※観劇はあまり僕の人生で馴染みがない。たぶんいままで10回くらいしか劇場で演劇を観たことがない。しかもどっちかというと演劇へのちょっとした苦手意識まである。そのくらいなので演劇というものへの解像度が低いということをおことわりする。
ていうか劇評とかでは全然なく、多分僕が言いたいことを言うだけだからずるいかも。
でも、観者としての応答責任的な面でもあるよねな感じで。
※ネタバレしてる(既に最終公演は終了しているが)
==作品情報==
公式サイト より
-どうしたら あんたと
ともだちのままでいられるかな。
今年8月に再演した、
『はやくぜんぶおわってしまえ』
から約10年後のお話。
わかりあえないまま、
それでも友達でいることの、
尊く辛い”終わらなさ”を描く。
野澤と園は幼馴染。
高校の同級生・由海の結婚式に出た後、
大学時代の友人・衛の実家であるカラオケ店で、
園の恋人と三人で飲み直すことに。
何か大切なことをごまかすように盛り上がる二次会。
しかしある”相談”をきっかけに、
彼らの関係が徐々に軋み始める。
作・演出:升味加耀
出演:升味加耀、川村瑞樹、横手慎太郎、松本モヘー
舞台監督|水澤桃花(箱馬研究所)
音響・照明|櫻内 憧海(お布団)
舞台美術|いとうすずらん
宣伝写真|nogi
宣伝衣装|カワグチコウ
制作|月館森(露と枕/盤外双六)
ユニット制作メンバー|宇田萌人、上沼悠史、石塚晴日
制作補佐|寺垣紗織
演出助手|中島梓織(いいへんじ)
撮影|まがたまCinema
主催|果てとチーク
助成|公益財団法人セゾン文化財団、
公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京【東京ライブ・ステージ応援助成】
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2025年1月6(土)
誰かがリツイートしていた舞台に関するツイートが観劇のきっかけだった。昨日観た『HAPPYEND』で身体が火照っていたから友情の物語を追いたかったのかもしれないし、演出助手の欄にいいへんじの文字があったからかもしれない(『われわれなりのロマンティック』をとても待ち遠しく思っている)。演劇への若干の抵抗感をおぼえながらもあの日の僕は予約をしていたらしい。
2025年1月18(土)
Google mapを開いて自宅から会場のアトリエ春風舎までを検索する。東中野から新江古田まで電車、そこからそこそこ頑張れば歩けるよとサジェストされる。想像以上に賑わう江古田駅周辺、高低差のある街に馴染みがなく空間にびっくりする、公園が好きなので寄り道がてらいくつかの公園を巡るとちびっこも大人もめいっぱいに遊んでいる、よく晴れた気持ちがいい日だった。
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■観劇後にメモした個人的キーワード(思い出せた分だけ)
友情、学生時代の仲良しと時間や距離、結婚/式、パートナーへの暴力、結婚と妊娠・出産を当たり前に地続きにする思考、無知という暴力、相対化・並列化の暴力、LGBTQフレンドリーでゲイが相対的に多く語られ不可視化されるその他の性的マイノリティたち、ノンバイナリー、トランスジェンダー、ミスジェンダリング、トランスヘイト、パレスチナでの虐殺とBDS運動(Boycott(ボイコット)」「Divestment(投資撤退)」「Sanction(経済制裁)」)、スペース、固定概念、労働、ケア、当事者に求められる説明責任、観者の応答/責任、役者身体、演劇空間、時間
たった80分の4人の会話劇にこれほど想起される事柄があるとなると、普段の発話にもうちょい注意を向けられるかもなとも反省。
■Twitterに書きそうな感想
リアルすぎて(役者演技、サークル時代の友人たちを思い出す言葉のやりとり、友情・友人への信頼と同時に失望?してしまう自己、野澤芳乃の発話にいちいち記憶と感情をぐちゃぐちゃにされ)混乱した。観劇後放心状態な感じだったし、泣きすぎて頭痛いし、駅までとぼとぼふらふらしながら歩いた。信頼できる書き手だったし、おこがましいけれどちゃんと眼差しましたと伝えたいと思ってしまう演劇だった。
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■演劇あるいは他者との距離
開場時間になり、前から3列目中央に座する。朝からじんわりと痛みをおぼえる腰に不安を抱きながら開演を待つ。
そろそろ時間かななタイミングでぬるっとはじまる。さあ!いまから演劇の時間だ!現実を忘れて浸っておくれ!パンッ!みたいなものはまったくない(そもそも演劇ってどうはじまるのが当たり前みたいなのがあるのかしらんけれど)。パッケージとしてはちゃんと舞台装置があり演者がいるので、まあ演劇なんだけれども、私の現実で目撃ないし体験した/するかもしれない時間くらいのぬるっとさ。
※「」は上演台本より
「音楽活動をしながら、実家のカラオケ点でアルバイト中」の杉田衛は「寂れたビルの地下にあるカラオケ店」の受付に立っている。「フリースクールの先生(上演台本より)」でノンバイナリーでトランス女性のパートナーがいる野澤芳乃がイライラ酔っぱで階段を降りてくる。(ノンバイナリーとかトランス女性ってなんだ?となるなら信頼あるソースにあたって調べてくれ。知ってくれ。)
野澤芳乃のイラつきの原因は見知らぬ男性にしつこく付きまとわれた上に身体を触られ、更にミスジェンダリングもされてと想定される。
野澤芳乃ははっきりと発話する。
「あ、そのお姉さんていうのやめてもらえます?」
「あたし女でーすって自己紹介しました?したか?なあ、なめんなよマジで、どっか行けよなあ、」
「ヤバいのお前だろ、あ?殺される覚悟ある時だけ触って来いよマジで、」
「見てんじゃねえぞおい、消えろマジで、クソバカが、」
最初のシーンがこれである。既視感のある自身や周囲の人々との時間・体験が一気に蘇る。僕自身はノンバイナリーの自認はないが男性の自認が100%かと言われるとそれは分からない。けれど、女性を自認している友人と居る時に出現したクソな男達、髪を伸ばしていた時にナンパしてきたやつらや男性トイレに入っていたら(女性ジェンダーを勝手に付与され)注意してきたやつら、クィアだと言ったら勝手に”ゲイ”である前提でコミュニケーションしてくるシス男性ゲイたち、あれやこれや。野澤芳乃のように発話・表現で中指を突き立てたことが何度かある。毅然と怒れる/怒らないといけない状況に置かれる人である。演劇への苦手意識・不安感が一瞬で払拭されると同時に、演者も観者も苦しむんだろうなと直感した。
ぴったりと重なる過去、属性、状態ではないが、確かにそこには作者との距離にある程度の近さを感じるのに充分な情報量であった。何かの社会的マイノリティであったり、不条理や不正義に晒される人々にはきっと身に覚えのあるだろう、社会・他者から日常的に向けられる無知や不理解による発話や視線の暴力。落胆・失望を隠すため笑み。目の前の他者に向けた他者と社会への怒り・中指。
冒頭で演劇への苦手意識と書いた。容易に数えられるほどしか観劇の経験がないが、隣の人と肩が触れる程の他者との距離、閉鎖的な空間といったスペース、生身の人間が眼前で演じることというフィクションとリアルの普段の作品鑑賞とは異なるぎゅるぎゅる感。そのぎゅるぎゅる感はなんでここで笑うんだという観者の笑い声や、簡単にマイノリティ性を切り捨てる作品やそれに触れずに称賛する観者への不信感みたいなことに起因する。
「そんなんだったら観なければいいじゃん」みたいなやつらはどっかいって〜。それでも僕は物語を希求する。今回みたいな作品に出会える可能性があるのならば、と思えたくらいに冒頭シーンでの作者への信頼みたいなのがでかかった。それは終盤に向けてどんどん大きく膨らんでいくんだけれども。似たようなことを観者の応答/責任として後述するかも。
■クィアあるいは性的マイノリティとして生きる者たちの生と隣人
劇中には野澤芳乃がノンバイナリーでトランス女性のパートナーがいる存在として表象される。園莉佳子と杉田衛は野澤芳乃の学生時代からの友人として。野澤芳乃と園莉佳子の学生時代のまーちゃんはトランスヘイトをするようになってしまったと会話中で言及される。園莉佳子はまーちゃんの言うことも分かる部分があると漏らしたり、社会的マイノリティの生の辛さを相対化するような発話をする。甲斐田雪緒は園莉佳子の”彼氏”かつ劇中には出てこないが語りのうえで登場する野澤芳乃のパートナーであるトランス女性・佐川敬之(のりちゃん)の近い将来の同僚?上司?として。
園莉佳子が言うように、そして園莉佳子・杉田衛・甲斐田雪緒それぞれが吐露したそれらとして、それぞれにそれぞれの生の苦悩があるだろう。友情、パートナーシップ、妊娠・出産、労働、将来、などなど。しかし社会的マイノリティが構造的に被る不条理・不正義は決して並列化・相対化されていいものだと思わない。てかそもそも並列化・相対化することにどんな意味があるのだろうか。問題を矮小化し、口を塞ぎ、社会に責任を求めずに。
社会への責任でもあるし、既に出会ったあるいはこれから出会う人に真摯に向き合うための準備でもあるしなので、知識にアクセスしようぜみんなである。参考文献も用意してくれているし、インターネットには支援団体が出しているガイドラインをはじめとした情報が溢れている。
とあるシーン
野澤芳乃「でも、でもね、ノリちゃんが、彼女たちが一番に欲しいと思っているのは、トイレやお風呂に自由に入る権利じゃないんです、もっとなんか、普通のことだよ。園たちが、当たり前すぎて、そもそもほしいとか思わないような、当たり前の、生活だよ。生きてるだけで死にたくなるのをやめたいんだ、生きてるのにお前はいないとか間違ってるとかってされるのがきついの、どこにいたって感じるんだよ、だから最低限、普通とされてる人たち、が持っている権利が欲しい、だけだよ。これってわがまま?皆しんどいのに、でかい声で騒ぎすぎかなうちらだけ、」
園莉佳子「そんなつもりじゃ」
野澤芳乃「それとも、あーそれとも、あたしたちを認めてくれてありがとう、とか、感謝しないといけないのかな?黙っていさせてもらえよって話?口に出すのも我慢した方がいいかな?だったら。」
園莉佳子「……そうじゃないよ……。」
野澤芳乃「あの、なんでノリちゃんや、私が、笑ってたのか、分かりますか?」
甲斐田雪緒「え…?」
野澤芳乃「そうしないと、仲間に入れてもらえないって分かってるからです。全部分かってて、話も聞いてもらえないっていうのも。手が、かかるもんね、あたしたちは。」
園莉佳子「野澤、」
野澤芳乃「……ごめん、飲みすぎたね、ヒステリーだよヒステリー、忘れて」
■希望あるいは失望そして絶望
どーでもいい人とか知らない誰かに対しての失望や絶望に慣れきってしまった社会的マイノリティは多いと思う。現に僕はそうである。そうである時に、信頼や大好きの感情を伴う人に失望や絶望をしてしまいそうになる時、世界は途端に暗くなり孤独という自我が大きくなる。信じ続けたいし、愛し続けたいのに、傷つけたりすり減ったりが当たり前の人間関係かもしれないけれどその想定される”人間関係”とは相対化できない別の怖さを知っているから。耐えられるかな?疲れ切っちゃったらどうしよう?みたいな。
だから僕はラストシーンは希望へのはじまりみたいな楽観的なことは言えない。どれだけ信じ切って、向かい合ってする体力・気力が必要か想像してしまうから。でもそれでも、大切なんだ、大好きなんだ。だから苦しいし難しい。
決して希望として結んではいけないと思うもうひとつのこと。最後の野澤芳乃とノリちゃんの電話のシーン。ケアを必要とする人に対し、適切に社会がケアの手段を提供すべきなのは大前提として、ふたりはケアを二者間に閉じずに社会に求め、アクセスできているだろうか。できていて欲しいと願うしかないけれど、もしも仮にそうでなかったとしたら、ケアってどうすれば/あればいいんだろうか。僕もちゃんと分かっていないし、プライベートかもしれないけれど、ラストに残されたイシューは確実にある。
■言葉にならない(説明責任、諦念)
当事者性を下敷きにして物語る(≒発話する)こと。
社会的マイノリティの当事者性を由来とする作品は程度の差こそあれ多分にオーディエンスと社会に向けた告発だと僕は思っている。当たり前に存在することへの無視、差別や暴力、無知を貫く怠慢、社会構造の不正義などへの告発。
告発であるとするならば、なぜ告発(=作品として社会に対し発話)しなければいけなかったのか、誰がそうさせてしまっているのかである。
発話しないと気付いてすらもらえないのか。発話に応答してくれたと思ったら次は説明を求められる。そして無知や無理解によって棄却されたりもする。非当事者は当事者の過去・語り・説明にフリーライドする。人生かかっちゃうくらいに費やしていることにフリーライドする。なんやねんでしかない。
あなた/たちに納得され、理解され、承認されるまで私/たちは発話し続けなければいけないのか?。そして当たり前に滑らかな語りも求められる。滑らかな語りの耳障りはいいかもしれないが、滑らかになるまで何度それを繰り返したか、相手によってチューニングしなくちゃいけないか。語れないことだって、言葉にならないことだってあるのに。疲れることも諦めることもしちゃいけないんですか?。生存に関わるから考え続けてながら生きているけれど、そりゃいくら自分のことだって、考えるの放棄したくなったりもするわけで。わたしはあなたのための教科書ではない。ましては何かの属性のいち個人であり代表でもない。それでも引き受けなくちゃいけなくなっているんだけれども。
■観者の応答/責任
ある観劇の経験がある。女性とレズビアンの生をメインの存在として描いた演劇を過去に観た。とても素晴らしい演劇だったし女性とレズビアンの生に対してはとても真摯だった。しかし明らかに精神疾患がある登場人物の描かれ方と最後まで救われないそれに僕はひどく違和感を感じた。Twitterなどで観測可能な範囲でその違和感に触れている観者はひとりしか見つからなかった。それ以外は大絶賛の声のみで。その違和感のみで作品を棄却することは全くないが、社会的マイノリティを描く作品の中で他の社会的マイノリティはこうも簡単に作者からも観者からも適切に眼指されないことに絶望した。どんなに信頼できる書き手であっても、それを看過した人の感想はちゃんと欺瞞だなと想いながら眺めたのを覚えている。
作品には様々な成約があってすべてを完璧に表現しきれるとももちろん思っていない。でもだからこし、観者にはそれに応答する責任があると思っている。なかったことにされないために。それは日常の中での他者への応答として考えれば『きみはともだち』で描かれたコミュニケーションと隣接している。
そして『きみはともだち』に対する観者としての応答/責任で言えば、自身の日常にどういった変化を試みるかであると僕は思う。無知による差別・暴力を観者達は確かに目撃した。それを自己に翻すことができたなら、能動的に知るという行為をすることは必然だと思う。しかも丁寧に参考文献の案内もしてくれている。
演劇の参考文献:https://drive.google.com/file/d/1-dxR4ho06-wt8xzPP2Hu8y5hah3EcrCU/view
演劇に閉じずにもっと!あるいは劇中のことはあれだけど日常のあの人のことなら……となれるなら信頼のおけるソースを必死こいて探して、知ろうと努めればいい。
『きみはともだち』が何をものがたったか、眼前でどれだけ演者が心身をすり減らしながらも演じきったか、現在の社会がどれだけグロテスクか、それらを感じられるなら「すごかった」「よかった」とかあの瞬間を現実から切り離した応答は実に怠慢だと思う。観者として応答し、日常で社会で実践を試みることが観者の責任であるのではないか。もちろん僕も応答し続けなければいけない。
■演者の身体とフィジカルな演劇
完全なる演劇の外野からだからめちゃくちゃなこと言ってるかもしれないし、それこそ「無知」ゆえのそうじゃねえになっているかもしれない。
僕は演劇の中で演じる身体ではないので、役者の身体を実感を持って想像することができない。それでも、特に野澤芳乃を演じた升味加耀さんの終演後の心身の披露は目に見えて大きなもののように感じた。「演技がすごかった!ありがとう!」とかで消費してはいけないと思う程に自己を費やしていたようだった。少なくとも観者である僕ですら観劇中は涙も精神的なものもガンガンで出ていくし、身体は披露に似た感覚の定まらなさをおぼえた。この感想を書いて、上演台本を読み直している今ですらそうである。
升味加耀さんにとって演じることはいくらかで現実だったと思うし、それこそ身体を伴う辛いシーンもあったし。もちろん役者としてリアルな演劇の意義ややりがい、想いとかが想像できない程にあると思うし、それこそやっていくための資金繰りとか体制とかもあるだろう。まじで失礼になってしまうかもしれないんだけど、観者の側だけを切り取った時に僕/たちはどこまで眼前のリアルとしての演劇を求めてしまうのだろうかということを思ってしまう。映像とは違うんだから公演数増やして!とか、生で観ないと意味がない!と思ってしまったら、それはちゃんとエゴかもしれないし不健康かもしれない的な。
例えば『饗宴/SYMPOSION』ではテーマ的に役者の精神の摩耗があっただろうし、ある演者は劇中で身体にタトゥーを刻んでいた。また、ダムタイプの『S/N』は演劇というジャンルに閉じずに僕にとって重要な作品である。上演は僕が生まれた頃の作品なので、記録映像としてでしか観たことがない。何度記録映像を観ても、ああフィジカルにあの空間にいれたらといままでに何度も思ってきた。主演の古橋悌二はすでに亡くなっているのでそもそもが叶わない欲求であるのだが、でもその生で観たいという欲求とそれが意味する演者への繰り返し演技することを要求することは欲望していいものなのかとなった。反省の意味として。
『きみはともだち』も『饗宴/SYMPOSION』も『S/N』もできることならもう一度観たいという欲望は確実にある。だがしかし、それは役者の心身を無視したものである。僕は自分のその欲求に暴力性をおぼえた。観者としては役者が健康性(ここでいう健康性は健常性とかではなく演じることによる心身の疲弊が役者の許容値を越えない限りにおいてというニュアンスで)を保てる状態での観者でありたいと思った。思っただけで役者がそんなこと全然思ってないとしたらそれに越したことはない、ただ僕が思ってしまっただけで住むんだけれども。何度も言うが、演劇をすることの資金や体制、演じたいといった演劇を取り巻くあれこれを全然把握できていないことを再度。
■現実の時間
演劇の時間軸は2024年12月である。
クィアへの差別・暴力は終わらず、特にトランスジェンダーへのヘイト(言説や実際の暴力として)が規制もされず、ちゃんと終わっている世界。
しかもガザでの虐殺も1年以上とめられていない。劇中での野澤芳乃による”ディズニー”、”スターバックス”への抵抗感を僕は虐殺へのBDS運動と読んだ。そうであるならば、劇中の時間と現実の時間の1ヶ月強、世界は虐殺を止められていない証拠である。2025年1月18日の観劇時点ではいまも続くものであった。もちろん停戦だけで虐殺が解決されるわけではなく、歴史や占領自体の見直しが必要であるが、せめて恒久的な停戦だけでも実現できていたかもしれない”現在”があったかもしれないと思わずにはいられない。
■『きみはともだち』
全然書ききれている感がしない。
「僕にとって大切にしていきたい作品でした、演者4人の演技はとても素晴らしかったし、この作品に関わったすべての人にありがとうございます。」とか言ってしまうと矮小化というかなんというかなので、「まとまりません!まとまらないまま向き合っていきます!」とかがもうちょい適切かもしれない。
少しでも観者として誠実であれているだろうか。どうやって誠実であり続けられるだろうか。
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■作品と直接関係ないが思い起こされる個人的雑記。別で書くべきことかもしれない。
僕は相対的に見ればマジョリティに近い方のクィアだと思う。けれども、日常でいろんなことに辟易している。婚姻制度自体への批判をしない同性婚を含む婚姻についての議論、単性愛(異性愛や同性愛)を前提としバイセクシュアルやパンセクシュアル・アロマンティック/アセクシュアル・ジェンダークィアなどの多様なクィアの在り方の不可視、健常性を前提としたクィア言説、友情を階層化させる性愛/家族規範、インターセクショナリティという視座の欠如とかとか。