数多くいるSF作家の中でもニール・スティーヴンスンはとりわけ大好きな作家のうちの一人であり、読み終えて本作は傑作だと思ったが、一方で誰しもにオススメできる作品でもないというのが正直な感想であった。冒頭から二段組で40ページ以上に渡って長々とテキサスで増えすぎてしまった野ブタとそれを追うハンターの話がはじまって、「気候変動SF」だといっているのに気候変動の話の本筋に入らず、上流階級の社交上のやり取りや巨大ワニの話が続いて「いったい何の話やねんこれは……」と長いSFを読み慣れている僕ですらうんざりするような冒頭が続くのだ。
最終的に読み終えてみれば冒頭のよくわからなかった豚の話なども様々な意図や象徴を散りばめていたのだな、とわかるのだが、読み始めた時はそんなことはわからない上に、理解した上でなおそのパートが長すぎる。その後も、特に近年のニール・スティーヴンスン作品の特徴として細部の構想や技術的詳細を念入りに描写していく傾向が発揮されており、物語の本筋だけを追いたい人からすれば「枝葉」の話が多すぎる。一方で、「未だきていない近未来の細部」をどこまでも細かく描写してほしいと考え、愛するタイプのSF読みならば、これほど楽しめる作品もない。
気候変動SFとしての特色
気候変動SFは国内作家のものも含めて相当な数が出ており、特定の動物、あるいは植物の行く末を描き出すものであったり、海面上昇だけをテーマにしていたり、経済から大気中の二酸化炭素の除去技術まで様々な側面から総合的に気候変動対策を描く出す作品であったりと様々だが、この『ターミネーション・ショック』が中心に描き出していくのは「ジオエンジニアリング」と呼ばれる技術がもたらす変化だ。
ジオエンジニアリングとは何かといえば、地球温暖化対策のために気候システムに意図的かつ大規模な工学的介入を行う技術の総称になる。代表的なものでいえば、成層圏に微粒子を散布し、太陽光が地表に届くまでに反射することで、気温を直接的に下げるといった方法がある。そんなことできるの? ていうかしていいの? と思うかも知れないが、火山の噴火などで同じことは歴史上何度も発生しており、どの高度にどれぐらいの粒子を撒くことで気温が下がって、さらにどれぐらいの期間で落ちてくるかもわかっている。ある意味「データがとれている」手法なのだ。
とはいえこれは対症療法にすぎない。風邪の最中に鼻水を吸い出しているようなもので、原因が消えるわけではない。だが、身体がしんどい時は対症療法でもなんでもしてほしいに決まっているわけで、海面上昇で都市や国家が丸ごと沈もうとしているのならば、人々はジオエンジニアリングに飛びつかざるを得ない。本作『ターミネーション・ショック』が描き出すのは、そのレベルまでいった近未来の物語だ。
あらすじ・世界観など
物語の舞台は気候変動が深刻化した近未来。物語はオランダ(作中ではネーデルラントだ、と訂正が入る)の女王サスキアが自分が操縦する小型機で、テキサス州のウェーコに着陸しようとしている場面から幕を開ける。本来の目的地は同じくテキサス州にあるが少し離れたヒューストンだったのだが、ヒューストンが着陸、あるいは離陸が困難なほどの熱波に襲われているため、代替地への着陸を強いられているのだ。
ところが着陸の途上で体重が400kgもあろうかという超巨大な豚と接触し、女王サスキアはウェーコで足止めを食らうことになる。そこからしばらくこの超巨大な豚がどのようにして巨大な豚になったのかが数十ページにもわたって語られるのだが割愛する。とにかく、オランダの女王サスキアはテキサスの億万長者T.R.シュミット博士の招待を受け移動中であり、その道中に事故にあって地元ハンターのルーファスと同行して向かうようになった。序盤の150ページぐらいはこれだけ理解していればよい。
さて、ではなぜわざわざオランダの女王(だけでなくロンドンやヴェネツィアの要人ら)が億万長者の招待を受けているのか? といえば、それはT.Rのあらたな事業が「低地の世界」に良い影響を与える可能性があるからだ。T.Rは億万長者とはいえ政府の関係者でもなく、ただの個人に過ぎない。しかし、硫黄を散布するのは、個人レベルの資産でも可能だ──といって、T.Rは招待客に「ビッグガン」を案内する。
ビッグガン
ビッグガンは巨大な複合施設で、天然ガスの分解装置、冷却塔、タンク群、巨大な硫黄弾と装填の準備のための工場を備えている。ビッグガンはそれらすべてを動員し、成層圏(約24km)まで硫黄が詰まったシェルを打ち上げるためのシステムだ。シェルは打ち上げ後に装弾筒とノズルコーンを外し、積み込んだ二酸化硫黄を噴射して推力を生み出すエンジンと化して動き回りながら粒子を撒き散らす。このビッグガンで、シェルをひたすら打ち上げ続け、エリアを寒冷化させるうのがT.Rの事業なのだ。
様々な疑問点が湧いてくる。億万長者とはいえ、打ち上げの人員も含めて数十億ドルの費用がかかるだろう。個人でそれが賄えるのか? といえば、採掘・購入した硫黄が年々値上がりを続けていることだけでなく、彼が所有するヒューストンの不動産ポートフォリオがその役に立ってくれる。ヒューストン大都市圏全体の不動産価値が1兆7500億ドルだとして、彼とその仲間がその1%、200億ドル相当を持っていたとしたら、10%上がっただけで20億ドルの利益をあげることができるはずだ。
また、アメリカ国内で勝手に成層圏まで物をポンポン打ち上げていいのか? という疑問もあるが、FAA(アメリカ連邦航空局)にたいしてT.Rは打ち上げの申請を上げ、受理されている。実際にやっていることがバレたらアクションがあるが、シェルの動きは飛行機の軌道とは明らかにことなるからレーダー画面では動きさえしない。シェルが落下する時は気がつくが、それはメキシコの領空で行われ(メキシコは暗黙で容認)、FAAが気にしない高度でアメリカの領空に進入するような動きをとらせている。
気候地政学
とはいえ、そうした手段は小手先の誤魔化しに過ぎない。常時稼働させてシェルを打ち込んでいるうえに、物語そうそうにネーデルラントの女王をはじめとした「低地に暮らす人々」にジオエンジニアリングの実演を見せているのだから、それがアメリカどころか中国やインドといった大国に知れ渡るのは時間の問題だ。
実際にはアメリカ国内は地球温暖化の緩和の恩恵を受け、なし崩しに許可をとれるかもしれないし、委員会や裁判所の申し立てで遅延させることもできるだろう。だが、他国はどうか? テキサスでちまちまやっているだけならいいが、この動きが世界中に広まったら何が起こるのか? シミュレーションは多数なされるが、その結果は誰にもわからない。中国やインドの気候が変わらないと誰が保証できるのか。
本作の重要なテーマのひとつに、「人間を動かす物語の力」がある。人は物語によって自分の行動を変容させる。冒頭に出てきたハンタールーファスの子どもは、YouTubeや童話で「ブタはかわいい存在だ」という物語を浴びせかけられた結果、近隣のブタに餌付けをし、その成長を加速させ、まわりめぐって自分の命を奪う結果になった。
テキサスでのジオエンジニアリングがインドや中国に良い影響しかもたらさなかったとしても、インドや中国が「それは自分たちにとって悪い影響を起こすものだ」というストーリーを描けば、現実がどうあれ攻撃対象になりえる。同時に、ネーデルラントやヴェネツィアをはじめとして、T.Rの事業が自分たちにとっての利益であると考える国家・都市も多数存在する。そうした立場は国家の気候状態や、位置している場所が低地か否かによって決まり──と、T.Rのジオエンジニアリングは、世界中の国を巻き込んだ新たな地政学上の議論として発展していくことになるのだ。
ターミネーション・ショック
タイトルの「ターミネーション・ショック」とは、こうしたジオエンジニアリングに伴う正当な懸念だ。たしかにジオエンジニアリングを行えば確実に地球を寒冷化させることができる。しかし──たとえば、特殊部隊の急襲やアメリカ政府による差止めによって、一度動き出したジオエンジニアリングが止まってしまったらどうか?
ジオエンジニアリングを意図的に行使した場合、モラルハザードなど様々な問題が起こる可能性が懸念されている。たとえば、「なーんだ、気温を下げられるならいくらでも二酸化炭素を排出してもいいじゃん!」といって、車をバンバン走らせたとしよう。しかしその背後では、気候変動の要因は止まっていないのだ。いつかジオエンジニアリングが続けられなくなったら、これまで以上の速度で気候変動の影響が表出してもおかしくはない。気候への人為的な介入を、急に停止した場合の反動(ショック)がターミネーション・ショックなのだ。
おわりに
では、本作でT.Rの事業は何者かの介入によって停止し、「ターミネーション・ショック」は起こるのか──? といえば、それは読んでのお楽しみだが、少なくともT.Rは自分の事業が他国の怒りと武力介入を招くことを十分に承知しており、特殊部隊が攻め込んできた時に対抗するための準備も同時に始めていく。
たとえば、間違いなく攻撃にも偵察にも使われるドローンにどう対抗するのか? 本作ではこれにたいしてあっと驚く発想で対抗していて──と、ジオエンジニアリングを中心テーマとした近未来SFだが、本作で扱われていくテクノロジーの幅は広い。AIにディープフェイクの政治利用。ドローンに3Dプリンタに……。そうしたひとつひとつの描写があまりに詳しすぎるのが玉にキズなのだが、そうしたディティールを心ゆくまで堪能したい人にとっては、よだれが止まらない長篇だ。
T.Rが不動産のために世界の気候を混乱に陥れる私利私欲の男のように見えて、その実熱い男(これは女王も含めたすべての登場人物がそうなんだけど)なのがいいんだよなあ……。