帰省した長男と話していたら、何のことからだったか「〇〇が売ってる」という言い方の話になって、長男はこれは私の言うような助詞の使い方の間違いではなくて、「売る」という動詞の変化の問題なのだと言う。本来他動詞の「売る」が擬似自動詞に変化した現象が「イチゴが売ってる」なのだそうで、「擬似自動詞」で検索すればたくさん関連サイトが見つかるよとのこと。
擬似自動詞なる言葉を初めて聞いた。調べてみると確かにそうしたサイトは結構あり、みな似たようなことを述べている。けれどもそうした論の中に出てくる「・・・という言い方は抵抗がないが、・・・だと抵抗を感じるという人が増える」などという記述の、その抵抗がないほうの言い方も、私には十分すぎるほど抵抗を感じてしまうので、どうもなかなか納得がいかない。
長男曰く、昔の文豪も間違った言葉遣いをしているし、時には意識的に違う使い方をし、それが面白がられて(今風に言うなら「受けて」か)広がり、今は普通の使い方になっている言葉も少なくないと。それは私も知っているけれど・・・。
まあ言葉は生き物で変化していくものだし、今生きている人々の多くが受け入れるのならそれが「普通」になっていくのも仕方のないことなのだろう。なぜか私は引っかかってしまい嫌な気分になってしまったりするのだけれど、味覚の鋭い人なら食べ物の分野で同じようなことを味わっているのかもしれない。ただ、食べ物はそうしたものを食べないという選択ができるが、言葉は嫌でも目に耳に入ってきてしまうのがつらいところだ。
今朝もネット上で目についたある記事の見出し。「ロケ地でビニールハウス、小屋が解体」、これなども小屋「を」解体と書いて欲しいところだ。こういうのを日々見慣れ過ぎているため、「本が売っている」などにも抵抗がなくなり、擬似自動詞なんぞというものが発生することになったのではないだろうか。
なんにしてもあと20年前後、慣れるように気にせぬように、努力して生きるしかないらしい。

擬似鬼だニャッ。 (キテミヨさんのサイトより)