津軽からお米とリンゴが届いたが、今度は別の友人からお米や津軽漬けなどが届いた。その友人はいつも荷物の緩衝材にむこうの新聞を入れてくれる。もしかしたらかつて津軽で暮らした私が、懐かしかろうという配慮もあるのかも知れない。
今回目についたのは、10月10日(以前の「体育の日」だ)付けの東奥日報の一面トップの記事だ。『鍵握る県民の「一体感」』として、来年青森県で開催されることになっている「国民スポーツ大会」について書いている。
「国民スポーツ大会」というのは、以前「国民体育大会」と呼ばれていたものらしい。いつからこの名前になったのか、いまやすっかりスポーツ嫌いになった私は、スポーツ関係のニュースに興味がなく知らない。
開催1年前になった時、同紙がアンケート調査を行ったところ、「盛り上がってきた」「やや盛り上がってきた」と答えたのは15市町村で、22市町村は「盛り上がりを欠く」「やや欠く」と答えたそうで、野球やサッカーの世界大会でも、インターネットを利用すれば生で中継が見られる時代に、この大会を盛り上げていく難しさを書いている。
国民体育大会が始まったのは、1946年というから敗戦の翌年だ。健康増進や地域のスポーツ振興だけでなく、「国体道路」といったインフラ整備など戦後復興を後押しする側面もあったという。時代背景を考えれば非常に頷ける。
そもそもそうした時代にそうした効果を期待して始めたイベントが、すっかり背景が変わってしまった現代に、なお続いているということに無理があるように思う。オリンピックも万博もそうだし、甲子園も考え直す時をとっくに過ぎている。
「続けることに意義がある」という人が結構いる。確かに続けることが大切なこともたくさんあるけれど、続けることがあまりに無理を生み多大な犠牲を強制し、続けることの意義を大きく超えるようであれば、さっさとやめた方が良い。
今年は昭和100年。「昭和」が懐かしがられる風潮もあるようで、もちろん良いことは残して行けば良いけれど、これを機会に、やめたほうが良いものもたくさんあったように思う。そうしたことの議論もないまま、またしても政府は膨らむばかりの予算案を決定した。

奈良公園の鹿は60年以上たっても変わらない・・・いや、増えすぎているか。(写真の人物たちに許可は取っていないけれど、62年も経って、みな風貌も変わっていることだろうし、ご容赦願う)