しばらく間が空きましたが、ブログをやめた訳ではありません。
更新がなかったのは単純に書く事がなかったのと、割と忙しかったせいです。
口は災いの元なのか
最近はあまり口を開かない方が良いのかも知れないと思いつつあります。
舌禍という言葉や口は災いの元という言葉があり、広くは東洋の書籍から、キリスト教、ユダヤ教の正典にも見られます。愚か者は黙っていた方が賢く見られるというような箴言があったりしますね。
世の中には色々な考えの人がいますよね。だから多様性を大切にして、広く意見を聞かなければならないというような事が言われます。しかし、本当にそうなのでしょうか?そもそも人間は80億人の声を聴けるように作られていないと思います。
伝説の聖徳太子でさえ12人の話しか聞けないのですから、我々のような一般人は自分の身内の話を聞くようにする程度の事しかできないのだと思います。
多様性と言っても、ある極論から、別の対立する極論を想定してできるだけ多くの人が納得できる妥協点を探そうという程度の事しかできず、全ての人の個別性を尊重するという事は政治には不可能だと思います。
国家というものがこの時代になっても消滅せず、ナショナリズムだのグローバリズムだのと言って対立しているのもこういう統治できる限界値というものが存在するからだと思います。人間が扱える情報量には限界があり、それが政治や国家の構造にも反映されているのだと思います。
過剰接続の懸念
私達は繋がり過ぎているのだと思います。顔を見て話せばまあまあ分かり合える人、妥協できる話し合いも、ネットの匿名性の中でなされるコミュニケーションは過激化してしまう嫌いがありますね。
ネットを断とうとかデトックスしようというのも、こういう分かり合えない言い合いに時間を費やすのではなく、身近な人と建設的な付き合いをしていこうという人間の願望の表れなのだと思います。
「神」という概念がありますが、人間は身近な人しかやり取りできないのだと思います。人間は神の事は分からない。神は人間の想定をはるかに超えた、定義上そうであり続けなければならない…常に埒外にある存在だからです。だからキリスト教の教えは「隣人」愛なのだと思います。
神を信仰するか否かは一旦脇に置いておくとしても、このような考えには深い含蓄があります。
ニュートラルという幻想
ニュートラルで自分は中立だというのは幻想です。全ての人は自分のポジションから見た物事の形に偏っていると思います。神が求められたのも、結局は人間の権威性を相対化する為だったのではないか。人間はだれしも自分が一番正しいと思いがちです。信仰というのは極論、自分の盲目性を自覚し、相対化する営みだったのかも知れません。
人はニュートラルではない。しかし、ニュートラルを求める。
多くの人間の話を聞き、全てを総括して結論を出したがる。
でも、本当にそういう営みが必要なのでしょうか?
もっと素朴に自分の身近な人間と、慎ましく暮らしていく方が大切なのでは?
というのは、人間の精神というのは世界の複雑性を捉えて最適化するのではなく、個人の内面に対して発揮される細やかさの方に最適化されているように思うからです。インターネットに接続するコンピューターというものが発明されてまだ、数十年です。人間はまだ、テクノロジーを完璧に使いこなせていません。
人の性
ここで人の性質について考えてみたいと思います。ネットの繋がろうという欲求も、結論を出そうとか総括しようという欲求も、権力志向の一種なのではないかという風に思っています。他者を説得し、影響力を持ちたいという欲求は、規模の大小を問わず“力”の一形態だからです。
これはネットで意見をいうべきではないという事ではありません。ネットで論客として力を振るおうという人に向けての言葉です。他者を言葉によってコントロールしようという「力」は、非常に大きいものです。
力を求める人が力に溺れて破滅するという事はよくある事です。
そういう事を肝に銘じておくべきだと思いました。
終わりに
人が頭の中に想定できる「世界」は、現実の世界の情報よりも常に少なくそのモデルは粗雑です。だからこそ、目の前にいる人々との関係を育てる事の方が、人間らしい生き方なのだと思います。
家族との何気ない会話や、気の置けない友人との時間を大切にしていけたらと私自身も願っています。自分の話を人に押し付けるよりも、人の困りごとや思いに耳を傾け、共に喜び、共に苦しむ、そんな人間で在れれば良いと思っています。
それではまた、来週以降にどこかでお会いしましょう。