もとの姿になり、カッティーとザックリーに受けいれられたチョッキリーヌだが、消滅してしまう。チョッキリーヌの正体は妖精ではなく、ダークイーネに生み出された存在にすぎなかった。
ダークイーネにより街の住民も拘束され、闇に覆われようとするなかで、それでもプリキュアたちはダークイーネをライブに呼んでキラキラをとどけようとするが……
井上亜樹子脚本で、ここまでいっさい由来や動機が説明されなかったダークイーネが、概念的な存在だったと語られる。
……正直、ここまで引っぱる必要があった?という感じがするし、その設定がシリーズ構成ではないローテ脚本家の担当回で説明されることも釈然としない。
特にダークイーネがキャラクターとして魅力があったわけでもないので、落差による驚きはない。かといって単純に出番そのものが少なかったので、キャラクターが薄いことが伏線と感じられるわけでもない。
思えば、もっと敵首領らしい出番のあったディスピアも、抽象的な存在だったという設定はあまり感心できなかった。落差を強調するため、仮面の下は人間ではなかったという案を思いついたほど*1。
『Go!プリンセスプリキュア』第49話 決戦ディスピア!グランプリンセス誕生! - 法華狼の日記
クローズとの決着は次回のために残しているとして、ディスピアの抽象性はプリキュアになれない人々もドラマに参加できる基礎になるとして、あとひと押しの意外性と納得感を用意してほしかった。
ダークイーネは抽象性をさらに進めて、いっそ人格を感じさせるキャラクターにしなければ良かったかもしれない。それを浴びれば他人の対立を望むようになって行動してしまう瘴気をダークイーネと呼ぶとか、他人の絆を断ちたいと思うようになる気持ちそのものをダークイーネと呼ぶとか。
そうした抽象的な存在を歌で浄化する展開は説得力を出しづらかったり、想定している年齢の視聴者に理解してもらえないかもしれないが、ならばそもそも正体を抽象的な概念にするべきではあるまいとも考えられる。
むしろ、あえて人間ではない抽象的な存在に歌を聞かせる描写をすれば、それはそれでアニメでしか描けないような、魅力的な祝祭にならないだろうか。アミノテツロー監督作品のように。
*1:案についてはこちらのコメント欄参照。 『Go!プリンセスプリキュア』第50話 はるかなる夢へ!Go!プリンセスプリキュア! - 法華狼の日記