なんどもなんども同じものを作る。
夜中に炊く揚げの香りや、まだ暗い早朝のキッチンに走る酢飯の香りに家族は飽き飽きしているかもしれない。

お稲荷さん
煮て、炊いて、握って、こればっかりって言われても、こればっかりで良いと思っている。
馬鹿の一つ覚えでいい。繰り返し何度も何度も作ることが好きなのだから仕方がないし、確実に美味しいものを人に食べさせたいと思うとこれになってしまう。いつも同じで申し訳ないという気持ちを捨て、馬鹿になり切る潔さを持って作る。
サトおばあちゃんのお味噌汁、文子おばあちゃんのお汁粉、母のおにぎり。私に美味しい物をたくさん作ってくれた人たちにもコレという一つがある。
私にもそんな一つができたらいいなと思いながらお稲荷さんを作る。毎回、もうちょっと冷ましてから握ればいい酢飯を、真っ赤な手でアツアツ言いながら握ってしまう。何年握っていてもこのちょっとが待てない。
同じ様に見て作った料理でも同じ味にならないのは、祖母や母にもこんなちょっとがあったからかもしれないと思いニヤっとしてしまう。
凡人の私には、楽しく作り続けられるという才能だけがある。楽しいは最強で、努力しているという感覚を全て消して楽しいという感覚に変えてしまう。その最強さを将棋の駒で例えるならば、裏返せば「楽し」四方八方へスキップしながら移動できる無敵の駒になるだろう。招くは楽勝。




家族の為に、仲間の為に、職場の方や先生方に、時には家族の友達の友達の為に。楽しみを込めて作ることに没頭する。




季節は巡り、お稲荷さんの姿は変わらないけれど、添えられた南天の葉の柔らかさと鮮やかさが四季の移り変わりをとどける。




たまに気取って経木で包んでみたりするけれど、



結局、コストコの枝豆の空き箱には敵わなくって、枝豆ばかり食べちゃうけれど、それはそれでなかなかいい。



落とし蓋はすっかり稲荷色になり、愛用するMUJIのエプロンも「そのエプロンを見ているとお稲荷さんが食べたくなる」と周りから連想されるまでになった。



日系スーパーで「お稲荷さんの方ですか?」と声をかけられた時には流石に驚いたけれど、レジの方に作り方を教えたことがあるから、彼女が作って振る舞ってくれたのだろうかと想像すると嬉しかった。そして、お砂糖のコーナーへ行き、
黒糖!
これが隠し味!と張り切って教えたりもした。他に特別なものは何もない。お出汁に味醂にお醤油。
わたしのお稲荷さんは周りが育ててくれたもの。美味しい美味しいと煽ててくれるから、ひょいひょいと調子に乗って、みんなの美味しいを馬鹿正直に受け取り続けてここまで来た。きっとこれからも、馬鹿の一つ覚えでいくと思う。
おまけ



お正月に日本へ帰国したとき時に作ったお稲荷さんは、やっぱりアツアツ言いながら酢飯を握ったけれど、横からうちわで手元をあおいでくれる母の姿があった。
母もちょっとが待てずにアツアツで握ってしまうのかもしれないと思った。