出版社のサイトから著者の言葉:
医師になって二十年が過ぎました。
その間ずっと見つめてきた人の命の在り方を、私なりに改めて丁寧に描いたのが本作です。
医療が題材ですが「奇跡」は起きません。
腹黒い教授たちの権力闘争もないし、医者が「帰ってこい!」と絶叫しながら心臓マッサージをすることもない。
しかし、奇跡や陰謀や絶叫よりもはるかに大切なことを、書ける限り書き記しました。
今は、先の見えない苦しい時代です。
けれど苦しいからといって、怒声を上げ、拳を振り回せば道が開けるというものでもないでしょう。
少なくとも私の心に残る患者たちは、そして現場を支える心ある医師たちは、困難に対してそういう戦い方を選びませんでした。
彼らの選んだ方法はもっとシンプルなものです。
すなわち、勇気と誇りと優しさを持つこと、そして、どんな時にも希望を忘れないこと。
本書を通じて、そんな人々の姿が少しでも伝われば、これに勝る喜びはありません。
(夏川草介)
雄町哲郎は京都の街中にある小さな地域の病院に勤務する内科医だ。かつては大学病院で数々の難手術を成功させ、将来を嘱望された凄腕医師だったが、若くして病で亡くなった妹が残した甥龍之介を育てるために大学病院を辞めた。
哲郎は病院で、あるいは訪問診療で患者の最期をみとることも多く、スピノザの「人間はとても無力な生き物で、大きなこの世界の流れは最初から決まっていて、人間の意志では何も変えられない」という思想を支持している。こんな希望のない宿命論みたいなものを提示していながら、スピノザの面白いところは、人間の努力というものを肯定した点にあると彼は言う。
達観のかげに限りない優しさを秘めたこの哲郎の日々が、しっかり者の甥っ子、同じ病院の医師たちやかつての大学病院の仲間たち、そして個性豊かな患者たちとともに、京都のたたずまいの中で、厳しく温かく静かな感動を秘めて綴られていく。
「世の中には死ぬまでに絶対食べておくべきうまいものが三つある。矢来餅と阿闍梨餅と長五郎餅だ」と言ってはばからない大の甘いもの好きの哲郎。登場する京銘菓も魅力的だ。
「医療がどれほど進歩しても、人間が強くなるわけじゃない。技術には、人の哀しみを克服する力はない。勇気や安心を、薬局で処方できるようになるわけでもない。そんなものを夢見ている間に、手元にあったはずの幸せはあっというまに世界に呑まれて消えていってしまう。私たちにできることは、もっと別のことなんだ。うまくは言えないけれど、きっとそれは・・・・・暗闇で凍える隣人に、外套をかけてあげることなんだよ」
後輩の医師にこんなふうに言う哲郎。こういう医師にかかりつけ医になってもらいたいし、最期を看取ってもらいたいものだと思う。
映画化が決まっているそうだが、雄町哲郎医師は誰が演じることになるだろう。
