
『シスター・キャリー』上下 セオドア・ドライサー 村井淳彦/訳
昨年末にドライサー著『アメリカの悲劇』を読んだら、どちゃくそにおもしろかった。それまでドライサーの存在すら知らなかったのに。ドライサーの他の作品を探してみたら、この岩波文庫の『シスター・キャリー』があるではないか。この小説が処女作で刊行されたのはちょうど1900年ぴったり。今から120年以上前の作品なのに、色あせていない物語だった。
アメリカの片田舎で育ったキャリーは、姉夫婦の元をたずねてシカゴまでやってくる。当時のシカゴは都会への変貌を遂げている最中で何もかもがキラキラ輝いていた。家庭持ちのドルーエという親切な男性と同棲生活をし、ドルーエの紹介で知り合ったこちらも妻子がいるハーストウッドと次なる道ならぬ生活をする。その後キャリーは舞台女優となり大成功をおさめる、一方でハーストウッドは陥落していくというストーリーである。
今であればどこにでもありそうな筋書きに思えるが、当時は若いのに結婚せずに不倫関係に陥り、しかも罪を償ったり破滅に進まないの道徳観念がないとされ、この作品は受け入れられなかった(しかも発禁に近い扱いを受ける)というのに驚いた。ドライサーは、女性の強さと社会の矛盾を訴えていたのだ。
それにしてもハーストウッドはなんでこんなに性急なのだろう。普段は落ち着いた紳士然としているのに、キャリーのこととなると周りが見えなくなる。これが若ければまぁわからなくもないけど、もう壮年なのに。キャリーのほうが断然大人に感じる。
キャリーの進む先にスポットライトが当たり、実家のこと、飛び出してきた後の姉夫婦のこと、捨てられたドルーエがその後どうなったのかというのがほとんど書かれていなくて、こういうところがちょっと古い作品に感じた。現代小説では、登場人物のその後というか、まぁまぁ重要な人の生き様はちらりとでも書かれていることがほとんどなのに。
ハーストウッドの苦悩と陥落が苦しい。だけど気になって仕方ない。この小説のタイトルは『シスター・キャリー』なのだけど、ハーストウッドもキャリーに劣らずおもしろい。やはり絶望の淵にいる人間のほうが訴えてくるものがあるし、読んでいて興味深く思えるのは不幸な人の話だ。のちの大作『アメリカの悲劇』を、主人公クライドという特定の人物の悲劇ではなく「アメリカの」としたのもそんな理由がひとつあるのかもしれない。
栄光と絶望という対照的なものを描くことで冷酷な現実をまざまざと見せつけられる。デビュー作でこの力作を書けたのはすごい。それにしても、岩波文庫の表紙に書かれているあらすじ、ちょっとこれは違うような…。「駆け落ち」はそうだろうけれど、ある意味ハーストウッドのだましが入っているのに、なんだかなぁ。そもそもハーストウッドの自殺とか、かなりのネタバレが表紙に書かれているのはいかがなものか。