インタビューでもいくつか出てるみたいだけれども、これは『さらば、わが愛 / 覇王別姫』の本歌取りって感じだなあ。映画としては断然向こうの方が好きではあるけれども、この作品はこの作品で、きちんと日本が舞台であることの意味を追求していていいですね。
この作品において「女形」がなにを意味するのかは、めちゃくちゃポイントになるところだけれども、作品全体を通して見ると、「男性」は芸事を極めることを至上としていて、対して「女性」は血とか家族を大事にしている、みたいな傾向があるんじゃないかなーって思います(それぞれ例外の人物もいますけど)。で、そういう視点で見たとき「女形」っていうのは「女性」そのものではなくて、むしろ「男性の視点を通して理想化された女性」って捻れがある。その理想化された女性の行き着く先が『曽根先心中』で「男とともに心中する女性」であって、それはつまり「芸事に命をかける男性にコミットする女性」なんじゃないでしょうか。普通の「女性」なら、家族の命は続いていくわけで、その後の人生を見据えた選択をするわけだけれども、「男性」の理想である「女形」は芸術に身を捧げることで、自分の人間関係も正しい形で成就する、と思い込みたがるわけです。まさしくフィクションですね。
一方で、主人公は天涯孤独の身、そもそも大切にする家族が存在しないわけです。そんな所に「芸事」を市場とする師匠が現れてしまった。主人公が「女形」の役にのめり込んでいくのは、彼にとって芸事が「全てを捨てて打ち込むべきもの」であると同時に、それとは全く反対の、「家族のような人の繋がりを生み出すもの」という性質を持っているからでもあるわけです。本来相容れないはずのそれらの性質が、「女形」という特殊な役割によって、フィクションの中でのみ、奇跡的に結びついてしまっているわけですね。
ラストの演目が冒頭の演目と同じというところでも、彼が歌舞伎を通じて何を得たかったのかは示されているんじゃないかなーと思います。
で、クライマックス。
芸事に身を投じていた人間国宝にまで上り詰めた主人公は、しかしそれが家族の絆となっていたという、奇跡的な結末を迎えます。「女形」を演じることで、主人公は「男性」的な芸事を追求しつつも、「女性」的な家族の繋がりを得ることができるわけですね。
でも自分には、どうにもそれがうさんくさく感じてなりません。「女形」という役割は、歌舞伎の舞台というフィクションのなかでのみ成立する特殊な存在のはずですが、自分にはラストの時代がどうにも、大変フィクショナルに描かれているように思えてならないのです。「男性」的に芸事を追求したら、全てが丸く収まった……なんて、いかにも都合の良いフィクションの展開っぽくありません?
そうやって考えると、ラストの丸いスポットライト、アレはどうにも「日の丸」に見えてならないんですよね。在日三世の監督が、『さらば、わが愛 覇王別姫』を下敷きに、歌舞伎をテーマにした映画を撮ったとき、そこに日本の固有性を埋め込まないという方がむしろ変でしょう。
衰退する京劇や社会の激変や老いていく肉体などの要素をあえて入れず、衰退しない歌舞伎で社会はほとんど変化せず肉体は老いない(まあシナリオとしては老いてるんですけど)、そういう映画を撮ったのだから、この作品自体が実はかなりフィクションとしての性質が強い作品で、だとしたらそこで語られる結末は、「女形として心中する」ことが幸せと感じられるような、そういう価値観で描かれているのではないでしょうか。『プロジェクトX』とか『風立ちぬ』とか、そういう感じの……