1月17日。ヒカリさんを連れてジュンク堂に行った。「学校で読む用の本を一冊こうたるわ」と言い、入口で二手にわかれる。これは近年編み出したテクニックなのだが「好きな本を一冊こうたるわ」と言ってヒカリさんを本屋に放つと100パーセント漫画コーナーに行く。当然ながら、漫画がいけないわけではない。ヒカリさんが持っている本の98パーセントは漫画である。日常読む本の99パーセントは漫画である。とはいえ、漫画はすでに家の中で飽和状態でもある。あと、これが本当の事情なのだが、財布的な理由で……。すべて私が金持ちじゃないのが悪いのだが、漫画というやつは一冊あたりのコストパフォーマンス(て言葉の使い方あってんのかな?)が低いと思う。
いまどきとても多い「SNSで100万バズリ」みたいな帯が付いている薄めのやつだと一冊1560円とかして子は30分もかからずに読み切ってしまう。映画でも2時間くらいもつやろ。私が大谷翔平だったら……漫画ごときではダメージをくらわない銀行残高といくらでも漫画を置ける広い家があれば、などと思わないでもないが、私は大谷翔平じゃなくて酒場で300円のポテトサラダを注文するのに躊躇するレベルの人間だから、もう少しねばれる感じの本の方が財布的にも……となって、そうなると、字の本というやつはきわめてコストパフォーマンスが高い(ていう言葉の使い方で合ってんのかな?)。なんぼ文庫本が高くなったとはいえ、そういや私はいま村上龍の『愛と幻想のファシズム』を読んでいてこれが講談社文庫で税抜き880円だから税込みで970円くらいかな、これを昨年末からずっと「めっちゃ90年代やん、労働組合とか元気やし。いま読むときびしいところもあるよなあ」と感じながら苦戦して読んでいる。もう三週間くらい上巻で悪戦苦闘している。これで970円である。やっぱり字の本くらい最強にカネのかからない娯楽はないだろう。
という思いがあり、ヒカリさんを本屋に連れていくにしても最初は「好きな本こうたるわ」と気軽に言っていたのだが私が大谷翔平ではない以上(略)、毎回選ばれる本が「SNSで100万バズリ」みたいな1560円とかして30分もかからずに読み切られてしまう本だと考えるところも多く、財布的なダメージがあって、ある時「いいアイデアだ!」と革命的に浮かんだのは、ヒカリさんを放つ時に「好きな本こうたるわ」ではなくて「学校(の休み時間とか)で読む本!好きなやつ!こうたるわ!」と声をかけることであった。これはすごい。だって、「好きな本こうたるわ。でも漫画はあかんで」とか言ったらこちらにはそのつもりがなくともこちらが発した言葉には漫画に対する否定の意味が含まれてしまい本意ではない。「学校で読む本こうたるわ」と言えば、漫画じゃなくて(コストパフォーマンスの高い……)字の本を選択せざるをえない、実際ヒカリさんはこう言うと「学校用ね」と言って字の棚に行く。この声かけを考えたやつ天才やろ、ボクです、100万バズの声かけでしょうよ、ハア。
あと、この言葉にするメリットは他にもあって「好きな本こうたるわ」だと子供は漫画コーナーに行くから、本屋のごく一部のエリアしか行かなくなるけれど、「学校で読む用の本、好きなやつこうたるぞ」とか言えば、子供にとっての本屋の地図が一気に広がる感じになる。限られた漫画コーナーではなく本屋全体を、子は探検するようになるのであった。当然そうなると大人週刊誌とかエロとか暴力、そういうのも見るかもしれないが、それもまた人生である。
1月17日。ヒカリさんを連れてジュンク堂に行った。「学校で読む用の本を一冊こうたるわ」と言い、入口で二手にわかれる。私はいま四冊同時に本を読んでいて(村上龍『愛と幻想のファシズム(上巻)』角幡唯介『極夜行』小川哲『地図と拳(上巻)』司馬遼太郎『坂の上の雲(6)』)これ以上買ったら馬鹿になるから棚をぶらぶら歩くだけでぼんやりしていた。途中でトイレに行った。急に超話とぶけどさ、イヌリン粉末って突然トイレに行きたくなる気がする。あれ適度な摂取って人によりけりだから他人にすすめるのはむずかしいわな。しょせんはただの食物繊維、悪くはないだろうけど良いかどうかはわからない。ともかくトイレから戻り、しばらくたって探すと、ヒカリさんは健康コーナーにいた。ただそういう時も「なにを選んでんのかな」みたいにのぞくのはヤボであるから、なにを立ち読みしてんのかな、と気になりながらもチェックすることはしない。ただあとに用事を控えていたので時間が若干タイト、というのがあって私はヒカリさんに「ぼちぼち行くで」みたいな合図をした。そしてヒカリさんが読んでいた本を「なに読んでたんかな」と気になりつつもチェックはしないようにがんばって(横目でちらっと見たい誘惑にあらがい)ヒカリさんのうしろを何も見ずに通りすぎようとした、そのとき「ねえねえ」とヒカリさんが私のひじをつついた。
「こういうのって本当に効くの?」
と声をかけられて私ははじめてヒカリさんが見ていた本を見たのであった。
なるほど。
ヒカリさんは最近近視だったかなんだったかが進んで眼鏡姿になったのだが、本人的には眼鏡を気に入っているようで、眼鏡姿にしてもまったく気にしていないようにこちらからは見えたものの、内心ではどこか、気になる部分もあったのかもしれない。
ヒカリさんが見ていたものは、「これを見るだけで視力が回復!」みたいな帯が付けられた、絵を30秒見たら自然に視力アップみたいな本であった。
とつぜん「こういうのって本当に効くの?」と聞かれたものの、私は実際のところそういうのはよくわからなかったので「たぶん、何かのおまじないみたいなものだと思う」というような曖昧な答えをした。私はその場で瞬時に「なんか、だまされてる的なやつだったらショックだし、かといって本当に目に良いものかもしれず、とりあえず本の名前だけ覚えておいてあとでAmazonで検索してユーザーレビューとかを見て本当に良いものだったら買えばええか」というような考えをもった。
ただ実際のところ、私がその場で感心してしまったのは、本の効き目とか真贋とかそういうものではない。私はヒカリさんに対して「この人は令和の時代において、まだ、何か気になることやわからないことがあった時に本屋のそれらしいコーナーで書籍から情報を得ようとする」みたいな感覚が残っていたのか、ということにおおいに関心をもった。
そう、昔は誰もに当たり前にあった、あの感覚である。
いまではネット検索やAIによってほぼ絶滅したあの感覚。
それがヒカリさんにまだ残っていたことに感心した。
とはいえヒカリさんのそれも、いつか早晩スマホやPCなどのテクノロジーによってなくなっていくのだろう。そしてそれは悪いことではない。
帰り道、私は2001年だったか、東京で1人ぐらしを始めた時のことを思い出していた。
当時、本屋に行って最初に東京都の地図を買ったのだった。
紙の本で地図を買い、自分が暮らすことになった町を眺めて、図書館なんかを探す。隣の区を眺める。全体図を眺める。都電荒川線の路線が伸びる区の地図を眺める。荒川をすぎて、三ノ輪ってこんなとこかいな、もう浅草か、というような感覚を私は紙の地図によって得たのだが、今だったらそんなめんどくさいことはせず、スマホでGoogleマップを見て終了である。だから以前から自分は知らない町に暮らしはじめた時に本屋で町の地図を買った最後の世代なのかもしれないな、と思っていたのだが、とにかくこの20年くらいのテクノロジーの進化はえぐくて紙の地図だけじゃなく「こういうのの最後の世代なのかな」みたいなのがたくさんある。そのうちのひとつ、わからないことがあった時に本屋に行ってそれらしいコーナーに行き紙の本を調べる、みたいな感覚がヒカリさんに残っていたことに感慨をもった。30年くらい前、大阪梅田の紀伊國屋の精神世界のコーナーで立ち読みしていたら隣で立ち読みしていた青年(私も当時は青年である)から声をかけられいっしょに行ったのが当時高槻にあったオウムの道場であった、みたいなこともついでに思い出したりした。