前提
英語において、 tr-, dr-, str- の先頭の子音がそれぞれ ch-, j-, sh- のように発音されうるという現象が知られている。
さて、この破擦化した発音の tr- というのは、「標準中国語において、漢語拼音で ch- と書かれる音」と似通っており、一例を挙げるなら人名 Trump は台湾では「川普」(漢語拼音:Chuānpǔ)と表記されることが一般的となっている。
ところで、ベトナム語の北部方言では、表記上 tr- で始まる音節と表記上 ch- で始まる音節は、全く同一に発音され区別されず、日本語話者にとってチャ行として聞き取られる音で発音される。
しかしながら、日本語で行われる報道は一般的に Trần「陳」という姓を「トラン」と転写するし、
陳さん(5・終)ベトナムにも陳姓に縁深い姓があります。フィギュアスケートのマーヴィン・トラン選手などの「TRAN(トラン)姓」です。日本では見たままトランと読みますが、現地の発音は「チャン」に近いといわれています。このように華僑なども考えると陳姓は全世界で広がりを見せています。
— 日経 校閲 (@nikkei_kotoba) 2014年4月24日
Nha Trang(対応する漢字は「芽荘」、日本語話者には「ニャチャン」と聞こえるであろう音で読まれる)という都市名に由来する Nhatrangin A という名前の化合物が日本語では「ニハトランギン」と表記されることになっていたりする。
化学だとNha Trang[ɲaː˧ ʈʂaːŋ˧] が名前の由来である nhatrangin が「ニハトランギン」となっている話とかが面白いですね
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2018年6月14日
ニハトランギン、時代が時代なら「芽荘酸」って呼ばれてたんだろうなぁということを思ったりする https://t.co/EJnF0gXvcR
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2021年3月13日
本題
英語によって(そして、日本語圏において生の英語の音を潤沢に聞けるような環境が津々浦々に整備されたことによって)、「⟨tr-⟩ という綴りはチャ行に似た音を表す」という convention がどんどんと日本語圏に定着していると言えるだろう。
「スペイン語を教えるときに、その convention が定着しているせいで学習の妨げになる」という旨の発言を、以下に引用。
発音はほんとに「英語は! 忘れて! traはtʃɹæにならないの!」という感じですね…
— Mitchara (@Mitchara) 2021年5月15日
ところで、英語の ⟨tr-⟩ という綴りを日本語に転写するときには、「ト」の仮名の後にラ行の仮名を置くのが最も一般的である。最初期の借用では tree を「ツリー」と転写する例もあったが、今や新規の語の借用は「ト + ラ行仮名」でしか行われない。
ここにさらにベトナム語における「トラン」などの例が加わり、数世代が経つと、「ト + ラ行仮名」というのは、チャ行に似た ⟨tr-⟩ [t̠͡ɹ̝̠̊] という音を書き表すために用いられる表記だとして認識されるようになるのではないだろうか。
昭和・平成生まれの人々は、
- ⟨chance⟩ /t͡ʃæns/ に由来する ⟨チャンス⟩ を [t͡ɕãːs(ɨ)] と読む
- ⟨trance⟩, ⟨trans⟩ /tɹæns/ に由来する ⟨トランス⟩ を [toɾãːs(ɨ)] と読む
という convention を採用していたが、我々の数世代後の日本語話者は
- ⟨chance⟩ [t͡ʃæns] を表す仮名 ⟨チャンス⟩ は [t͡ɕãːs(ɨ)] と読む
- ⟨trance⟩, ⟨trans⟩ [t̠͡ɹ̝̠̊æns] を表す仮名 ⟨トランス⟩ は [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] と読む
という流儀を採用するのではないか。
要するに、文字の上での ⟨chance⟩ = ⟨チャンス⟩ および ⟨trance⟩, ⟨trans⟩ = ⟨トランス⟩ という対応関係を維持し続けつつ、英語の助力を以て、 漢語拼音でいう ⟨j-⟩, ⟨q-⟩, ⟨x-⟩ vs. ⟨zh-⟩, ⟨ch-⟩, ⟨sh-⟩ の区別をいずれ日本語も獲得するのではないか。
一般に、文字というのは極めて保守的である。日本語が仮名を捨てることはかなり考えにくい。発音が時間とともに移ろうにつれて、「文字がどのような発音を表すのか」という convention が変化していくことで、保守的な文字体系を保ちつつ、その時代にあった口語を書き表していくのである。
convention が変化して「⟨トランス⟩ とは [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] と読む」という対応関係が新たにしっかりと確立されてしまえば、それが当然となっている新世代においては、標準中国語の教材などを書く上で
- 掐(漢語拼音 qiā)は、⟨チャンス⟩ [t͡ɕãːs(ɨ)] の冒頭と似た音を持つのだから、当然「掐」には ⟨チャー⟩ とルビを振る
- 差(漢語拼音 chā)は、⟨トランス⟩ [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] の冒頭と似た音を持つのだから、当然「差」には ⟨トラー⟩ とルビを振る
という流儀が当たり前になるのではなかろうか。
昭和・平成生まれの人々にとっては、 ⟨トラー⟩ と書かれると [toɾaː] としか読めず、漢語拼音 chā を表す表記として甚だ不適であるように感じるだろうが、未来の日本語ではこれが当たり前になると私は信じる。
小書きラ行
⟨トランス⟩ の読みとして [toɾãːs(ɨ)] と [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] が併用され、
- [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] というのは単に「気取った」発音であって、日本語の仮名としては [toɾãːs(ɨ)] と読むのが正則だよね
と認識されているような期間においては、[toɾa] と [ʈ͡ʂa] がともに ⟨トラ⟩ と表記されていても支障はないであろうし、むしろその方が便利であろう。
しかし、[toɾa] と [ʈ͡ʂa] が完全に分離した後に、たとえば標準中国語「差不多」(漢語拼音 chàbuduō)がそのまま借用されて「大差ない」の意味の語として [ʈ͡ʂaːbɯdoː] が流行語として用いられるようになったりしてくると、話が変わってくる。これを仮名で綴るときに(未来の世代にとって)素直な表記として ⟨トラブドウ⟩ と書くと 🐯🍇みたいになってしまう、という問題が発生する。⟨トランス⟩ は十分英語っぽい見た目の語なので [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] としか読めないが、 ⟨トラブドウ⟩ はあんま見た目が英語っぽくないので [toɾabɯdoː] と読まれてしまうおそれがある。
逆に、⟨トリカブト⟩ という語を見て、「カタカナで ⟨トリ⟩ と書いてあるんだから、当然 retreat という英単語の真ん中みたいに『ʈ͡ʂiカブト』と読むはずだ」という方向の誤読も発生してしまう。
そうなると、2000 年に JIS X 0213 に収録され、2002 年に Unicode 3.2 に収録された、アイヌ語のための小書きラ行文字が転用されるのではないか。
- [t͡ɕãːs(ɨ)] は ⟨チャンス⟩、掐(漢語拼音 qiā)のルビは ⟨チャー⟩
- [ʈ͡ʂãːs(ɨ)] は ⟨トㇻンス⟩、差(漢語拼音 chā)のルビは ⟨トㇻー⟩
という表記が定着する時代が、いつか来るのではないか。
宣伝
以上の話は、前々から私の頭の中にぼんやりとあった話なのですが、
りちゃさん (はてなブログ id:Licjar_Xeymelloz)が 21 世紀後半を舞台として描いた小説の校閲を私が担当した際に、
こちらに巻頭言と小説『旅行者』を寄稿しています。
— りちゃ (@LicjarXeymelloz) 2025年11月17日
あらすじ
21世紀後半、気候危機と福祉崩壊が進行し、人口が三階級に分裂した世界の東京。主人公は表ではエリートだが裏では地下組織を指揮して革命を企てており、その夏、辰巳再開発を巡って一大決戦が迫っていた......。https://t.co/bZLNe59kon
retreat の音写を「リツリート」と書いていたことに対して、『retreat の音写であると私は解釈しているのですが、tr- を「ツr-」で取るのはかなり初期の借用に限られるように思われて、違和感がありました。』というレビューコメントをつけさせていただいたことをきっかけに、(そして、このことを考えつつ、私は私で寄稿する原稿が書き上がっていないなぁと少々焦りながら深夜に街を歩いていた際に)アイデアが固まったものです。
なお、私も私で同一の合同誌に英語での SF 小説「ŋ-」(4279 words) とそれの和訳「疑母」を寄稿しています。
こちら、英語小説ということで校閲を頼まれて読みましたが、本人がSF書けない書けないと言っていた割に相当SF的な読み応えになっており、出したモチーフをぴったり回収し切る数学的美しさも相まって大変素晴らしい小説です。 https://t.co/LFeAUrN6sK
— りちゃ (@LicjarXeymelloz) 2025年11月2日
英語・古典ナワトル語・中古漢語・ベトナム語・西ゲルマン祖語・日本語・標準中国語・印欧祖語に言及する4279 単語の短編英語 SF「ŋ-」を書きました! 和訳「疑母」も付随しており、対訳の形で読めます!
— hsjoihs (はすじょい; huss-JOY-huss) @ 言語が好き (@sosoBOTpi) 2025年11月7日
ご興味ある方は是非 COMITIA 154『い66a』へ! https://t.co/wxp7ZLZ8Xz
11 月 22 日と 11 月 24 日に販売し、2026 年 2 月 14 日現在は売り切れとなっていますが、
1 月 15 日に入居した私の新居にて、2 月 9 日に表紙へのアルミシート貼付(手動)が行われ、後日シルクスクリーン印刷(手動)も行われたと聞くので、ほどなく再販されることでしょう。
【告知】
— enden (@enden_nix) 2025年11月17日
11/24(月)のコミティア154 南3ホール い66aにて
合同誌『多島海 Vol.1 特集:都市SF』を頒布します
表紙はアルミシートにシルクスクリーン印刷を施しドイツ装としました
200mm×210mmの変形判、252p 頒布価格2500円です
よろしくお願いします #COMITIA154 pic.twitter.com/bn4Rco9jNE