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『光の犬』松家仁之|人が生きることの真摯な営みの物語

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『光の犬』松家仁之 ★

新潮社[新潮文庫] 2025.04.30読了

 

潮社の松家仁之さん作品3か月連続刊行のラスト月。3月(正式には2月末)発売はこの文庫本『光の犬』と単行本『天使を踏むを畏れるところ』である。なんだか勿体無いような気がしてどちらも積んでいたのだが、そろそろ読むことに。

 

語世界に入るのに少し時間がかかってしまった。美しく装飾された文章に目眩がしてしまい、何度も読まないと意味がわからなくなるからより一層時間がかかる。なおかつ、誰の視点でいつの時代のことなのかが一見わかりづらい。

 

かし徐々にこの添島家の3世代にも渡る家の事情を知り、北海道犬4匹の生きる様と人間らの日常に没入するようになる。始(はじめ)を主軸にすると姉の歩(あゆみ)、祖父母、両親、そして3人の伯母が作品を貫く。添島家の他にも印象的な人物が多く登場する。舞台は北海道枝留町。自然豊かな描写とともに時空を超えた場面の数々が美しい文章により生み出される。枝留(えだる)教会がひとつの象徴としてこの物語にあるように「信仰」が一つの筋として通っている。

 

京で暮らすようになった歩はこのような考えを持つようになる。

自分の気持ちですらよくわからないのだから、ひとの気持ちなど、わかるはずがない。ひとの気持ちについて考えるたびに、わからないでよかった、とさえ歩は思う。わかるなら、犬や猫のように、おたがいの匂いや鳴き声や仕草がたよりのほうがいい。(中略)相手がなにをどのように感じているかわからなくても、感覚や感触がもたらすものは、信じることができる。(365頁)

確かに自分の本心がわからないことがある。だから他人のことなんてなおさら。言葉が通じない動物なら感覚や感触で相手を信じることができる。もしかしたらそれは人を通しても言えるのではないか。

 

んでも1人でこなし、快活で生命力にあふれたシュテファン・ジムと一緒にいると「喜びを人に与えてまた与えられるということ」に感動し幸せを感じていた歩だったが、いつしか光量が多すぎて影がない世界だと感じるようになってしまった。幼馴染じみの一惟(いちい)と一緒にいたころの、教会の暗がりのようなものが恋しくなったという。この「教会の暗がりのようなもの」という表現が印象に残った。誰からも憧れられる万能の人が自分にとっての一番とは限らなくて、自分と波長が合う人、そういう無二の時間を過ごせる人の存在。それが一緒にいて安心できる相手なんじゃないか。うまく言えないけど、心を満たされる対象というのは人それぞれ違っていて、それを見付けられた人が幸せなのかもしれない。

 

いることへの不安や諦めのようなものは誰にでもあると思うが、この本の終盤ではそれが一斉に押し寄せる。高齢になれば何もかもがわからなくなるという恐怖がある。始は、自分がこうなった時に誰も面倒を診てくれる人がいないのではという不安と焦燥にかられる。誰しも思うこの気持ち。

 

を読み進めて半分くらいまでは「まぁ普通かな」という感じだったのに、徐々にこの世界から離れがたくなり愛おしくなっている自分に気付く。どうしてこんなにも心を抉られるのだろう。どうして自然と涙が流れてくるのだろう。滂沱の涙ではなくほんの一筋の涙。これはきっと、かすかだけどしかし確実にある密やかな感動からくるものなのだ。

 

とつの家族は文化であり歴史である。ここに出てくる一人一人の人生はありきたりなものだと思う。誰にでもどこにでもある人生の集合体。喜怒哀楽も死もすべて日常。そんな日常を描いた、人が生きるという営みの真摯な物語である。生きるって美しくてかけがえのないものなんだ。

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