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バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ

シェバないでよベイベ~♪


2021年。ヨハネス・ロバーツ監督。カヤ・スコデラリオ、ロビー・アメル、ハナ・ジョン=カーメン、アヴァン・ジョーギア、トム・ホッパー。

映画『バイオハザード』シリーズを性懲りもなくリブートした中身。


やろぉおおおおよおおおおおお。
でも、そうか。やる前に随筆、一発いくか。

「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「1人です」
サイゼリヤの店員さんに案内されて席に着いたおれ、注文用紙とペンが見当たらず「あっ」と声を出した。
猪口才な。ついにサイゼリヤまでもがQRコードで注文をしろという。なんだっていうんだ。どこもかしこもQRQRと言って。無粋な真似を。義理も人情もねえのか!
世知辛いことだ。慚無いことだ。斯くもつまらなき現し世にうんざりしながらQRコードを読み込ますと「何名様ですか?」という質問とともにキーパッドが表示された。
さっき言うたやん。
入店したとき「いらっしゃいませ。何名様ですか?」と言った店員さんに「1人です」と答えたのに、同じやり取りを、こんだ機械に対してやらねばならんらしい。機械風情に。
仕方なく「1」を押して「決定」を押すと、驚くべきステップがおれを待ち構えていた。なんと「1名様でよろしいですね!?」との質問に対して「はい」と「いいえ」のボタンが出てきたのだ。
これ、いるけ?
むちゃくちゃ1人かどうか確認してくるやん。
1人やぁ言うてんねん。
1人だから「1」を押して決定したのに、それに対して「1名様でよろしいですね!?」は、実質、最初の「何名様ですか?」を繰り返す身振りやん。
まあ、アホな客が数字を押し間違えるかもしらんので、それを防止するために再度確認してるだけなのだろうが、あまりにも悠長かつ不毛なやり取りにすっかり食欲がなくなったし、なんというか、「本当に1名様ですか? ほんまに? 本当に1名様と言い切れる?」なんて改めて訊かれると1人じゃない気もしてくるっていうか、もし居た場合は背後霊とか、心の内奥に潜むペルソナとかもカウントした方がよいのだろうか、もっと突き詰めるなら果たしておれは存在しているのだろうか、おれという命、おれという個、おれという自我が拠って立つのは実存か本質か、そも1とは何か、0と1のあいだには今日も冷たい雨とか降るんかな、なんて哲学しちゃう。

 おれは再確認されることを蛇蝎の如く嫌う。
ビデオゲームのUIにしてもそうだ。
武器屋の商品リストを見て「青銅の剣 2000円」とあったので「買う」を押したら「青銅の剣を買いますか?」はい/いいえ、の選択肢が出てきたりすると「気ィ狂うとんのか。買う意思があるから『買う』を押したのに、なんでそのあと『本当に買いますか?』つって買う意思を確認してくんねん。その意思があるから『買う』を押したのに。売りたくないのか? ほな、最初の“買う意思”返せよ。『買う』を押したときの最初のきもち、返してよおおおおおおおおおおおお。だってそうでしょう。たとえ買う意思がなくて、冗談や冷やかしで『買う』を押したとしても、そのあと『本当に買いますか?』って再確認されたときに『いいえ』を押したら買わずに済むんでしょ。つまり最初の『買う』という選択よりも、その次の選択すなわち『いいえ』が優先されるわけでしょ。だったら最初のきもち、無駄じゃん。ピュアでフレッシュな俺のもぎたてハートを、なんで踏みにじるの。青銅の剣へのトキメキと憧れと恋心、と同時に『うわあ、2000円か。高っかいなー』と二律背反するきもちを奮い立たせてゴー、『ええい、ままよっ。2000円出す。持ってけドロボー! そして、貰うぜ町奉行。ほっほーん。これが青銅の剣か。ええやん。どら、この商人で試し斬りでもしてみよかな。HAHAHA。冗談やん。ヒューモアじゃん。軽度の嘘やん。愛嬌じゃん』というちゃめっ気ソウルとブレイブハートのスムージーを、なんでシンクに流すの」と、文字にすると長ったらしいが脳内では0.3秒ぐらいで済むことを思惟してしまう。

 あとQRオーダーの不完全なところは注文体系がスマホ一台で完結しておらず、結局手元にメニゥ表がないと手も足も出せず二進も三進もいかない、という点である。
たとえばサイゼリヤだと各料理ごとに、小エビのサラダであれば「1202」、モッツァレラトマトであれば「1414」てな感じで整理番号が振られており、客はバカ丸出しの顔してメニゥ表を閲しながらスマホに番号を入力せねばならず、その様はあたかも黒板に書かれたことをノートに書き写す学童の如きで、実に滑稽だ。学童が滑稽と言っているのではない。メニゥ表とスマホを見比べながら自分の食いたい料理の番号を一心不乱に入力する姿がなんとも悲しく、浅ましくて、痛ましいのである。アホの様なのである。
これが居酒屋であれば整理番号を入力する必要はなく、スマホのメニゥ一覧の「本マグロ山かけ 550円」などと書いてある料理名を直接押せばよいが、多くの場合、紙のメニゥ表には料理のイメージ写真が添付されているのに比して、スマホのメニゥ一覧にはこれがなく、結局スマホ一台で注文しようとしても「お魚と湯葉の重ね蒸し、って言われてもイメージ湧かんな。どんな感じやろ」とついついメニゥ表の写真を見てしまうわけで、そうなってくると、どうなってくるんだ? もうスマホでQRオーダーなんかするよりメニゥ表を見ながら有人で直接注文した方が圧倒的かつ決定的に注文しよい、ということになってくるんだ!

大体なあ~。なんでもかんでも無人無人、なんでもかんでもセルフセルフというが、そんなこと言い出したらオメェ、究極の無人化は地球上から人類が絶滅することになるし、究極のセルフ化とは人類が滅びて地球がひとりで勝手に頑張っていくこと、ということになるわけで、それって人間存在の原罪(宇宙規模で考えると人類とは本来存続すべきではない)に自ら抵触する行為に等しいと思うんだよねえ!
だからサイゼリヤの皆さん。どうか注文用紙とペンを、おれに寄越して。
おねがい。
チューするから。
お・ね・が・い。

そんなわけで本日は『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』です。
シャナナナナナナナ! ニーソ、ニーソ!
と、今歌ったのはガンズ・アンド・ローゼズの「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」というお歌ですョ。りょぼぼぼ。

 

◆シェバとバイオと、それから私◆

 ぃぃいいいやっほおおおおおおおう!
最近『バイオハザード』シリーズを初めて遊んだわけ。
小学生のころ、同じクラスだった里見くんの家にお呼ばれしたとき、里見くんは曲がりなりにも客人であるおれを差し置いて『バイオハザード』(96年) を一人でプレイしていました。
子供ながらに、おれは思った。
「友達が遊びにきたのに1人用のゲームすなよ」
なんなんだ、このちっぽけな生命体は。
きっと里見くんは、当時、一大旋風を巻き起こしていた当サバイバルホラー・ゲームを易々とこなす姿をおれに見せつけることで、おれから「里見くん、かっけー」というリスペクトポインツを拾得しようとしていたのだろう。子供ながらにそんな里見くんの承認欲求を看破したおれは、里見くんが謎解きに必要な鍵だか何だかを見つけるたびに「ヨッ、里見発見伝!」と囃し立てた。
ところが里見くん。どうやら実は兄の所有物らしい『バイオハザード』を普段あまり遊んでなかったのか、動かすのムズいでお馴染みのラジコン操作にまったく慣れておらず、彼が操作する主人公クリスが洋館の通路でもちゃもちゃしてる間にゾンビ犬に襲われあえなく死亡。
「あ~、くっそ~! くるくるする~!」
なんやこの子。
同級生のおれの前でええ格好するために、わざわざお兄ちゃんの『バイオハザード』を、さも「僕のです。やり込んでます」みたいな顔してプレイして。洋館の通路でパニック起こして、すぐ犬に噛まれて。「くるくるする~」ゆうて…。
「くるくるする~」やあれへんがな。
これがおれのファーストバイオ。

1作目をリメイクした『バイオハザード HDリマスター』(19年)。

時は流れ、中学時分。
当ブログのフィクサーとして知られるサクなる男。小学校からの付き合いだ。サクは、我が母校が誇る京都市伏見区随一のゲーマーであった。そんなサクの家にお呼ばれしたとき、サクは曲がりなりにも客人であるおれを差し置いて『バイオハザード4』(05年) を一人でプレイしていました。
子供ながらに、おれは思った。
「だから友達が遊びにきたのに1人用のゲームすなて。頭おかしいんか、どいつもこいつも」
ほんでこの後の展開は里見Verと同じですよ。サクが操作する主人公レオンが最初の村でもちゃもちゃしてる間におっさんやオバハンに襲われ、ドデカフォークで突かれて乙。
「くるくるする~!」
誰も彼もがくるくるして!!!
9年前にまったく同じ光景目にしとんねん。里見邸でよ。どいつもこいつもくるくるしやがって。

リメイク版『バイオハザード RE:4』(23年)が発売中。

さらに時はビュンビュンに流れ、19年後。
2024年。ニンテンドゥーswitchのダウンロードゥソフトゥ『バイオハザードゥ5』(09年) を990円というセール価格でゲットゥしたおれは「自身でプレイする初バイオー!」とか何とか言いながらプレイしたところ…
くるくるした。
やって分かった、くるくる。
やらねば分からぬ、くるくる。
ああそう? バイオハザードってくるくるするのね~?
なんせ初心者はゾンビに囲まれる。背後の安全を確保したつもりでも背後から襲われる。「のああああ、すぐ後ろ向かな!」。背後の敵に狙いをつけて撃つ。バキュンバキュン。だが、そんなことをしてる間に背後(当初でいうところの正面)からもゾンビが迫る。「なああああ、すぐクルッとせな!」。
結果くるくるする。
まあ、おれがプレイした『バイオ5』にはシェバという女性パートナーが付いてるから、独りで恐怖に立ち向かう初期作に比べればずいぶん心強かったけどね。
シェバはAIで動くため、上級者からすれば「無駄弾を撃つ」、「アイテムを勝手に取る」、「隠密したいときに発砲して敵に気づかれる」などの理由からお荷物として扱われているが、おれはシェバが大好きですよ。完全に対等なパートナーとして見ていたし、なんならAIではなく“ひとりの人間”として見すぎていたあまり、ステージ開始時には必ず「シェバっていこー!」と叫んで士気を高め、おれが大量の敵にあたふたしてる間にシェバが冷静なエイムで敵を駆逐すれば「すごいな! シェバき倒しとるやんけ!」と敬意を示し、シェバが死ぬたびにB.B.クィーンズの「しょげないでよ Baby」と「シェバ、死なないでよ」を掛けて「シェバないでよベイベ~♪」と歌い上げたものだよなー。

『バイオハザード5』(09年)。右がシェバ。

そして現在。いくつかの作品をプレイ。
そんな折、『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』を見つけたので暇潰しに見ちゃいました。

「かゆ…うま…」

◆ラーメン、つけ麺、カーペンター◆

 『バイオハザード』の映画といえばポール・W・S・アンダーソンが手掛けたシリーズ(全6作)が有名だろう。妻のミラ・ジョヴォヴィッチを主演に据えたスローモーション濫用型身内びいき映画…、否! もはや映画ではなく、それこそゲームのムービーシーンのダイジェスト、という名の「うちの妻カッコイイから見て~」型のノロケ映像。
もとい産業廃棄物。

え、1作目ってもう22年前なの?

それに比べれば遥かに“映画”していた本作の生真面目さって、悲しい哉、バイオファンにほど届かないんだろうな。
バイオファンとは即ちゲームファンのこと。彼らはバイオハザードというゲームには明るいが映画には暗いので、“バイオハザードの映画”を映画としてではなくバイオハザードとして見てしまう(とかくマンガの実写化映画が叩かれがちなのと同じ理屈。ファンは“マンガの目”で映画を見てしまっているので、自ずからそこに差異を見出し、その差異を“落差”として減点材料にする。要するに「原作マンガと違うとこはどこだ!?」の間違い探し)。
たとえば、すでにラーメンの口になってる奴に絶品のつけ麺を食べさせても「こんなのラーメンじゃない!」と言いがかりをつけてくるのが現代日本の映画リテラシー。

でも、その客はテメェの意思でつけ麺屋に入ってるんだよなぁ。


まあいいや。
決して手放しに絶賛するわけではないが、『バイオハザード:ウェルカム・トゥ・ラクーンシティ』は「久しぶりにまともなゾンビ映画を観た」と人に言えるほどには、実直で勇敢な、そして懐かしささえ覚える、温かい映画だったな。
監督ヨハネス・ロバーツの代表作『海底47m』(17年) は未見だが、フィルモグラフィを一瞥するに、おそらく古典ホラーへの愛と造詣が深そうだ。少なくとも、ミラ・ジョヴォヴィッチ扮するオリジナルキャラクターの主人公に原作シリーズをほぼ無視した「おれのバイオハザード」を演じさせたうえ、最低限の映画文法や映像理論さえ見当たらない“無学の極み”ともいえる手前勝手なフィルムの屠殺行為に歓喜していたポール・W・S・アンダーソンが残した一連のシリーズ…という名の放射性廃棄物を軽蔑しているであろうことは想像に難くない。


物語は、ゲーム版『バイオハザード』の1作目と2作目をカットバックで並走させる構成となっている。特殊部隊のクリスとジルがラクーンシティ郊外の洋館を探索するパート(1作目)、新米警官レオンとクリスの妹クレアがラクーンシティの警察署から脱出するパート(2作目)。
映画はこの4人のキャラクターではなく、彼らが囚われたラクーンシティという都市そのものに焦点を当てた。なんだかジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』(78年) を思い出しちゃう(68年の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』ではなく『ゾンビ』ね)
海洋、動物、旅客機、地震…。サブジャンルは何でもいいが、パニック映画とは初期ルネサンス美術でなければなりません。つまり第一義に置かれるべきは人間でなく環境。より小さくアホみたいな語彙を選べば「ロケーション」、より大きくアホみたいな語彙を選べば「世界観」ってやつだ。
その点、本作バッチグ~。雨にけぶるラクーンシティを彩る下品なネオンはあたかも死体に電飾を施したようなネクロマンシズムの趣き溢れ、ゴシックな洋館は適度に禍々しく適度に厳めしい構え。
ちょうどいいバイオ感。
まあ、原作ファンに言わせれば「ぜんぜんバイオ感が足りない!」てなもんだろうが、何度も言わせるな。
“満たす”必要ないのよ。
そもそも。
足りない? むしろバイオ感を満たしてしまったら、そりゃもう原作版『バイオハザード』なのよ。映画化する意味ねえのよ。ピコピコピコピコゲームやってろよって話。

あるいはショットとカット。
このへんはモロに80'sライクであり、当時のフィルム的感覚を覚えているおっさん/おばはん世代にとっては懐かしい気分を味わえる一方、“あえてレトロな撮り方してるっていう遊び”を遊びと気づかず真に受けて「古臭ぇ~」とか「テンポ悪りぃ~」とか言っちゃう層は、原作厨同様、バッサリ切り捨てているね、この映画。痛快。
それでいえば、ジョン・カーペンターの養分を過剰摂取していることにも合点がいく。
レオン×クレア編における車のヘッドライトとか、T-ウィルスに感染したトラック運転手の犬のアップショットとか、あの辺の露骨すぎる『遊星からの物体X』(82年)オマージュは言わずもがな、警察署からの脱出劇からは『ジョン・カーペンターの要塞警察』(76年) を皮切りに『ザ・フォッグ』(80年) 『クリスティーン』(83年) など、ほぼカーペンターの一本槍に“80'sライク”を仮託している。
かと思えば、アイアンズ署長がゾンビ犬に襲われる駐車場のシーンでは、あえてカットを割らずにロングテイクで緊張感を持続。ホラー演出がホラーたりうる“カット”という名の万能調味料こと味の素をあえて使わずロングテイクで一撃必殺する脱古典のモンタージュが渋い。ロメロやカーペンターを敬愛しながらも、そこを超えんと意匠を凝らしているのだなああああ~?
このシーンを見て、おれの脳内映画データベースの中でヨハネス・ロバーツは“映画監督”から“映画作家”へと修正されました。どうもおめでとうございます。ありがとうございます。
映画監督とは既存の文法を駆使して映画を作る「職人」のこと。対して映画作家とは新たな文法を創出して映画を作る「表現者」のこと。 ※どちらが優位という話ではない。興行を支えるのは職人。文化に寄与するのが表現者。



◆ポリコレ、なにこれ◆

 とはいえ、キャスティングに関しては原作ファンと同じく違和感を覚えたな。まずレオン役がインド系の役者でおまけにヘタレという設定で、ジルがアフリカ系。

ポリポリし過ぎてコレじゃなーい。

たかが通俗映画に政治を持ち込むな、バカタレが。
あまつさえ警官のレオンが何もできない腰抜けで一般市民のクレアに「何とかしてくれあ」と縋る設定も、クレア(女性)の逞しさを際立たせるためのお膳立てに過ぎないわけだが、男性の情けなさを強調することでしか女性の強さが描けない時点で男女両差別っていうか、却ってことさら女性をナメてることになるんじゃねーの。
この点はミラ・ジョヴォヴィッチ版を見習え。映画としてはヤバイオハザードだが、ミラジョボを格好よく見せるために男性をマヌケに描くような性忖度はしなかったぞ。というより、そもそもミラジョボを女性としてさえ撮ってはいなかった。もはや。男とか女とか、そんなことはどっちだっていいし、どうでもいい。ただゾンビ相手に死の輪舞曲を誘う必殺仕事人として、もっぱらその身体性の美しさをフィルムにおさめていたぢゃあないか。
もううるどいよ、ポリコレ。
うるどい…うるさい+しんどい。

面倒臭いからそろそろ総評に入る。
けっこう楽しんだわ。
おおきに、おおきに。
デジタル銀残し、とでも言うべき明度の低い画面も雰囲気をよく作っていたし、超人的活躍をするキャラクターがいない点にも好感が持てる。懐中電灯の活用もベタでよし。
何よりすばらしいのはクレア役のカヤ・スコデラリオと、クリス役ロビー・アメルの顔。見やすさと記名性に秀でた、抜群の顔選び。まるでゲーム版『バイオハザード RE:3』(20年) のジル・バレンタインのように、とにかくレンブラント・ライトの陰影によく映える。


カヤ・スコデラリオ(右)とロビー・アメル(左)。

© 2021 Constantin Film International GmbH and Davis Raccoon Films Inc. All Rights Reserved.




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