが、いわゆる無敵の人…つまり自分の生に何の価値もないと思っていて、周囲の人を慮る気持ちもない人には関係のない話かも知れません。これはこれで辛い事ですね。

そういう感情がない全くないサイコパスもいるのかも知れませんが、大体の人にはそういう気持ちが少なからずあるでしょう。それは、人々が皆、何らかの点でルールやモラルに守られて生きてきたからであり、大切にされてきたからです。そうではない人もいると思いますが、殆どの人はそういう風にして生きています。

 

具体例 教育の義務

 

例えば、教育を受けられるのは国が教育を国民の義務にしているからです。国家が常に正しいとは限りませんが、現状では保護者には子供に教育を受けさせる義務があり、子供には学ぶ事のできる権利があります。

赤ん坊は、中には虐待されてしまう人もいるのですが、無力な中で食べ物や安全を与えられて生きています。これは親の犠牲によるものです。

そもそも子供が生まれてくるのは、子供の意志ではなくて親の勝手な思いからだという反出生主義のような主張もあり得るでしょう。確かに、それはそうですね。

しかし、子供を育てる側になると分かるものですが、子育てというのは非常に大変であり、犠牲を要求されるものなのです。尤も、自分の好きで子供を生み出しているのだからそれは当然だと言われればそれまでなのですが。

 

福祉の必要性

 

何が言いたいかというと、そういう事や思いの積み重ねの中で人間は育ち、そして成長して社会の中で生きているという事です。

社会は、本当は人々がある程度、安全に健康に暮らせるようになっていなければならないし、その構成要素である私達もそういう意識を少なからず持っていなければなりません。少なくとも私はそう思います。

これを「福祉」と呼ぶ事もできますね。福祉は与えられるだけでなく、私達一人一人が寄与し実現するものだと私は考えています。

私はどちらかと言うと人は自由であり、自分の責任で自助してやっていくべきだというリバタリアン傾向があります。ですが社会の福祉はある程度、格差を是正する為に必要だと思っています。

リバタリアン無政府主義者アナーキストと混同している人がいますが、リバタリアン共同体主義者というのは不可能ではありません。

政府が大きな力を持ちすぎるとろくな事がないと私は思っていますが、ある程度の権限と経済力を持っていないと、社会の健全な状態が保てないのは事実だと思います。

私は全てを自己責任に帰する考えではないので、こういう立ち位置を取っています。

話が少し脱線しました。さて、ある程度、倫理や道徳についての私の考えを共有した所で、楽しむ為にすべき事、義務や責任について考えてみたいと思います。

 

社会の義務と私達の責任

 

人には権利と共に義務があります。

日本では国民の三大義務と呼ばれるのは、労働、納税、教育です。

教育は先に述べた通りです。労働は何らかの形で皆さん食べていく為にしていると思います。

納税は、その労働の対価である報酬から、社会の福祉を保つ為に必要な金銭を捻出する事だと考えると分かりやすいと思います。

社会のインフラを整備し、安全を守る警察や消防を維持し、その他にも様々な行政サービスを担保する為に税金は必要です。そういう訳で、人は働いて、一部の金額を収めて、教育を(受けた上で)与えて生きていく必要がありますね。

更に、人は社会において必要なルール、つまり法律ですが、守っていく必要があります。結構大変ですね。

 

世の中にはこれができない人が結構います。

働く事が何らかの理由でできない人(やむを得ない理由がある場合もあります)

納税ができない、しない人

教育を子供に与えない人

社会のルールを守らない人

上記の全てをやりたくないという人もいるかも知れないですね。本音を言えば私もやりたくないと言えばやりたくない事もあるのですが、仕方なく必要だと思うのでやっています。ともかくとして、人は社会の基本的ルールを守らないと楽しむ自由を十分に満喫する事ができなかったり、難しくなります。

 

でも、長い時間、人々や社会の流れを見ていると、こういう事をそもそも子供の頃にきちんと教えて貰えなかったり、学ばなかったりして全然できない人、何らかの理由でやろうとしてもできない人が大勢いるという事が分かってきます。人間の社会は本当に簡単ではなくて、複雑で絡まった糸のようです。それを一刀両断するのは簡単ですが、それで様々な問題が一挙に解決するとは思えません。

 

ともかくとして、人はやるべき事をやる必要があります。それを成し遂げると、人は本当の意味で心の底から楽しむ事ができるのではないでしょうか。

中には罪を犯して、償いの為に楽しむ事ができない人もいるかも知れませんね。

そういう事は良く考えます。罪とは何でしょうか。

罪とは、避ける事ができた筈なのに、それをしない事によって起こった損害に対する責任の事を言うのではないかと私は思っています。

例えば、盗みの罪は、盗まず働けばお金を得られて買えたのに、あるいは我慢しても生活に支障はないのに、盗んだ事で所有者に損害を与えた事、の責任です。

これを賠償する為には同等以上のものを金銭などで代替し謝罪する事です。

それをしても盗んだという事実は消えませんが、それをする事で責任を果たす事になります。殆どの人は、そういう行為をそもそもしない事で責任を果たしている訳です。

人はある程度、責任を果たす必要があると私は思います。

責任という言葉をいたずらに拡大し、人に沢山の責任を負わせようとする人もいるので、責任という概念が良く分らないという人もいるかも知れないですが、こういう「人としての」責任は理解して貰えると思います。これを一般的には倫理とか道徳とか呼びます。

雑に言えば、人を傷付けない事(ある意味で人を一切傷付けないのは人間には不可能なので、ざっくりと言うとですが)が大切です。

生活に必要な基本的な事と題して、そのような事を随分前ですが、こちらのリンクの記事に書きました。生活に必要な「人を傷付けないようにする」というような正しい事、正しい事を追及すると生じる人間関係の「摩擦」などについて解説しています。

gomiblog.hateblo.jp

基本的な事ができていないと、人は人生を楽しむ事ができないのではないかと私は思っています。もしかしたら、今、人生が楽しくないと言う人は、楽しさそのものが人生に不足しているのではなく、やるべき事を、周囲の人がある程度満足するレベルで果たしていないから、なのかも知れません。

こういう目に見えない言わば「借金」が人を苦しめているのかも知れないですね。

さて、最後に人間の不完全さについても考えてみましょう。

 

パスカルの言葉と人間性の限界

 

一方で、私は最近、人は天使になろうとするとむしろ悪魔になってしまうというパスカルの言葉を噛みしめています。

パスカルの真意は分からないので、私なりの解釈になりますが、これは、人間は神様のような全能の、又、全知の存在ではないので、絶対正義というものを完全に理解する事はできないという事なのではないでしょうか。

だから、人を絶対正義の棍棒で叩く事は逆に不正義だという事なのではないでしょうか。もちろん、人を批判したり裁いたりする必要が社会において存在する事は否定しません。その場合は、できるだけ十分な客観的根拠が必要となります。少なくとも印象論だけで人を断罪する事は良くない事なのです。

 

人を傷付けないように、様々に配慮して生きながら、ある程度の危険を理解して仕事をし、責任を果たしていく。なおかつ、自分が絶対正義だと思いあがらず、謙虚に振る舞い、社会の中で人と調和して生きていく事が求められているのかも知れません。

大変ですよね。こういう事を思うにつけ、それができない人、病気や障害や、様々な理由でできない人の存在を思います。パスカルの信じたキリスト教では、この世界は涙の谷に堕していると言われたりしますが、こういう意味かも知れません。

 

私は天使でも悪魔でもない人間です。当たり前なのですが、人間として人間達と生きていく為に、仕事に家事に、又、ボランティアなどの社会活動について一生懸命頑張りたいと思います。これからもよろしくお願いします。とりとめのない文章になってしまいましたが、できるだけ、多くの人が安全な場所でお花見のような楽しいイベントを楽しむ事ができるように、願ってやまないです。皆さんはどのように日々の小さな責任を感じ、楽しさを見出していますか?良ければコメントで教えて下さい。

良かったらこの記事を参考にしてみて下さい。それでは、また来週。




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