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翻訳の揺らぎが魔法となる、翻訳を愛するすべての人に薦めたい、本格ファンタジイの傑作──『バベル―オックスフォード翻訳家革命秘史』

この『バベル』は、R・F・クァンの四作目の長篇にして、ローカス、ネビュラなど数々の文学賞を受賞&ノミネートされた話題の本格ファンタジイ・歴史改変スペキュレイティブ・フィクションだ。著者は1996年に中国の広東省に生まれ4歳の頃にアメリカに移住し、数々の話題作を世に送り出している今最注目の作家の一人になる。

賞的な評価も高かったこともあって、期待して読み始めたのだけど、いやーこれが噂に違わずおもしろい! 揺らぎのある翻訳が魔法になるという独特な世界観。19世紀前半を舞台にし、翻訳=魔法を教えるオックスフォード大学に入学してくる多言語使いの若者たち──という冒頭の座組は完全に《ハリー・ポッター》なのだけど、多言語話者を集めたいという魔法の都合上、集められた若者たちは中国人や黒人といった(英国内では)マイノリティで──と、いってみれば「大英帝国に反感を持つハリー・ポッターがホグワーツに入学したらどうなるか?」みたいな感じで展開していく。

物語の冒頭は魔法学園ものとして高い水準を誇り、後半はサブタイトルに「革命秘史」とあるようにある種の革命の過程が描き出されていく。とにかく上巻のヒキが強く、ここまで読んで読むのを止めるのは難しいだろう。そのまま最後まで突っ走りたくなるはずで、それに応えるように後半の展開はスピード感を増している。SFまで含めて今年最大の話題作なので、ここまでで興味を持ったらぜひ読んでみてほしい。

冒頭のあらすじ・世界観など

物語の主な時代は19世紀前半。主人公である少年は当初中国の広東に暮らしているのだが、コレラがこの地で蔓延しており、母親を失ったばかりである。そのままであれば少年もコレラに感染し息絶えるだけだったが、その直前に現れたオックスフォード大学のラヴェル教授にその命を救われ、後見人として面倒をみてもらうことになる。

そもそもラヴェル教授と少年は英語を用いて会話を行っているのだが、広東で死にかけていた少年がなぜ英語を喋ることができるのか? といえば、少年は物心ついたときから母親だけでなくイギリス人女性に面倒をみてもらいながら暮らしており、彼女から英語を覚えたのだ。イギリス人女性はそこを離れることはなかったから明らかに何者かから給金、もしくは命令を受けてその家に滞在し、英語を教えていた。

その結果として、少年は中国語と英語のバイリンガルになっていたのだ。そしてそれはこの世界では大きな意味を持っている。魔法を行使できるのだ。たとえば最初、ラヴェル教授は死にかけていた少年に向かって銀の棒を渡し、最初にフランス語で「triacle(フランス語でシロップや糖蜜を意味し、ラテン語のtheriaca(解毒剤、薬)に由来を持つ)」と。次に英語で「treacle(解毒剤)」といって、病を解消した。

これは、誰もができることではない。両方の言語に習熟した人間──両方の言語で夢をみるほどに深く──にしか不可能で、その意味で少年は条件を満たした。結果としてラヴェル教授はのちにロビン・スウィフトを名乗るこの少年をロンドンに連れ後見人となることを提案し、ロビンの新しい人生がスタートすることになる。

バベルでの生活

ロビンはロンドンについた後、ラヴェル教授の下でギリシャ語やラテン語を学び、オックスフォードの翻訳研究所──通称バベル──に入学することになる。ここはその性質上、ロビンのように各地から人が集まっており、たとえばロビンが最初に出会うのはカルカッタ出身のラミーだ。他の同期には、ブライトン出身のレティ、黒人であるヴィクトワールらがいて、それぞれ出自も来歴も異なっている。

ほとんどはその出生地を離れてきており、孤独だったからだろう。四人の同期は一気に仲良くなり、それぞれ専門とする言語も異なることから互いをフォローしあいながら学園での生活を送っていく。フォローは学問のみならず、人種や差別も含めてだ。この時代の大英帝国では人種差別が激しく、当然のようにロビンやラミー、ヴィクトワールは差別を受ける。たとえばラミーが町中を歩いているだけで「ありゃなんだ?」と難癖をつけられ、ヒンドゥーがここで何をしている、お前はガウンを着てはならない、ガウンを脱げと暴力を振るわれそうになる。

自分は正当な権利としてここにいると闘うこともできるだろう。だが、そこをやりすごしてもこの場所は変わらず、同じことが起き続ける。彼らはバベルでの生活を通して、言語の魅力、ロンドンとオックスフォードの活気と文化に感嘆していくが、同時に自分たちが排除される側の人間であることも自覚せざるをえない。喜びと苦悩が同居した場所として、オックスフォードは描き出されているのだ。

翻訳研究所に所属しているにもかかわらず、ガウンや資格にもかかわらず、自分たちの体は街なかでは安全ではないのだ。ふたりはオックスフォードにいるが、オックスフォードの人間ではない。だが、この認識の深刻さは非常に衝撃的であり、ふたりが無邪気に楽しんだ黄金の三日間に対する悪質なアンチテーゼであったため、ふたりともそれを口に出しては言えなかった。

オックスフォードにいながら、オックスフォードの人間ではない

オックスフォードにいながら、オックスフォードの人間ではない。これは、その生涯を通して重要なテーマになっていく。彼らは大英帝国に従事し魔法を行使する優秀な人材として育てられ、オックスフォードから寵愛を受けながらも、同時に祖国が大英帝国に搾取される状況に向き合わなければならなくなっていくのだ。

たとえば、大英帝国とバベルには世界中から銀が集められ、同時にその力を行使するための言語も(ロビンたち含め)──各地から集められてきている。これはある意味では言語の強奪といえるのではないか? 大英帝国の中にいてその庇護下にある人々は、自分たちの行動や思想を正当化する言葉をためらいなく口にする。言語とは紅茶や絹のように代金を支払うことができる商品ではなく、無限の資源なのだと。中国人は働かない怠け者だが、お前(ロビン)は違う、お前はもう英国人なのだからと。

しかし、本質的に外部の人間であるロビンらは、それに対して疑問を覚える。そうした不快感、疑問を身中に抱きながらも、オックスフォードでの日々は輝いたものとして描き出されていく。この矛盾が、本作をひときわ美しいものにしている。著者自身がオックスフォード大学で学んでいたことの経験からもきているのだろう。

言語を知り、こねりくりまわすことへの喜び

本作の魅力のひとつは、こうしたバベルでの生活と共に「言語」を知り、これをこねくりまわすことの喜びが存分に描き出されていることだ。たとえば英語とフランス語で言語・単語が違っても、語源は同じラテン語だったりといったことが多くある。

時刻や名詞の語形変化や動詞の活用、無尽蔵なほどの語尾、言語ごとの違い──そうしたすべてが魔法の源泉たりうる。複数の言語を学ぶのは大変なことで、時にいらだたしく感じるほどだが(どうしてこんなに変化し、特例がある?)──しかし、そこには喜びがあるのだ、というのが、本作で一貫して描き出されていくポイントだ。

「だが、そこが新しい言語を学ぶよさなのだ。とんでもない大仕事のように感じるべきなのだ。おじけづかなくてはならない。そうすれば、すでに知っている言語の複雑さを正しく理解できるようになる。」
(……)
「言語はどれもそれなりに複雑なのだ。」ラテン語はたまたま単語の形に複雑さがあるだけだ。その形態構造の豊かさは、財産であり、障害物ではない。たとえば、He will learn(彼は学ぶだろう)、Ta hui xue(他会学)という文章があるとする。英語でも中国語でも単語三つが必要だ。ところが、ラテン語だと、一語で済む。Disce。はるかに優雅ではないか? p.44-45

バベルでの生活の中でロビンらはみな試験にパスするため、社会のために新しい魔法をなんとかして見つけ出そうとする。そのためには言語とがっつり組み合う試行錯誤が必要で、それは苦しい描写だが、何よりも楽しそうでもある。

魔法と翻訳

そもそも本作における魔法的事象はどのように機能するのか? について最後に触れておこう。本作では魔法は主に銀の棒を用いて行使される。ただ、銀の棒自体が魔法を生じさせるのではない。『そうではなく、棒の力は言葉に宿っているのだよ。もっとはっきり言うと、言葉では表現することができない言語のなにかに──われわれがひとつの言語から別の言語に移動するときに失われてしまうなにかに。銀は、失われてしまうものを捕まえ、それを存在するものに変えるのだ。』(p.124)

というのが本文中での簡潔な説明だ。要するに、同じ意味を持つ異なる二つの言語を使った時、銀の棒を介在し、その両者の翻訳過程で消えたものの効果が現実に起こり得るわけである。たとえば修理の修とheal(治す)を組み合わせたらどうなるだろう? 傷が機械のように直るかもしれないし、直らないかもしれない。こうした試行錯誤を積み重ねることで実用可能な魔法が見つかり、馬車の速度を安全に上げたり、声が外に漏れないようにしたり、爆発を起こしたりと様々なことが可能になる。

魔法はファイアと唱えたら火の球が出るみたいにあまりにロジカル&再現性のある形にしてしまうとほぼ科学的事象になってしまって魔法感が薄れることがある。一方本作の場合はそもそもが解釈がブレる翻訳を魔法の本質に据えていることもあって、揺らぎのある魔法というものを自然に表現できているのが設定的に美しいんだよね。

おわりに

翻訳についての作品だから当然その翻訳にも相当なプレッシャーがかかったと思うが(英語だけでなく様々な言語が出てくるし)、訳者の仕事は実に見事で、無数の言語が横断する世界を破綻なく表現している。僕は翻訳をやらないからわからないが、本作を翻訳するのはそれ自体がとても楽しい工程だったのではないだろうか。

R・F・クァンは間違いなく今後の世界文学を引っ張っていく作家の一人だと思うので、この機会にぜひ、手にとってもらいたい。




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