就職先の決まらない敬太郎は屈託しながら町を歩くのだが「占いでもやってみるか」という気になって「細長い堅木の厚板に、身の上判断と割書をした下に、文銭占いと白い字で彫って、その又下に、漆で塗った真赤な唐辛子が描いてある」(『彼岸過迄』新潮文庫p90)店に入る。そこのおばあさんに占ってもらって、代金の代わりに(?)唐辛子を買う。帰宅して翌日「彼は朝晩の膳に向って、烟の出る味噌汁椀の蓋を取ったとき、忽ち昨日の唐辛子を思い出して、袂から例の袋を取り出した。それを十二分に汁の上に振り掛けて、ひりひりするのを我慢しながら食事を済ました」(p98)これを読んで、明治の人も味噌汁に唐辛子をかけるのか、そうやんな、そうやんな、と思った。松屋で朝定食をたのんだ時、朝定食じゃなくてもいいのだが、じゃあ牛めしをたのんだ時、まず牛めしに唐辛子をかけその流れで味噌汁にもかけるやろ、朝定食だとまず唐辛子を牛皿にかけ、お新香にかけ、味噌汁に……となったところで「いや、味噌汁にまでかけてしまっては小鉢全部に唐辛子をかけることになってしまうではないか、やっぱ味変(?)も兼ねて味噌汁に唐辛子はやめとこ、いや、やっぱ唐辛子がないとな、と思って結局味噌汁にもかけるやつ、あれな。でもなんか、エルンスト・ルビッチの、時々思い出すんだけどタイトルが出てこない、登場人物の女の子がパンを牛乳だか甘い紅茶だかにつけて食べるのが大好きで、いつもそうしてるんだけど好きな男の前ではそれが(はしたないと思って)出来ずにもじもじする、みたいな場面、それに近い場面があった気がするのだが、前回この映画のことを思い出したのは、そうだった、子供に「パンって牛乳につけたらおいしいんやで」みたいなことを言おうとした時、映画のことを思い出して、今はその映画の話じゃないんだけど日本人にとっての味噌汁に唐辛子っていうのは、西洋人におけるカップのミルクにパンをつけて食べる、みたいな「テレ」というか恥じらいというか「はしたない」みたいなものが、どこかそこはかとなく、どこかにあるのではないかという、そんな気がしなくもない。愛知の明治村、漱石の家があるんやな、行ってみたい。万博なあ。混んでそうやし、明治村でええかあ。