以下の内容はhttps://ihanna.hatenadiary.comより取得しました。


2026年3月31日の日記 ニュートラルという幻想

しばらく間が空きましたが、ブログをやめた訳ではありません。

更新がなかったのは単純に書く事がなかったのと、割と忙しかったせいです。

 

口は災いの元なのか

最近はあまり口を開かない方が良いのかも知れないと思いつつあります。

舌禍という言葉や口は災いの元という言葉があり、広くは東洋の書籍から、キリスト教、ユダヤ教の正典にも見られます。愚か者は黙っていた方が賢く見られるというような箴言があったりしますね。

 

世の中には色々な考えの人がいますよね。だから多様性を大切にして、広く意見を聞かなければならないというような事が言われます。しかし、本当にそうなのでしょうか?そもそも人間は80億人の声を聴けるように作られていないと思います。

伝説の聖徳太子でさえ12人の話しか聞けないのですから、我々のような一般人は自分の身内の話を聞くようにする程度の事しかできないのだと思います。

多様性と言っても、ある極論から、別の対立する極論を想定してできるだけ多くの人が納得できる妥協点を探そうという程度の事しかできず、全ての人の個別性を尊重するという事は政治には不可能だと思います。

国家というものがこの時代になっても消滅せず、ナショナリズムだのグローバリズムだのと言って対立しているのもこういう統治できる限界値というものが存在するからだと思います。人間が扱える情報量には限界があり、それが政治や国家の構造にも反映されているのだと思います。

 

過剰接続の懸念

私達は繋がり過ぎているのだと思います。顔を見て話せばまあまあ分かり合える人、妥協できる話し合いも、ネットの匿名性の中でなされるコミュニケーションは過激化してしまう嫌いがありますね。

ネットを断とうとかデトックスしようというのも、こういう分かり合えない言い合いに時間を費やすのではなく、身近な人と建設的な付き合いをしていこうという人間の願望の表れなのだと思います。

「神」という概念がありますが、人間は身近な人しかやり取りできないのだと思います。人間は神の事は分からない。神は人間の想定をはるかに超えた、定義上そうであり続けなければならない…常に埒外にある存在だからです。だからキリスト教の教えは「隣人」愛なのだと思います。

神を信仰するか否かは一旦脇に置いておくとしても、このような考えには深い含蓄があります。

 

ニュートラルという幻想

ニュートラルで自分は中立だというのは幻想です。全ての人は自分のポジションから見た物事の形に偏っていると思います。神が求められたのも、結局は人間の権威性を相対化する為だったのではないか。人間はだれしも自分が一番正しいと思いがちです。信仰というのは極論、自分の盲目性を自覚し、相対化する営みだったのかも知れません。

 

人はニュートラルではない。しかし、ニュートラルを求める。

多くの人間の話を聞き、全てを総括して結論を出したがる。

でも、本当にそういう営みが必要なのでしょうか?

もっと素朴に自分の身近な人間と、慎ましく暮らしていく方が大切なのでは?

というのは、人間の精神というのは世界の複雑性を捉えて最適化するのではなく、個人の内面に対して発揮される細やかさの方に最適化されているように思うからです。インターネットに接続するコンピューターというものが発明されてまだ、数十年です。人間はまだ、テクノロジーを完璧に使いこなせていません。

 

人の性

ここで人の性質について考えてみたいと思います。ネットの繋がろうという欲求も、結論を出そうとか総括しようという欲求も、権力志向の一種なのではないかという風に思っています。他者を説得し、影響力を持ちたいという欲求は、規模の大小を問わず“力”の一形態だからです。

これはネットで意見をいうべきではないという事ではありません。ネットで論客として力を振るおうという人に向けての言葉です。他者を言葉によってコントロールしようという「力」は、非常に大きいものです。

力を求める人が力に溺れて破滅するという事はよくある事です。

そういう事を肝に銘じておくべきだと思いました。

 

終わりに

人が頭の中に想定できる「世界」は、現実の世界の情報よりも常に少なくそのモデルは粗雑です。だからこそ、目の前にいる人々との関係を育てる事の方が、人間らしい生き方なのだと思います。

家族との何気ない会話や、気の置けない友人との時間を大切にしていけたらと私自身も願っています。自分の話を人に押し付けるよりも、人の困りごとや思いに耳を傾け、共に喜び、共に苦しむ、そんな人間で在れれば良いと思っています。

 

 

それではまた、来週以降にどこかでお会いしましょう。

2026年3月1日の日記 頑張り過ぎていたかも知れません

頑張り過ぎていたかも知れません。

胃腸炎か、胃潰瘍か分かりませんが胃がおかしくて病院に行き、服薬していました。

週6労働とか、休みの日も介護の学校に行き勉強していたりしたつけが回ってきたのかも知れませんね。そこで、仕事を減らしてみました。

最近は、一緒に働く仲間が色々やってくれるようになりました。

そのお陰で早く帰れる日も増えてきました。

自分で頑張る前に、もっと周囲の人を頼った方が良かったのかも知れません。

また、力み過ぎるとかえって目標を遠ざけるのかも知れないですね。

熱心と言えば聞こえは良いですが、お金を稼ぐ為に頑張る事は己の欲望でもあります。

これからはもっとリラックスしてゆっくりと働いていく事にします。

 

前にもそんな内容の事を書いたと思いますが、逆に自分を追い込んでしまいました。

何故、そんな事が起きるのかと言えば、充実感が足りないからでしょうね。

私は人に貢献できているという感覚を通して充実感を覚える事が多いです。

だから、仕事や勉強など色々な予定を入れて自分の虚無感を埋めようとしているのかも知れません。家にいても暇という事もまああります。そういう時、ネットをぼーっと見ていてもなんだか満たされません。逆に、ネットを見ていたい時には繁忙期などで忙しくなかなか予定をうまくコントロールするのは難しいですね。

 

どうすれば、満足いく人生を送る事ができるのか?結構、難しい問題ですね。

「何かを残す」というのは一つのキーワードになるかも知れませんね。

自分の生きた証として結婚して家庭を持つというのも一つの手段かも知れないし、人に役に立つ何かの業績を残すというのも一つの手段かも知れません。

私の場合、その両方が人に誇れるレベルではありません。その為、何かを残したいという気持ちが自分を駆り立てているのかも知れませんね。結局のところ、頑張り過ぎていたのは“働く量”ではなく、“自分を満たす方法を外側に求めすぎていたこと”なのかも知れません。

 

とは言え、仕事で別に全く貢献できていないという訳ではないですし、結婚はしてませんが家族を助けているという面もあるにはあります。無理をしていた自分に気づけたこと自体が、今回の大きな収穫だったのかも知れません。

結果を急ぐ事で自分の体を壊してしまうよりは、もっとじっくりとそういう課題に向き合っていきたいなと思っています。

 

皆さんも頑張り過ぎていないでしょうか?時には少しスローダウンする事も必要ですよね。皆さんの余暇の過ごし方や、充実した人生の出来事など、良ければコメントなどで教えて下さい。それでは、また来週以降にお会いしましょう。

2026年2月22日の日記 お久しぶりです

お久しぶりですね。忙しくてブログなどを休止していました。

休止している間、色々あったのですが書ける事は少ないです。ほとんど仕事をしていて個人情報の関係で言えない事が多いからです。

仕事と直接関係あるか分かりませんが、胃腸を悪くしています。ようやく治ってきました。その回復の為もあり、少しの間、仕事をセーブしていこうと思います。時間ができるのでブログも少しは書けると思います。以前のように毎週更新という訳にはいかないと思いますができる範囲でやっていきたいと思います。

 

最近、仕事などを通して考えた事を一つ書こうと思います。

色々な事が頭の中を巡っていますが、一番気をつけたいなと思う事は、皆の幸せという事ですね。戦争なども各地で起こっていますし、国内でも様々な対立がありますが、究極的には皆が幸せになる事が一番大切だと思います。

理想を言えば、誰も犠牲にならない事が良いと思うのですが、人間世界はそんなに単純にできておらず、競争や利害関係の対立があり、割を食う人もいますね。

これは一つの例ですが、功利主義を採用した場合も、大勢の利益に反すると個人の理想は否定されます。

迷惑な人が集団の利益を破壊するという事も考えられますがそれだけではなく、大勢が得をする為に、個人の尊厳が破壊されるという事も十分考えられ注意が必要です。

私は周囲の人にできるだけダメージを与えないようにするとか、できるだけwin‐winの関係を作れるようにしようとか気をつける事位しかできないですが、本当なら倫理というのは全ての人の幸福という前提の上に語られるべきものではないかと思います。

正しい事、望ましい事に全体の幸福という観点が欠如すると、それは簡単に自分の欲望とすり替わります。欲望は人間が生きる為に必要なものですが、生身の欲望を、正義という言葉でコーティングして武器として振りかざす事はしたくないですね。

 

自分の欲望に自覚的になるという事や、正義を語る時に他者の利害をきちんと考える事を深めていきたいものです。ドストエフスキーが全世界の幸福とか万人の幸福を願うのは簡単だが、隣人を愛するのは難しいと言ったそうです。これは、抽象的な理想を掲げるより、実際の人間生活において隣人を愛する方がずっと難しいという意味らしいですね。隣人は好きな人とか思想が合う人とは限りませんよね。時には敵対する事もあるかも知れません。敵を愛するというキリスト教の教えはとても重いですが、できるだけ対立した人間の尊厳というものもよく考えて、相手の立場を理解した上で、適切な行動を取っていきたいものです。

 

皆さんの考える理想の世界とはどんなものですか?

良ければコメントなどで教えて下さいね。

それではまた、来週以降にお会いしましょう。

2025年12月14日の日記 改革についての個人的考え

土日、体調が悪かったので部屋で休んでいました。途中、買い物や散歩に出掛けましたが、近所だけです。

 

Twitterでの出来事

今日は、少し前にTwitterでいただいたリプライに関しての記事を書きたいと思います。

 

安倍晋三を殺害した事で世の中良くなったか?変わらないか、悪くなってる気がするんだよなあ。既得権益側、貴族とか王を吊るせば世の中良くなるという昔みたいな革命観は古いよ。ポピュリズムに対してマルクスの思想みたいなものは無力。

 

というつぶやきをした所、

 

これはどうするのが良いんでしょうかね

・権力を保持させ続けない、
・力やお金の流れを透明化、公文書化する
・政策実施の一連を、結果を評価判断させる機構をもつ
・下からの意見を反映させる

 

というリプライをしてくれた方がいました。

革命、改革案

これについて、私の個人的考えを書いてみようと思います。私は単なる庶民であり、権力など一切持っていないので、単なる床屋政談のようなものになってしまいますが、自分の主張を記録に残しておくのも良いでしょう。

権力を保持させ続けない

これに関しては選挙があるので、選挙で政治家を落とすという事をきちんとやっていけば、問題にはなりにくいと思います。供託金問題など、様々な面を考慮する必要はありますがどこかの国のように権力者が自分の権力を永続させようとして、選挙を行わなかったり、対立候補を暗殺するような国ではないので、そこはまだましです。

力やお金の流れを透明化、公文書化する

これに関しても別に全部が闇から闇に葬られている訳ではないと思うんですよね。良く、情報の開示を求めると黒塗りの文書が出てくるみたいな話がありますが、予算を使う時にはそれなりの手順を踏む必要がありますしね。まあ、汚職がないとは思わないですが。

政策実施の一連を、結果を評価判断させる機構をもつ

これも選挙がありますので、選挙で民衆がきちんと政策判断して投票行動をすれば良い訳です。後、国会図書館に報道記事をアーカイブするのは良いと思うんですよね。

下からの意見を反映させる

これも選挙で民衆がきちんと政策判断をして投票行動をすれば良いのです。何故、下の意見が反映されていないように思うのかというと、まず日本の問題は少数者の支配による悪政ではなく、ポピュリズムによるものだと私は考えています。アルゼンチンの福祉ポピュリズムに近いと思います。又、マジョリティの意見は反映されやすく、マイノリティの意見は反映されにくいですよね。

日本国民に足りないもの

日本国民に足りないもの、それはずばりリテラシーだと思います。リテラシーとは情報を精査する能力の事ですね。じゃあ、お前は完全無欠のリテラシーがあるのか?と言われると、私も間違える事はありますのでそうではないですね。しかし、ちょっと調べればおかしいなという事に大勢が騙されているという光景を良く見ます。最近だと、保守政党として参政党が躍進しましたが、参政党は偽科学と陰謀論に基づく政策が酷いです。歴史修正主義もですね。排外主義も問題だと言われていますが、私は個人的にそれ以上にそもそも科学リテラシーがないのだと感じています。だから、問題があると外国人のせいにする。では、左派は問題ないのかと言えばそんな事はなく、左派も原発の事故の際の放射能に関するデマなど目を覆いたくなるような事も多くありました。こういう偽科学や陰謀論を支持する人は右左関わらず、どちらにもいるようです。

 

日本国民には余暇と教育が不足していると私は思います。

国は人々が政治について理解を深める事ができるように、貧困対策をし、民衆が食べる事に困らないような状況を作る事と、特に若年層(高齢者の思想を変えるのは困難なので)に正しい科学知識を得られるような場を提供する事が重要だと思います。

人々が正しい知識を得る事ができるようになれば、そしてそれを活かすだけの余裕が持てれば、選挙によって政策判断をきちんと行うという投票行動が改善され、社会が安定する可能性が高いと私は信じています。

 

日本は科学技術予算を削っています。又、物価は高騰し、賃金は上がらず、少子高齢化が加速し続けています。こういう部分に力を入れるべきという事はずっと以前から言われているのですが、なかなかそうなりません。一つは、人々が現状維持を望んでいるからでしょう。日本は高齢者が多い為、若者の意見が政治に反映されにくい構造になっています。この事をシルバーデモクラシーの問題と呼んだりしますが、こういう状況が福祉ポピュリズムに近い状態を作り出しているのだと考えています。

 

もっと詳しく書く事もできそうですが、今日はこの辺で止めておきます。

それではまた、来週。

2025年12月7日の日記 人の「実力」と周囲の人々との関わり方

近況

こんばんは。

昨日は二度寝して昼に起き、高齢者福祉施設のボランティアに行ってきました。

今日は障碍者施設のイベントの手伝いに行ってきましたよ。

仕事の繁忙期で結構、疲れています。

暖かい湯舟に浸かるとか良いですね。

真の実力

今日は、実力とか底力というものについて書こうかなと思います。

Twitterなどネットで漫画の切り抜きがよく貼られています。その一コマで登場人物が、全ての条件が下振れした時の力が実力なのだと言っている画像があります。

私もこの意見に賛成です。人間の力は、実は他人の支援や周囲の環境の安定を前提している事が多いです。家庭環境もそうですし、自然環境もそうです。

自分の気付かない所で、誰かが自分の不始末やミスをフォローしてくれているという事もあり得ます。

よく感謝を忘れないで、日ごろから気をつけようと言われたりしますが、これは驕れる者は久しからずやという意味でしょう。自分の力は、自分だけのパフォーマンスではなく、多くの人の善意によるものであるという認識を持つべきだと思います。

私はよくRPGゲームをプレイするのですが、ボスと戦う時には自キャラの行動が全部下振れしても勝てる位に準備をしてから挑みます。会心の一撃がいつも出るとは限りません。

そう考えてみると、自分のできる事を多く見積もるというのは破滅への第一歩と言えるかも知れません。常に絶対に勝てる相手とだけしか戦うなという教えが昔の剣客によって語られてたりしますが、本当にそうで、負けたら死んでしまうようなリスクの高い挑戦の場合には、とにかくやってみようという精神は命取りです。

どんどん試行回数を重ねて場数を踏んで成長しようとか、コンフォートゾーン、つまり自分の安全地帯から出て自分に負荷をかけよう等と言う話は間違っていないのですが、場合によります。

自分の実力というものを弁えて、自分が確実に処理できる範囲で仕事をする事が長く仕事を継続するコツ、つまり持続可能性ある働き方なのかも知れません。

ihanna.hatenadiary.com

支援を取り付ける力

逆に言えば、多くの人から助けて貰えるような人、支援したくなる人は自分の基本的能力を超えて何倍もパフォーマンスを発揮できるという事になりますね。

よく、私は働く上でこう言っているのですが、現代では能力が高くても周囲の人間に害を及ぼし、能力をスポイルする人間よりも、自分の能力は左程でもなくても、周囲の人間に力を与えて全体のパフォーマンスを向上させる人の方が評価されるし、仕事において有用であるという考えを持っています。

実は、天才とかカリスマと呼ばれる人もこういう人間なのではないかと私は考えています。支援を取り付ける力や、支えたくなる性質は、個人の抜きんでた能力を遥かに超える成果を生み出す事があるのではないかと思います。

倫理

そこで問題になってくるのが倫理です。実力を超えた力を発揮するには倫理が必要になってきます。人の事を傷付ける人を助けたいと思うような人は稀でしょう。利益の為に敵対関係を作るとか、煽るとかも考えられますが、ここではそういう考えは一旦脇においておきます。できるだけ多くの人の力を得る為には、多くの人と良い関係を作る事が大切です。しかし、倫理って難しいですよね。

正しい事を主張すると、人を傷付ける事もあります。そもそも正しい事って何なんだろう?人を殺害したり、暴力を振るったり、盗みをしたり、騙したり、嘘を吐くのは悪いと言われますが、これもケースバイケースで正当化される事があります。基本的にはこうだなという事が言えても、詳細を詰めていくと人との関係の中で色々と差異が明らかになってきます。

功利主義と、功利主義的観点に反対する立場

話は変わりますが、功利主義という考えがあります。ジェレミ・ベンサムジョン・スチュアート・ミルが代表的な論者です。ベンサムとミルの功利主義は異なるのですが、大まかに言うと、功利主義とは全体の利益を最大化する選択をするという思想です。

逆に、トロッコ問題などは、功利主義に否定的な見解を持つ論者に良く取り上げられる事がありますね。ポストモダン思想でもフーコーパノプティコンというベンサムが提案した刑務所、一望監視施設を監視社会のメタファーとして用い、批判しています。

全体の利益を最大化しようとする時、そこから零れ落ちる要素があるという事は否めません。多数派・マジョリティに対する少数派・マイノリティの擁護というのもこういう視点から主張されています。とは言え、多くの社会は民主主義的な投票によって支えられている側面があるので、マジョリティの思想、主張を無視する事はできません。衆愚制・ポピュリズムの危険もありますが、うまく折り合いをつけていく必要があります。

資本主義における仕事は欲望の奉仕である

この資本主義において、仕事とは需要に供給する事で報酬を得るという事になります。需要を掘り下げていくと、人間の欲望に突き当たります。この欲望には基本的欲求のようなものも含まれますし、社会的な承認欲求なども含まれ得ます。人の欲望が経済を駆動しています。この欲望を利用し、うまく需要に供給を満たし、その結果、報酬を効率良く得る人がビジネスで成功するという訳ですね。こう考えてみると、支援を取り付けるカリスマ的能力は、倫理と欲望という二つの軸で成り立っているように見えます。

まとめ

人の真の実力とは、確率の上振れを差し引いたものである、と考えました。

その上で、大きなパフォーマンスを発揮する為には、倫理と欲望への奉仕という二つの要素があるのではないかと考えました。

実力は支援に依存する → 支援には倫理が関わる → 倫理は功利主義と対立する → 資本主義では欲望が基盤という流れがあります。

自分の小ささを知る謙虚な心と、人の欲望を理解し、それをうまく「乗りこなす」ような知性という一見すると相反するものを両立する事がこの世界で成功する要素なのかも知れません。

 

是非、あなたもこのテーマについて考えた事、もっと掘り下げたいと思う事をコメントなどで教えて下さい。

それでは、また来週。

2025年11月29日の日記 疲労から考える持続可能な働き方

近況

皆さん、お疲れ様です。私は今日は昼からボランティアに行き、帰宅してブログを書いています。年末感が出てきて結構忙しくなってきました。皆さんも同様ではないでしょうか?

 

今日は、特別書くべき事が思いつかないので、短めに、最近感じている働き方の課題について書きます。

仕事における疲労

最近の悩みは体が痛い事ですね。関節が痛いです。特に足の裏と、首と肩ですね。体が軋むようです。

仕事をしている時はさほど気にならないのですが、帰って休んでいると段々と痛みが出てきます。これは脳内物質、俗にいう脳内麻薬的なものが痛みを抑えているのが、仕事が終わると落ち着いて痛みが出てくるのだと思います。

そう考えると、結構、限界を超えて働いているのだなという気がしています。

家に帰るとストレッチをしたり、ゆっくり寝たりはしているのですがそれでもなかなか疲れが取れません。筋力を増やそうとか、色々工夫はしていますが、改善されないですね。

仕事の仕方を考えて無駄な動きを減らしたり、労力を抑える必要がありそうです。

私の疲労感は、社会全体の働き方の問題ともつながっているように思います。

機械化の限界と人間の限界

ちょっと前に人間の仕事はコンピューターが代替するという話がまことしやかに伝えられていました。しかし、この説は今、エネルギー問題によって否定されつつあります。

世界中でAIによる労働者の代替が進められていますが、電力が不足しています。

技術が進んでも、それを支えるエネルギーがなければ理想は現実化しないですよね。

日本の場合、原子力発電を増やすのが困難なので機械化によって人間が淘汰されるという未来図が実現するのは遠い未来になりそうです。私はそう予想しています。

Twitterなどネットでの情報ですが、欧米でも巨大なデータセンターが作られているものの、電力不足で稼働していないという話もあるようですね。日本でも「データセンター 稼働していない 電力不足」などで検索すると複数の記事がヒットします。電力不足や、消費電力の抑制などの技術革新が起きない限り、人間の仕事を機械が担い、人間の労働者が0になるというような事は当面ないでしょう。

その一方、人間の要求水準は年々高まっているように思います。物流サービスも、当日注文したものが当日に届くなどという風になってきています。これは保管コストを抑える面で有効ではありますが、何かあって物流網が崩壊すれば一気に破綻するサービスです。人間がマンパワーでそれを補うのは無理です。

仕事においては持続可能性が重要だと思います。今日、無理をして乗り切ってもそれを毎日続ける事はできません。毎日無理をせず働ける水準で、サービスの品質を保ち、利益を出す構造を考えねばなりません。こういう戦略の問題を戦術や現場の力で何とかしようというのが日本の労働の現場では横行しています。

解決策の模索

今一度、人間の社会の持続可能性と成長戦略について良く考える必要があります。リソースは限られているので、その中で仕事を最適化しなければなりません。

この意味で、人間はもっと知恵を絞る必要があると思います。

無理な事はきっぱり諦める必要もあるでしょう。

気合や根性で頑張ろうというのは一時の話で、永続しません。大日本帝国ではないのですから、欲しがりません勝つまではみたいな我慢の風潮はやめるべきです。

という訳で、仕事の愚痴が入ってしまいましたが、そんな風に考えています。

仕事ができる人は良い意味で怠け者であるという話があります。

無能な働き者よりも、怠け者の方が仕事のやり方を効率化する事に熱心だからというのです。そうですね。できるだけ労力を使わずに成果を最大化する方法を考えるべきです。そのような持続可能な働き方を模索していくべきでしょう。

 

そんなこんなで頑張っています。皆さんの工夫や知恵を共有し合うことで、より持続可能な働き方のヒントが見つかると思います。皆さんもこういう働き方の工夫をしているよとか、疲労回復の知恵があるよという体験談などがあれば、コメントで是非教えて下さい。それでは、また来週お会いしましょう。

2025年11月23日の日記 情報整理の葛藤と基準の不在

 

近況

昨日は体調が悪くてボランティアを休みました。今日は、昼まで寝、近所に出掛け、先ほど買い物から帰ってきた所です。帰ってきてから購入した整理整頓グッズで部屋を片付けています。今、ちょっと疲れたので休憩がてらブログを書いています。

 

断捨離の葛藤

私は、物を捨てられないタイプの人間ではないのですが、情報を整理するのが苦手です。必要な知識や情報と、不要なものを分別するのって案外難しいですよね。

領収書とか明細とかも、結構長い間保管している傾向にあります。

この間、履歴書を書いたのですが、自分の経歴を綺麗に整理整頓するのも苦手で、卒業証書とかしまい込んでどこにあるかも曖昧になっています。本当はこういうのはダメなのでもっと常日頃から整理整頓を心がけるべきでしょう。

以前、ライフログをつけようという本を購入した事があります。自分の人生の記録をデジタルツールなどを利用してつけようという試みですね。私も、そういう記録があれば便利だろうと思って本を購入したのは良いですが、実行に移せないでいます。

一応、書類はまとめてあるのですが、それを綺麗に並べたり、保管期間を分けて置いておくというのが面倒で仕方がないです。

究極、いらないものは全部捨てれば良いのですが、何かのタイミングで不意に必要になったらどうしようという、半ば強迫観念のようなもので捨てられません。

同じ事が書籍にも言えて、雑誌は比較的簡単に捨てられるのですが、きっちりした内容の本だと、又どこかで読む必要があるかも知れないという、学者でもないのに、強迫観念で捨てられないのです。

 

情報を整理する基準

何か、比較的分かりやすく明確な基準があって、この世に生きていくにあたって必要な知識とそうでない知識を分類する能力があればなあと妄想する事があります。

しかし、そんなものはないと思います。科学の基準とか、事実か否かとか、代替可能かとかでざっくり分ける事は可能でも、それらは簡単な基準ではないです。

科学も、反証できるものだけが科学であるという、ポパー反証可能性のような分かりやすい基準は強すぎる制約であるとして今は廃れています。何が事実なのかもなかなか難しい所です。人によって物事を見ている角度が異なり、思想にも違いがあるので事実認識に差異があるのはよくある事です。ましてや記録になれば、何が真の歴史記録かなんて本当に難しい問題です。買いなおせるものや、公的に明瞭な情報は所持している必要がないでしょうが、便利の為に手引きみたいなものは欲しくなりますし、本を捨てる時には結構気を使います。

 

皆さんは情報をどのように管理していますか?

もし、皆さんの中でこういう風に整理整頓しているよという分かりやすい基準があれば、是非教えていただきたいです。

 

それでは、また来週。




以上の内容はhttps://ihanna.hatenadiary.comより取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14