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『HAPPYEND』監督:空音央(Neo Sora)

CINAMA Chupki TABATAで空音央監督作品『HAPPYEND』を観た。1月5日、1月10日の2回観た。まじでめちゃくちゃよかった。そんで感想というかメモ的な。多分ネタバレ含むんでよろぴこのすけ。

 

💫Introduction(公式サイトより)

ユウタとコウは幼馴染で大親友。いつもの仲間たちと音楽や悪ふざけに興じる日々を過ごしている。高校卒業間近のある晩、こっそり忍び込んだ学校で2人はとんでもないいたずらを仕掛ける。翌日いたずらを発見した。校長は激昂し、学校に四六時中生徒を監視する AI システムを導入する騒ぎにまで発展。この出来事をきっかけに、コウは、それまで蓄積していた、自身のアイデンティティと社会に対する違和感について深く考えるようになる。その一方で、今までと変わらず仲間と楽しいことだけをしていたいユウタ。2人の関係は次第にぎくしゃくしはじめ...。
決して遠くないXX年後の日本。多種多様な人々が当たり前に暮らすようになっている一方で、社会には無関心が蔓延し、むやみやたらに権力が振りかざされている。それはまさに今の世の中と地続きであり、あまりにもリアリティのある未来だ。そんな世界で当たり前だった“友達”という存在が揺らいでいくさまを、環境音やテクノなどが織り交った独特なサウンドと、圧倒的にエモーショナルな映像美で見事に表現。脈々と受け継がれる青春映画の系譜でありながらも、これまでに見たことのない切り口で“友情の危うさ”を描いた青春映画の新たなる金字塔が誕生した。

 

 

❤️‍🔥ネタバレ回避でめちゃ観てえぜな人へ

残りわずかじゃん!詳細は公式サイトへGO!
①CINEMA Chupki TABATA 〜1/17(金) ※日本語字幕付き上映
下高井戸シネマ     2/8(土)〜2/14(金)
③シネピピア       2/28(金)〜3/6(木)

 

🌲CINAMA Chupki TABATA(ステキ映画館!)

目の見えない人も、耳の聞こえない人も、どんな人も一緒に映画を楽しめるユニバーサルシアター。(公式サイトより)
定員20名の小さな箱だけど、音響バチくそ良くて、音楽も肝な本作を鑑賞するにはバッチしすぎだった。
ひとり不夜城な新卒労働者をしていた頃、終電に間に合った時に閉館した後の前をへとへとで通り過ぎていた。当時は映画から離れていたし割と常に疲れ気味だったので、近所に住んでいた2年間に一度も訪れることができなかった当館にやっと行けたのもいえいだった。

 

🪐マヴ

2024年12月28日、代々木公園。7月の頭にマヴの出演した舞台でやっほ〜してから半年弱ぶりの再開。マヴと言っても学校とかプロジェクトで一緒したわけでもなく、多分ちゃんと話すのも数回目くらい。それでも世界に溶け切らない、お互いだからこそ通じる部分みたいなところがあって、僕はマヴだと思っている。そんなマヴに絶対観て!って言われたのが、『HAPPYEND』を知るきっかけだった。

映画に限らず作品に触れたり、作品じゃないにしても日常の出来事をきっかけに誰かを思い出すこと、思い出される客体になれること。僕にはどれくらいできるだろうかとつい思ってしまう。観終えて強く思うのはマヴが『HAPPYEND』を僕に観て欲しいと思ってもらえたことって自分にとってめちゃくちゃ嬉しいことだったんだと。

 

 

〜〜やっとこさ本編について!!!〜〜〜
時系列とかなく、思い出した順。
てかただの自分語りかも!

 

 

💥陶酔しちゃうオープニングアクト:¥ØU$UK€ ¥UK1MAT$U

オープニングのどこか不穏さの漂う音楽からシーンが変わって、アンダーグラウンドな箱で¥ØU$UK€ ¥UK1MAT$UのDJプレイ。めちゃくちゃかっこよくて、Youtube¥ØU$UK€ ¥UK1MAT$Uをめっちゃ観てる。はやくイベントで生音聴きたい。
てか、映画全体を通して音がぐうよかった。サントラをずっと聴いている。

 

👁️圧倒的だった栗原颯人さん(ユウタ)の視線

ミンとアタちゃんの掃除のシーン:2人を見つめているはずのユウタの視線。並行な目線のはずなのにその視線は眼前のそれだけを見据えているわけではなさそうな圧倒的深度を感じる視線。首がぐっと前に出ているシルエットを横から映すあのシーン、なんて言えばいいのかよくわからんけれどすげえ身体で語ってくるじゃんって感じだった。

あとこれは個人に引き付けた読みだけれども、社会が想定するライフコースを歩んでいく(おそらく)異性愛者同士のカップル(になる手前かもしれない)に対する友情的不安というか落ち着かなさみたいなのは、恋愛的関係があんまりピンときていない自分としては余計に焼き付くシーンだった。(トムはアメリカへ、コウは大学(そしてラストシーンとその後をどう解釈するか)へなので余計に。)

 

🌬️4人の母たち(と父の不在?)

ユウタの母の頻繁に会えているわけでない寂しさを感じつつも、大人になりなさいではなくて、もう大人としてユウタに接する姿。僕は親になったこともなることもないだろうけれど、子を想うからこそちゃんと他者として子を手放す、不器用にも背中を押すあの姿、かっこよかった。

デモ参加をきっかけに岡田・フミ・コウが校長達と警察に対峙するシーン。フミの母と対象的に描かれるコウの母。謝りなれたあの身体。何があっても子を守るあの身体。本来負う必要のない社会の不正義・不条理を引き受けたあの身体。赤い字で書かれた消えない”非国民”の文字を消そうとするあの身体。「楽じゃない」と本音を子に漏らしてまでもどこまでも子を想うあの身体。(涙が指標になるわけではないと思っているけれど)感情の身体的反応としてそれらのシーンでいちばん涙が止まらなくなった。

あと2回目は母と一緒に観ていたのだけれども母がクスっと笑ったシーンがコウの母がコウに「反抗するならもうちょっとかわいいやり方ないの?タトゥーいれるとか」(セリフは記憶曖昧)と言ったシーンだった。母がこのシーンで笑えるんだと知れたのがなんだか嬉しかった。

4人目の母は前述した僕の母。1回目に映画を観た時にふと思い出した友人たちに連絡をした。まさか自分が母にも連絡をするとは思っていなかったが、どうしても一緒に観てみたいと思ってしまった。人生で初めて母を何かに誘った。17歳以降、正月ですら家に帰らない僕なので母と会うのは年に数時間。最近は会ってもシブリングスの子たちの話で持ち切りなのでお互いのことはよく知らずに生きている。だからなんであの時に母を誘えたのかあんまり定かではない。定かではないと言っておきながら多分あれだ、私は私のやり方で思想や在り方を持って、とりあえず生きてます、そしてそれらは少なからずあなたのそれらを眼差してきたからですってのを『HAPPYEND』を通して伝えたかったのかもしれない。そんなこと直接は言えなかったけれど、目をキラキラさせながら終演後にひとり拍手をしてしまう母を観て、一緒に観ることができてよかったなだった。政治性だけを切り取れば、小学生の頃から新聞に載っていることについて一緒に考えてくれたり、反戦憲法についてちゃんと自身のスタンスがあり、僕が大学生になって「帰省しないの?」という母からのメールに「大切なデモがあるから行けない」と返信すると「なんのデモ?あなたが大切と考えることについてのデモなのね、がんばってね、いってらっしゃい」と言うそんな母だった。

そういや父親的存在はミンの父親が会話の中に存在として語られる以外に不在だった。

 

🥁応答可能性

ユウタの言語あるいは思考。ユウタとコウ、初めてのオナニーも初めての海も一緒なくらいの幼馴染で大親友。それでも属性や状況によって社会で位置する(しなくてはいけなくなっている)場所が異なったりでどうしたってそれまでとは同じ歩幅・テンポ・方向では人生を歩めなくなっていく。コウ(それにトム、ミン、アタちゃんもそれぞれの在り方で)が歩みのそれらを徐々に変えていく時、ユウタはどういう感情だったのだろうか。ユウタの対話的発話は相対的にあまり多くなかったような感じがした。その一方でコウが向ける”なんで考えねえの?”的な向けられそうだなを感じてしまう面もあれば、心もとなさや不安を想起できてしまう面もある。必ずしも、行動や発話と思考が一致しているとは僕は考えていない。だからこそ、ユウタという存在を考えれば考えるほど、いちばん分からない(というか掴みきれない?)キャラクターだったのかもしれないとも思う。

警察権力にひるまなかったり(怯んだり、回避する必要が生活の中でなかったかもしれないしどういう理屈かは分からない)、職員室から堂々と鍵を持ち出したり、無鉄砲とか何も考えてないが故かもしれないし、ユウタが生存戦略として獲得せざるを負えなかったある種の強さだったかもしれない。ちゃんとわからねえよな他者である。

ユウタの弾くシンセサイザー、あれがユウタにとっての言語かもしれないし。

そんなユウタが最後の最後に、自分で考えて行動した卒業式前の告白。あの時点で精一杯のユウタからコウに対する応答。あの時のユウタはコウにどんな応答を想定していたのだろうか。自分のいたずらきっかけだからコウの応答は正しかったのか?、それともふたり一緒という以前の歩みのようなそれを期待していただろうか?

問いかけるのも、それに応答するのも、ちゃんとむじいな。分かっていたと思っていても、分かっていなかったが人間関係だもんなって感じだ。むじいけれど、むじいからこそ?分かってほしい、分かりたいって大事だな。

 

📣発話する身体

ここで言う発話は単に言葉を喋るとかだけではなくて、何かを書いたり、何かを表明したり、そういった社会とコミュニケーションをするくらいの感覚の発話。初期のアタちゃんの制服や監視カメラに向かって中指を立てること、ミンの言語へのコンプレックスと仲間内に見せる涙、トムの少し大人な視線と友人にそれを伝えられること。劇中では既に獲得されているそれぞれの発話する身体とは対照的?に、コウは劇中で親友への違和感やデモへの参加といった発話する身体を獲得していく。それぞれが違うやり方だけれども、獲得したくて獲得したものではなかったり、意志を伴った行動で獲得していくものもある。

僕は「ピアノを辞めたい」と言い出すのに数年かかったし、初めてのデモでは緊張か不安かで心細かった(いまではなんとも思っていない)し、資本主義の渦中で働き始めた頃におかしいと思うことをちゃんと伝えるとか、ちゃんと慣れが必要だった。人を選んだうえで何かを伝えたりもそうかもしれない。発話をするってちゃんと難しいし、なめらかに身体化するのは経験がものを言ったりもする。それこそ相手の応答が想定したものではなかった時とかは一気にハードモード再びだったりもする。

自分について発話した時に思っていた応答がない時、辛かったな。自分について発話できていないことがある時、そのことを掠めもしない相手の発話に、自分の発話は受け止めてもらえるのかとか、考えたこともないんだろうなとか思っちゃうと心もとなかったり、躊躇しちゃったり、対話する前から相手を計っちゃったりしてる自分がそもそも嫌じゃんってなっちゃったりするよな。

何が言いたかったんだっけになってしまった。発話する身体をやっていくのって気力とか経験とかがいるし、だからこそ応答可能な身体もちゃんとおんなじくらい気力と経験でやっていかなくちゃじゃんみたいな?そういう意味だとトムってすげえかもしれない。

ていうか自分ひとりですらそうだよな。僕にある属性とか状態、詳しいこともあればなんか放置しているものもある。自分ひとりの中ですら、発話・応答の準備が全然できてねえことがある。

 

友人が僕に対して発話してくれた時に、ちゃんと応答できる他者でありたい。ちゃんとが何かは微妙だけど、できる限りで。絶望とか怒りとか不安とか悲しさとか心もとなさとか不条理についてだってちゃんと。僕が向き合ってもらったように。

⛰️コウのこと

置かれている場所は違うが、めちゃわかりみだったりするので、もうちょい考えてから書きたい。

 

🧵クィアな視線、親密性、フレンド/シップ

2本の煙草に火をつけて片方を渡したり、1本の煙草を回し吸いしたり、僕からしたら恍惚なシーンだった。それはクィアな視線を向けてしまうのには充分な程に。そうなっている自分に気付いた時に、ああけれど僕はいわゆる恋愛関係よりも友情関係のほうがちゃんと実感が湧くし、異性愛や同性愛やそれらの性愛の在り方を問わず、友情と線引きされ階層化の雰囲気を感じるそれらへのなんとも言えない気持ちがある自分じゃんでちょっと混乱した。もちろんクィアな眼差しと親密なフレンドシップの眼差しは同居するんだけれども、なんていうか。それこそ別軸としてクィアな在り方や親密なフレンドシップの在り方、どっちにしろむずいなあで、なんていうか。

話は変わるが、前述した私と母の関係性について。まあ子と親ではあるんだけれども、そこにはある種のフレンドシップがあるのかもしれないとも思った。例えばお互いの政治性については”家族”の中でお互いしか知らない。家族だったら何でもみたいな感覚が僕には全くないし、こと政治については母の支持政党は父にも兄にも姉にも伝えてないらしい。なんか日本語の”友だち”の雰囲気とは違うけれど、フレンドシップは感じるなと発見できた。

 

🌀生活とかバランスとか30代の友情とか

高校3年生、18歳の人々を眼差しつつ、現実に意識を戻すと30歳の僕がいる。学生時代みたくクラスメイトだったり、サークルだったり、学生活動だったりとかで、友人が隣に居ることが当たり前じゃなくなってからそこそこ経つ。1年に数回会えればいいほうで、当時の友人とはそれこそ長い間連絡をとっていない人々がほとんどになってしまった。労働者になってから友人が出来ても、そもそも僕は友人関係を続けるっていうのがそもそもそんなうまくないのではないかとも思っている。それこそ恋人や家族とかがいる友人だったり、バチクソに労働している友人とかには人それぞれの生活のバランスがあるだろうなでそこへの介入?というかコミュニケーションに躊躇してしまうのは事実だなって。あとどうしたってコミュニティ的なのが苦手で1対1関係が基本になっているっていうのもでかいのかもしれない。30代で友情は可能か?って言うと大袈裟だけど、なんていうか寂しさみたいなのはちゃんとあるかもな〜でちょっとヒヤヒヤしちゃうかも。まあ頑張っていくしかないのだが!

マイフレンズ!だいすきだよ!

 

🧍ちゃんと地続きな近い未来

舞台は今からXX年後かもしれないけれども、そのディストピアは突然ではなくて、現在の僕らの社会とちゃんと地続きだった。強権的な政治、監視社会、ゼノフォビアレイシズム、外国籍市民の選挙権、警察や自衛隊といった権力による生活への介入、社会的マイノリティの口を塞ぐ中立を装った社会的マジョリティ。終わらせなくちゃいけないのにどんどん加速するそういう不条理。XX年後かもしれかったのが、X年後になっちゃうかもしれない。だからちゃんと今以上に社会の不条理に対して発話して、社会の現状に対し応答することやめちゃいけねえし、あきらめちゃいけねえだ。

 

🌉歩道橋:ユウタとコウ

「愛してるよ〜」からの「じゃあね」。
あのふたりが今後どうなっていくのかは分からないけれど、いつか長いあいだ会っていなかったなになっていたとしたら、『HAPPYEND』を観たどちらかがもう一人に連絡できたりしたらいいなと願ってしまう。

 

友人たちに「愛してるよ〜」って言い続けたいよね!

 

🖊️その他雑記(思い出し次第追記〜)

・中島歩がいい奴役でよかった。理想教師。(直近みた『ナミビア砂漠』がクソ精神科医だったので)
・車のオブジェ化からの卒業式のアタちゃんジャケット、いいぞである。
・初対面の人に冗談で「非国民」って言われた(話の文脈は食の好み)ことあったの思い出して、あの時ちゃんと怒れる瞬発力があったなら……
・トムが帰ってこれる場所が残っていてくれ……
・ミラーボールだって光がなけりゃ輝けない。光があれば眩しすぎるくらいなのに。
・「テロ」って言葉を簡単につかって、本来的な意味を削いでいくのやり方が汚えよ。
・対峙すべき人間を無視して飯を気にする首相と校長。
・5人で夜の街を駆けたり、音楽に酔いしれたり、マジチェリッシュ。

 

📖パンフレット

ReviewとCommentsに寄せられた永井玲衣さんのテキスト。映画への”応答”としてすげえ真摯だった。映画宣伝にも含まれる「青春映画」に対するコメントも、分かりやすい見出しで滑らかにされねえぞ!ちゃんと歪で不安定でむずいものはそれぞれをちゃんと眼差して応答するんだぞ!感がマジクール。

 

🔔ポスター

経費を除いた分はガザ支援に寄付されるとのことで購入。他の劇場でもちゃんと取り扱ってもらえていたのだろうかとちょっと不安になる。現代の社会と地続きだからこそだし、監督の意志がこういうところでも見えるのは僕的にはめちゃ応援したい。
あと、裏面に参考文献とか引用が乗っていて、思考の軌跡が少しでも見れるのが、観劇だけで終わらないよねを手引きしてくれていてありがたかった。

 

=====

 

それぞれのままならなさも社会と私たちのままならなさもいろいろままならないけれど、どうにかこうにかでもやっていきなので、よろしく僕だし、よろしくマイフレンズ!

あともし『HAPPYEND』をみた友人がいたらどうだったかあーだこーだできたら嬉しいよ★

 




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