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クライ・マッチョ

かつては“暗いマッチョ”だったイーストウッドも、今や真逆の“明るいガリガリ”でした。


2021年。クリント・イーストウッド監督。クリント・イーストウッド、エドゥアルド・ミネット、ナタリア・トラヴェン。

元ロデオスターの大老人がメキシコでガキふん捕まえてテキサスに戻ってくるまでの中身。

 

オラ! ブエノスディアス~。
スペイン語って難しいな。
「ブエノスディアス」が「おはようございます」の意なんだと。なんて意だとスペイン語は俺に言うのか。でも覚えたぞ。
デアゴスティーニ~。
近ごろのオレーニョときたら、すっかり暑さにヤラレテーニョ。最近の主な出来事を綴っておく。

人に誘われ、イノダコーヒ本店でモーニングをしばいた。
7時開店というので7時に行ったら、すでに行列。そのさま、あたかも百鬼夜行。朝だが。
並んでいるのは主にジイさんとおばはんだったがヤングも散見され、嗚呼、さすがイノダコーヒ本店だな、京都の朝は此処から始まんだな、なんついつつカンカン照りの朝日に耐え耐え「照り焼きにされちゃうー」、「こっちがモーニングにされてまうど」などと気の利いた冗談で暑さをごまかすも、一向に行列は縮まらず「これ、並んでるあいだに昼なってまうんちゃうん?」、「モーニング食べにきたのにお昼ルンチになって」、「ぱっぱっぱっ!」ちゅて、笑ろて。
この本店は、かの文人、谷崎潤一郎や池波正太郎が足しげく通っていたことで有名だが、俺は谷崎潤一郎の耽美文学も、いわんや池波正太郎の時代小説も読まないので大して気分はあがらなかった。ただ、ある種異様なまでの店の格式高さと、真夜中の悪魔のように熱いコーヒーの美味さに精神回転。場違いだがチャールズ・ブコウスキーの『町でいちばんの美女』が読みたくなった。

生まれて初めてスニーカーを買った。
「そんなシューズな」といって人は驚くかもしれないが、身銭を切って買うのは初めてだ。履くのも20年ぶりぐらい。普段はわけのわからない草履とか、お洋服を着るときはブーツを履いたりする。
なんちゅーか、スニーカーは靴としてオールマイティすぎっていうか、TPO選ばなすぎっていうか、動く気満々、歩く気満々、生きる気満々の奴が履いてこその、癖のない靴、略してクツって感じがするから俺みたいな生命薄弱の腐れカルパッチョ一人前780円には分不相応なんだ、という引け目があったのだが、過日、夢の中でシューズの神様が現れて「履いたらええんちゃう?」と言ってくれたので、泣きながら目覚めた俺、プーマのロゴみたいに疾走してスニーカーを買い求めるに至った。
履きよくて、ええね。


ぜんぶ間違えた雨の休日。
つけ麺屋に入った。入るなり、割りスープが入ったポットを水と間違えてコップに注いで飲む。あまりの恥ずかしさに顔が赤くなり、菱形にプク~と膨らむ。大急ぎで食べ終え、逃げるようにして店を出る。顔の形は戻らなかった。くやしい。
その後、エスニック雑貨屋に赴き、いい気になってポンチョを試着する。ビニール傘を店員さんに預けて試着室に入ったが、なんだかアホのドラキュラ伯爵みたいになったのでポンチョを選び直す。選んでいると店内がアベック客で賑わい出し、なんとなく居心地が悪くなった俺、顔が赤くなり、よけい菱形にプク~と膨らんできたので逃げるようにして店を出る。顔の形は戻らなかった。くやしい。なんで戻らへんねん。
店を出たあと思い出す。傘を忘れたことに。
雨が降り出してきた。コンビニで傘を買う。俺は何をやっているのか。つけ麺屋で割りスープをコップに注いで飲み、エスニック雑貨屋に傘を置き忘れ、コンビニで傘を買う。どんな休日なのか。なにが休まるというのか。
なっさけない。
気を取り直し、ユニクロへ向かう。
ユニクロでジーパンを見て、試着する。もう傘は店員さんに預けない。傘を持って試着室に入る。
そして傘を置き忘れて試着室を出た。
俺って本当のアホなんだろうか。アホなんだろうな。当代きってのアホなんだわ。
なこって、店員さんに「もし。今しがた7番の試着室でジーパンを履いたモンやけど、ちょっと中に傘を置き忘れてしもてん。申し訳が立たない」と説明したら、かわいい顔した男の子の店員さん、「わっ、かりましたー。ほな、あっし、ちょっくら取りに行ってきますわー」と言ってくれたので嬉しい心持ちがしたのだが、すぐ戻ってきて店員さん、「ごめんなさい。いま7番の試着室、誰ぞ使こてます…」、言う。もちろん試着室が空くまで俺の傘を取りにいけない。間が悪いというのかなんというのか。
「マジけー」思た俺、7番の試着室の前に置かれた買い物カゴの中を覗いて、またぞろ「マジけ!」と小さく叫んだ。
ごっそ~、服入ったあったわ。
ファッションショーすんけ、ゆうぐらい服パンパンに入ったあるやないか!
おのれ7番野郎。これ、ぜんぶ試着する間、待っとかんならん、ゆう寸法け。
「あじゃぱー」
肩をすくめ、両手をひらげて、片足を上げ、首を傾け乍ら、そう感嘆したる俺。顔はジョナゴールドぐらい赤くなって、輪郭は三角ゼリーぐらい菱形になった。
20分後、無事に傘は返ってきたが、ユニクロを出たら綺麗さっぱり雨は上がっていて。
傘、振り回しながら走って家帰った。

そんなわけで本日は『クライ・マッチョ』です。



◆アキレスと亀とオレと鶏◆

 少年と老人のロードムービーという取り合わせが『センチメンタル・アドベンチャー』(82年)『パーフェクト・ワールド』(93年) を想起せしむるだけでなく、そこに車のモチーフまで加わっちゃあ弥が上にも『グラン・トリノ』(08年) を感じトリノせざるをえないが、そんなの知らんトリノという年輩諸氏にとっても主人公の境遇や本作に通底する牧歌的な風合いをして『ブロンコ・ビリー』(80年)! と指さすだろうし、それでなくともアメリカとメキシコの国境地帯でのろのろと車を走らせるさまが『運び屋』(18年) の延長たらしむる精神的連作であることをクリント・イーストウッドは隠さない。


さて。御年94歳のイーストウッドが筆者、すなわちおれよりも圧倒的に若い理由は、日本公開から3年も経つ『クライ・マッチョ』を「いっや~。最近ねえ、シネマを観るコンディション、略称シネディションが悪いからあえて見送ってたっちゅうか、万全を期して鑑賞に臨みたいから、その日が来るのを待っとったんや。その日っちゅうのは、観る日? おれは自分の意思で、自分のタイミングで、『観たい』と思ったときに観たい映画を観るんやなしに、観るべきタイミングっちゅんかな? 縁、ちゅんかな? 映画の方から『今こそ、ふかづめさんに観てほしい』ちゅうタイミングでおれの前に現れる。おれはそれを待ってるだけ。『呼ばれた!』というタイミングで観る。魚釣りと同じ。掛かった!というタイミングで糸を巻く。こちらから、映画は、探さへん。『ふかづめさん、僕を観てー!』ってやつだけ観る。いかにも観てほしそうな顔をしてモジモジしながら上目遣いにアピールしてくるやつも、仕方ないから観る。それでいうたら『クライ・マッチョ』は、なっかなかアピールしてこおへんねん。痺れを切らして、こちらから『観たろか』とも思ったけど、そないして変なタイミングでムリして観た場合って大体失敗するんよな。シネディションが万全やないから。慌てず、逸らず、じっくり待つ。ほんで3年かかりました。おまっとうさんでした」なんつってようやく観たころには既に最新作の『陪審員2番』(24年) が公開されていた。
つまり、おれがイーストウッドを観るペースよりも速くにイーストウッドは矢継ぎ早に映画を撮りまくっている、ということだ。
ゼノンのパラドックスにおける「アキレスと亀」みたいでしょ。
追いつかれへんやん。



 テキサスで老いさらばえている元ロデオスターの大老人が、知己の牧場主からメキシコで暮らしている13才の息子を連れてきてほしいと頼まれ、国境を越えメキシコシティに向かうことに。
牧場主の元妻が住む豪邸を訪ねた大老人だったが、そこに13才はおらず「ほな、どこに13才おるん」と訊いたら、元妻、ムダに乳をはだけさせて腰をくねくねさせながら「あの子ならチョカ通りにいるだろうけど、行っても無駄だわよ。なぜって、サバイバーなのさ。あの子は路地裏に生きるシャドー。盗みや賭け事だってやる。始末に負えない。そんなことより、あんた、爺さんだけどハンサムね。ワインでも飲んで私とスケベしない?」と、色々ヒントが隠されてるんだろうけど総合的には何をいってるかよくわからない、みたいなことを言った。
まあ、要するに「チョカ通りにいる」ってことだな、と理解した大老人がさっそくチョカ通りにちょかちょか向かうと、果たして13才が闘鶏場で熱きバトルを繰り広げていた!

闘鶏のルールは簡単。
ポケモンと同じである。
2人の鳥使いが1体ずつポケモンを場に繰り出し「つつく」、「にどげり」、「よけろ」などと指示。その指示を受けた2体のポケモン…、ポケモンっていうか鶏はどちらかが戦闘不能になるまで戦い続け、勝った鳥使いは負けた鳥使いから金をふんだくる、という賭博競技である。
ポケモンマスターをめざす13才は「マッチョ」と名づけた鶏を使役する鳥使いだったが、その若さにつけ込んだ熟練の鳥使いたちはことごとく返り討ちにあい「僕より大人なのに情けない。ヒヨッコだね。ヒヨコだけにね。おすぎとヒヨコだね。ひよこクラブだね」と屈辱的なことを言われた。
マッチョがマッチョすぎたのだ。
圧倒的な強さでチョカ界隈をざわつかせ、連戦連勝のマッチョに、闘鶏フアンおよび近隣住民は「伝説の鶏じゃないか」「金の卵でも産むんじゃないか。まあオスだから産まないだろうけど」「鶏って普通飛べないけど、飛べるんじゃないか?」などと好き勝手言った。
そんな13才に接近を試みた大老人。

「おまえの父親さんがテキサスで待ってる。俺と一緒に来るんだ」
「なんで。嫌だね。今さら父親がなんだ。あいつは家族を捨てたんだ。頼みの母親はスケベ三昧。虐待もする。僕はもう誰も信じない。マッチョだけが友達です。独りで生きていくんだ!」
「本当にそれでいいのか? おまえの父親は広大な牧場を持ってるぞ。ウマ娘の100連ガチャも引かせてくれる」 
「マジですか」
「マジです」
「じゃあテキサスに行きます」
「ちょろ」

大老人の老獪な誘導話術にコロッといかれた13才。果たしてヒヨコはどっちだったのか。
ひよこのヒヨコッコはひよこの子?
皆、おかあさんから産まれてきたの
「あした、笑顔になーあれ」
布亀の救急箱ぉ


布亀の救急箱のCM(YouTube)

◆すぐ寝るな◆

 クリント・イーストウッド演じる大老人が本当に大老人すぎた。
なんせ撮影当時91歳
立ってるだけでもやっとなのに、杖も使わず二足歩行をして!
右足を前に出し、左足を前に出して、ありく。腰は曲がっておらず背筋はピンとしているのに膝と肘だけ曲がっているせいで歩く姿がどことなくASIMOを思わせ、イーストウッドが歩くたびに「シャララーラ、シャララララーラ」なんて当時CMで使われていた「日曜日よりの使者」を口ずさんでしまう私は何曜日よりの使者なんだろうな。
なんにせよ『グラン・トリノ』のようにチンピラを追い払うことも、『運び屋』のように若者に凄むこともできなくなってしまった御年91歳、ぽきぽきのイーストウッドにできることはたったの3つ。この映画の中でイーストウッドがやった3つのことは、(1)何かに凭れる、(2)座って喋る、(3)横になって寝る
これだけである。
一応、乗馬のシーンもあるが、実際にイーストウッドが馬に乗ってだいぶゆっくりめにカポカポ歩いてるショットとスタントダブルが激しいロデオを演じたショットをモンタージュしているので、これは映像の魔術、ありていに言えばズル、ウソ、ダマシとみなしカウントしません。



それにしても、この、たった3つの、凭れる、座る、寝るという“人間にとって最も楽な姿勢TOP3”だけでネオ・ウェスタンの主演を飾ったという端倪すべからざる事実をわれわれはどのように受け止めればよいのか。
91歳のあまりに緩慢で危なっかしい身体性に104分も瞳を向け続ける行為の、映画鑑賞というより介護福祉と呼ぶほかないデイサービス型映像体験。実際、イーストウッドが椅子から立ち上がろうとするたびに肝を冷やして「倒れて頭打ったら終わってまうど」と思うし、頭にテンガロンハットを被せようとする手がぷるぷる震えていることに気づいたときも「大丈夫なんか」と人は思う。
そう、『クライ・マッチョ』は逆にハードアクション映画でした。
逆にね。
よろよろ又はよぼよぼ、ぽきぽき且つぷるぷる。この「老」だけで構成されたカルテットによるオーケストラ、もとい老ケストラは確かに超スローだ。すべてが遅い。音もモッタリしているし、テンポもタイミングもずれ倒している。よう見たら奏者のうち一人は演奏中にも関わらずフツーに寝てもうてるし。指揮者に至ってはタクトを振ることもままならず指揮台のうえで悲しげに失禁している。
でも、ですよ?
いや、「だからこそ」か。
その一挙手一投足から目が離すことが出来ずにいるわれわれがスクリーンの前にはいるわけです。
91歳の身体性は、もう椅子から立つだけでサスペンス、歩くだけでハードアクション、テンガロンハットを被るだけでもはや意味深。
この映画をレビューサイトで「遅い。眠い。かったるくて退屈」と評したレビュアーに対しておれが思惟したことを素直に言わせていただくと「イーストウッドの映画にまったく付いて来れてない、という意味では、実は遅いのはおまえの方だよ! でもわかるよ。物の動きが速すぎて逆に遅く見えることってあるよね。飛行機から見える景色とか。そりゃお前さんにはかったるく見えるだろうよ。飛行機に乗ってるお前さんにはね。わからないか? 理解しなくていい」ということになってくるわけですそれはどうしても。
我が国のイーストウッド・リテラシーは、かくも惨憺たる有り様である。
「かったるくて退屈」とか、もうそんな次元の話じゃないのに、いつまでも同じ次元に留まってばかりで。老いてイカれるイーストウッドにますます置いて行かれる。「アキレスと亀」の距離は開く一方だ。


この章の終わりにつけ加えるべきことはただひとつ。
眠る、寝そべる、横たわる、といった“横臥のイメージ”に絶えず死のメタファーを添えてきたことはイーストウッド監督/出演作の60年のキャリアを振り返るべくもないだろうが、ここへきてそのイメージが一層強調されているのは老化による身体的制約からだろうか。
今度のイーストウッドはとにかくよく寝る。
こと西部劇においては焚き火の傍で眠ることがトランジション(場面転換)の役割を持つが、本作ではトランジションもへったくれもなく、いわば意味なく昼寝とかもする。年老いて体も言うことを聞かなくなった俺にできることはスクリーンの内外に“死の匂い”を振り撒くことだけだ、とでも言わんばかりに、昼寝とかもする。
なに寝とんねん。



◆奴らの目にはイーストウッドのクリントが見えてない◆

 1951マイルものアメリカ=メキシコ国境を激烈に遅い車、通称スットロカーで超えようとする冒頭のモンタージュ。カメラは画面左側から右側へ向かってぷりぷり走るスットロカーを捉えたあと、まるで左右反転するかのように、こんだ右側から左側へと向かうスットロカーを捉える。
これが3度ほど続く。
メキシコ国境は越えてもいいがイマジナリーラインは越えないよ?
言うまでもなくこれはシネマのタブーというか、映像技法の禁じ手というか、まあ必ずしもダメというわけではないが“越えるとショットが繋がらなくなる(観客が理解しづらいモンタージュになるし見栄えも悪い)から基本的には越えずにおこうね”とされる映画理論における疑問手であるが、と同時にイーストウッド作品の唯一性こそが、この疑問手の乱れ打ち。
左から右へ、右から左へ…を何度も繰り返す、このスットロカーぷりぷりイマジナリーライン馬鹿越えシーンは、映像の触覚として「まあ、なんせ野を越え山越え、昼夜問わず車を走らせ続けたんだな。ご苦労なことだな」とわれわれは頭で理解する。
意味論として理解できる。

だが生理としては「同じ道を行ったり来たりしてるだけやん」にるんである。

だって左から右へ進んだあと、こんだ右から左に行ってる(戻ってる)んだもの。文字通りの右往左往。
これが世間で巨匠だ名監督だと持て囃されているクリント・イーストウッドの映画なんだから世も末涼子ですよ。
つまり意味論で理解できても生理的には気持ち悪い。
美しいようでいて醜く、すべてが正しいようでぜんぶが間違っている気もする。これがイーストウッドだ。まるで美味しいけどなにか喉に残るような違和感をおぼえるカルピスみたいな。
なにが「カラダにピース」なんだと。
いずれにせよ、このスットロカーぷりぷりイマジナリーライン馬鹿越えシーンは、これまでの過去作よりも露骨に「私は変態です」と思いっきり自白した身振りだが、多分ここまでやっても、なお世界中の多くの人は気付かないだろうな、とは思う。巨匠バイアスって怖いな。イーストウッドが目の前で「俺のクリント!」とか言いながらコートをひらげて陰部を露出してるというのに、多くの人は未だイーストウッドを巨匠、聖人、大スターだと錯覚してやまない。目の前でクリントを露出してるのに。
奴らの目にはイーストウッドのクリトが見えてないっていうんだ!!!

わけのわからん話をしてごめんなさいね。
でも限りなくわけのわからん話のようでいて伝わる人には伝わるラインの絶妙な書き方してるから許して丁髷ね。
物語に言及しよっかな♪
物語はつまんねっす。
大老人がメキシコで13才を拾ってテキサスに戻るだけの話。ただそれだけの話なのに、メキシコ国境付近の寒村の食堂で知り合った50代ぐらいの未亡人によくしてもらって「好きかも」とイーストウッド、13才の方も同い年ぐらいの女の子と出会って「好きかも」となり、頭ではテキサスに戻らねばならないと思いつつも体がこの村から出ていくことを許しちゃくれねぇ~って、やってること完全に『マディソン郡の橋』(92年) の下位互換なんだけど、まあ映画は90歳の大老人と50歳の未亡人のプラトニック・ラブを見つめ続けます。
まあ、イーストウッドは絡繰り人形みたいにぽきぽきしてるだけなのだが。たまに言葉も話すけど。
そこに13才を取り返そうと追ってきたチンピラ1人が現れるんだけど、イーストウッドは論外級に戦力外だし、13才も頼りにならない。
じゃあ逃げればいいじゃないかって?
イーストウッドはASIMOより遅いのよ。
下手したらルンバより遅い。
この世のすべての全自動ロボットより遅い有機生命体それがイーストウッド。ウソだと思うならASIMO、ルンバ、イーストウッドで駆けっこさせてごらんよ。ドカ遅れスタートしてすぐコースアウトして変なとこ行くから。「人生の特等席~」とか珍しいこと言いながら。
では迫り来るチンピラをどうするか!?
鶏がやっつけます。
13才が使役する鶏のマッチョが「コケコッコー」ないしはアメリカ風に言うなら「クックドゥードゥルドゥー」いいながらチンピラに襲い掛かるもんだから、目の前で翼をばたばたされて「ちょ痛い痛いやめやめ」なんついつつ、しまいにすごく嫌な気持ちがしたチンピラ、「覚えてやがれー」ちゅうて、なぜか退散します。
『コロコロコミック』なん?
小学館レベルの小悪党やんけ。しかも1人。
鶏のばたばたに負ける小悪党がたった1人で追いかけてくる、手の汗も渇く乾燥肌サスペンス。
これが2回あるからね。
チンピラが「往生しなっせー!」からの、ガキとジジイが「わあ、絶体絶命やんかいさ~」からの、鶏がばたばたして「やめやめやめ」が2回もある。
最高やん。
ぜんぶ鶏がどうにかする話。
鶏がばたばたしたら全部解決する話。


マッチョと名づけられた鶏=チキン(臆病者)が誰よりも強く、雄々しく、勇ましく、そしてイーストウッドは13才に向かって「俺も昔は大した男だったが、今はルンバ以下の爺さんだ。サンバも踊れない。思うに“マッチョ”は過大評価されている。人は自分をマッチョに見せたがる。力を誇示するために。その成れの果てが俺、クリント・イーストウッドです」みたいなことを言ってマチズモに憧れる13才を諭す。
ここもまた多くの人が気付かずに聞き流してしまうのだろうが、よく考えたらどえらいこと言ってるシーンで、自らの映画人生60年の根幹をなす主題をまるで残飯のように、マチズモなど鶏にでも食わせておけとばかりにその役割/責任を負うことをはっきりと言葉で放棄して鶏に押し付けた、非常に“雑”な一幕なのですね。
おそらくクリントガチント勢は、ああ、万感の思いで“雑”をやってるな、ということがよくわかるだろうけど、本作を見たそうじゃない観客は「鶏によるご都合主義映画じゃん」とか「ぜんぜん結構じゃないコケコッコじゃん」などと思うと思う。でもそれって仕方のないことですョ。
だって本当に雑だもんな。
13才の恋の行方も「え、終わり? この娘、もう出てこおへんの?」ってところでぶった切られるし、13才に追っ手を差し向けた毒親ママンとの親子関係も決着しないまま「で、この後どうなったかを言えよ!」とブー垂れるわれわれを暗闇に取り残したまま映画は勝手にエンドロールを迎え、味わい深いカントリーソングが流れてしまう。
味わい深いカントリーソングで全部うやむやにした!!!
味わい深いなぁ~。

そんなこって『クライ・マッチョ』。
尖りまくったハードアクション映画だと俺は、おまえは思わないだろうけど俺は思うよ。
イーストウッドに無関心のグリンゴ(よそ者)にとっては本当にただただ能天気でかったるいだけの作品だろうし、まあ実際その通りっちゃあその通りだ。
なんたってイーストウッド自身が撮影中に居眠りながら本作を作りあげた可能性だってあるんだよ!?
だが、あくまでフィルムはゴキゲンだ。大家ならではの見栄も傲りもここにはないし、差し迫る寿命の陰に芽ぐむ野心や焦りといった感情さえ乏しく、この91歳の大老人はもっぱら朗らかな笑みを口元に湛え、やたら晴れがましく自らのクリントを露出するのみだ。
この朗らかリラックス変態野郎がっ。
たしかに『荒野の用心棒』(64年)『ダーティハリー』(71年) の頃のクリント・イーストウッドは文字通りの“暗いマッチョ”だったが、本作『クライ・マッチョ』ではいみじくも真逆。

“明るいガリガリ”でした。


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