
そのときぼくはどういうわけか!
煙草の灰のことを思いだしてたわけで
しかし人間には冬眠は許されず。
こんど生まれてくるときは、熊かシマリスがよいと思われ
『北の国から』という作品のトーンを形づくっているのが、「拝啓、恵子ちゃん」から始まる手紙を模した純(吉岡秀隆)によるナレーションであることは間違いないだろう。“今、ここにいない人”への呼びかけ。『北の国から』の台詞はどこを拾い上げてみても、声に出して真似してみたくなるような魅力がある。倉本脚本における、あのオリジナルな文体、音の響き、リズム、間。倉本聰には「就学前から父親に宮沢賢治の作品を音読させられていた」という有名なエピソードがあって、自身の脚本のリズムは宮沢賢治にあると語っていて、『北の国から』は“音”を聞いているだけで、楽しい作品だ。というように、「倉本聰とは言葉の人である」と思っていたわけだけど、連続ドラマ版の『北の国から』を改めて観直してみると、台詞というよりも、アクションや現象といった画面上の“運動”でドラマを繋いでいく作劇であることに気づかされる。とにかく蛍(中嶋朋子)が走る、走る。“活劇”といってしまうと大袈裟ではあるが、『北の国から』は実に映画的なテレビドラマであったと言っていいだろう。たとえば、廃屋の補修作業、台車で石を運ぶ、川に落とした手紙を追いかけ迷子になってしまう蛍、風の吹く中での火起こし、吹かした煙草の今にも落ちそうな灰、「ルールルル」という蛍のキツネへの呼びかけ、フラストレーションが爆発した純のキツネへの投石、人の家や学校の電話をこっそり借りて東京に住む母親に電話する純と蛍、沢からパイプで水をひいた水道、丘の上から眺める富良野の街の灯、大晦日の『紅白歌合戦』で流れる八代亜紀の「雨の慕情」の音色、猛吹雪での遭難者を助ける馬、パジャマについた母の香水の香り、車の助手席から子ども達を盗み見る母、母の乗った列車を追いかけて川沿いを懸命に走る蛍、ふきのとうが地面から顔を出し、大きくなる純のちんちん、父親が余所で付けてきたラベンダーの石鹸の匂い、沢に捨てられるお弁当、作ってもらったスパゲッティ・バジリコ、川に1本ずつ指でつまんでは流されるスパゲッティ・ボンゴレ、草太(岩城滉一)のボクシングの試合、使い込んでボロボロになった靴、台風で吹き飛ばされた家の屋根・・・パッと思いついたものを挙げていくだけでも、このドラマにはどれほど豊かな“運動”が画面上に満ちていたことか。倉本聰の紡ぐ圧倒的な言葉や感情が、キツネ、馬、鳥、川、風、雪、雲・・・壮大な富良野の風景や現象に回収され、“当たり前のこと”のように流れていく。この視聴感覚は放送から40年以上が経っても、今なお唯一無二だ。
倉本聰は子どもを単純な聖なる天使のようには扱っていない。純は文句ばかり垂れているし、蛍はどこまでも意固地。当然いじらしさは多分にありながらも、ずる賢く愚かで、小生意気な存在として描いている。であるからこそ、彼らなりの“切実さ”がリアルに迫ってきて、とびきりにキュートに映る。いや、子どもだけではない。『北の国から』の登場人物は、この国のテレビドラマ史において類を見ないほどに、誰もが等しく愚かしく、不完全な存在だ。父である黒板五郎(田中邦衛)は、不器用で口下手であるばかりか、自身のエゴで子ども達を母から引き離し、過酷な環境下に置いてしまう。と思えば人肌寂しさから急にスナックの女に入れ込む。母である令子(いしだあゆみ)は不倫の果てに家を飛び出し、親権については歯切れの悪い態度をとり続け、恋人の保身のために自らの病を進行させていく。叔母である雪子(竹下景子)もまた不倫から逃げるように富良野にやってきて、曖昧な態度から村に大きな混乱を巻き起こす。草太(岩城滉一)は雪子に惹かれてしまい、婚約者であるつらら(熊谷美由紀)を幾度も傷つけトルコ風呂送りにし、杵次(大友柳太朗)は孫にも迷惑をかけるほどに村で嫌われる偏屈さ、中畑のおじさん(地井武男)はスナックで作り話の悲劇を披露しては女性を口説き不倫、涼子先生(原田美枝子*1)は教え子を自殺させてしまったという傷を持ち・・・主要人物の何人が不倫しているというのか。
しかし、その愚かしさの中で、誰もがそれぞれの正しさをぶつけ合い、それが観る者の価値観を揺さぶる。たとえば9話では、母親の令子が子ども達に会いに東京から富良野までやって来るのだけど、五郎は「せっかく積み上げてきた、これまでの暮らしが崩れるから」と母と子の面会を拒否してしまう。そのことを聞きつけた草太が強く責め立てる。
おじさんすこし身勝手すぎるべさ。
奥さんに対してどんなうらみがあるか知らんが純や蛍には関係ねぇべさ。あいつの気持ち考えてやったのか。
なるほど、たしかに草太の言う通りだ。五郎の都合でしかない。しかし、そこに偶然立ち会っていた五郎の幼馴染であるみどりが草太にピシャリと言ってのける。
知ったようなこというンじゃないよッ
<中略>
人にはそれぞれ自分の──理屈にならない気持ちだってあるンだ!それを知らないでガタガタ他人が、心ン中まで踏み込むもんじゃないよッ
ガーンとくらってしまう。ここでは、倫理や道徳みたいなものを超えた“本当の”人間の話をしている。たしかに、草太が言うことは正しいが、もっともらしい理屈でしかない。人間の中に蠢いているのは理屈にならない感情で、それに囚われているからこそ人間は愚かで、だからこそ愛おしいのだ。「愚かでいいのだ」と私たちを慰めるような、どこか超越した者*2の気配を感じる。それは、劇中に何度も登場するUFO*3に乗った宇宙人かもしれないし、玲子が手紙に「美しい」と書いた“雲”、その向こうにいる神様のようなものだろう。前述の「拝啓、恵子ちゃん」という呼びかけだが、恵子ちゃんは連続ドラマ版の終盤で文字通り姿を消してしまう。純がその後、モノローグで呼びかけている相手は誰なのか。遠く離れた母か、はたまた神なのか。
天にまします我らの父よ。願わくば御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。御心の天になる如く地にもなさせ給え。
1話のラスト、はじめての麓郷で過ごす夜、外から聞こえる物音を熊であると勘違いし、寝床で純と蛍がお祈りを始める。これは礼拝で唱える「主の祈り」である。2人は東京に住んでいた時は、教会の日曜学校に通っていたらしい。また23話でも、清吉おじさん(大滝秀治*4)が神の名前を出すシーンがある。
それとね、これもいえるんですよ。天災に対してね――諦めちゃうですよ。何しろ自然がきびししいですからね。あきめらめることになれちゃっとるですよ。だから――たとえば水害にやられたとき、――今年やれましたよ北海道さんざん、――めちゃめちゃにやられてもうダメだっちゅうとき――テレビ局来てマイクさし出されたら、みんなヘラヘラ笑っとるですよ。だめだァって、ヘラヘラ笑っとるですよ。あきらめちゃうですよ神様のしたことには。そういう習慣がついちゃっとるですよ。
この清吉の台詞は、『北の国から』という作品のトーンを象徴している。神様はいる。しかし、神は我々に苦難ばかりを与える。そして、誰もがその苦しみに対して、“諦め”のような気持ちで受け入れている。この感覚は、前述した宮沢賢治のフィーリングが倉本聰に息づいているからだろう。『銀河鉄道の夜』の一節を引きたい。
たゞいちばんのさいわひに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです
なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんとうの幸福にちかづく一あしずつですから
大いなるものに身を任せるという感覚。わたしたちは神の前でどこまでも愚かで、人生もまたどこまでも苦しい。しかし、その愚かさを抱えながら、誰もが幸せになろうと大真面目に生きている。そういった足掻きは、確実に人生に“何か”を残す。そんなことを『北の国から』というドラマは、わたしたちに教えてくれる。