その夜、ぼくらはバッドランズを横断した。ぼくはプリマスの後部シートのうしろにある棚に寝そべって星を眺めた。窓ガラスにさわると、凍りつくように冷たかった。*1
初めて「写真をやろう」と思ったのは四年前、二十八歳の時で、だからなんつうのかあらゆる意味で、ものすごく遅いと思う。その頃ぼくは東京のはしっこで深夜から早朝にかけて、荷物の積み下ろし仕事をやっていた。Aさんはぼくより十歳年上の、三十八歳だった。職場にいる人間はたいていそうなのだけど、Aさんもまた、肉体労働現場特有の、ガラの悪いオッサンにしか見えず、はじめの頃は「おはよう」とか「しんどいね」くらいの会話しかしなかったんだけど、ある時Aさんの携帯メールアドレスをきく機会があって、●●●@ドコモ、jpとかそういう部分の●●●、の文字列をみて、ぼくにはすぐにそれが、サム・シェパードの「モーテル・クロニクルズ」に描かれた、主人公が幼い頃母親と旅をする、アメリカの土地の名前であることがわかった。
前にもちょろっと書いたのだけど、ぼくはずっと音楽に未練があった。その未練をすっぱりと断ち切りたくて、流れ流れて北海道のとある漁師町までたどりつき、しばらくトラック運転手をやっていたんだけれど、東京で暮らし始めたときには、なんやかんやで部屋にはギターがあった。夢に向かってひた走っている人間というのは年齢に関係なくまぶしいけれど、いつまでもむかし見た夢をひきずっている人間というのは、とてもいたいたしい。ぼくもAさんも、そのことは(我が事として)よくわかっていた。だからメールアドレスを見たときも「Aさん、サム・シェパード読んでるんだ…」「え…知ってるの?」とかそういう会話は妄想のうちだけにとどめて、ぼくはそのことについては何も触れなかった。ぼくの携帯アドレスはその頃、ボブ・ディランの大好きな曲からとっていた。
ある時Aさんが、上司に怪我をおわせたことがあった。それはぼくらの同僚が深夜、荷物の下敷きになり意識不明の重体になってしまった、そんな事故があった時だ。それほど大きな会社でもなかったので(←全然理由になってないけれど)、すぐに従業員全体に緘口令が敷かれた。作業が開始される前の朝礼で上司から「今回の事故に関しては絶対に他言しないこと」「会社に無断で●●君の見舞いに行かないこと」等、一方的に言い渡されたのだが、Aさんの手が出るのは誰よりも早かった。上司がまだ話し終わらないさきからヘルメットを投げつけ、気が付けば彼に馬乗りになっていた。ぼくは、こりゃやばいことだ、とAさんを制止しに行ったつもりが、いつのまにやらAさんに加担していて、職場はお祭り騒ぎとなり、普段ほとんど口をひらかない中国人のC君までもが清掃用モップを振り回し、なにやら奇声を発していた。それは三十に近いおっさんと四十に近いおっさんが二人同時に職を失った瞬間で、とても気持ちのいい朝だった。
ぼくは言った、そんなに思い詰めるなよ
ただのくだらない映画じゃないか
すると彼女は言った、人生ほどくだらなくはないわ
Aさんとぼくは、その頃から、とても親しくなっていった。Aさんは学生時代にみたゴダールの映画が、いかに自分に衝撃を与えたのか、という話をしてくれた。ぼくは友部正人の「はじめぼくはひとりだった」を聴いて、はじめて自分で、つたない詩を書いた時の話をした。あるときAさんがぼくの部屋に遊びにきて、きみにこれを読んでほしいな、と言って渡してくれたのは、セバスチャン・サルガドという人とダイアン・アーバスという人の写真集だった。Aさんはぼくに、もし今なにもする事がないんだったら、俺がカメラの仕組みを一から教えるから、写真をやってみないか?と言ってくれた。ぼくはAさんに、自分はあくまでも音楽がやりたいんだ、と言った。Aさんはそれをきいて苦笑いし、金子君は俺に似ているね、と言った。
悪い意味でね、と付け加えながら、俺に似ているね、とくり返すAさんは、だからこそ、俺個人の意見なんだけれど、と、いつになく慎重に、言葉を選びながら、「きみが大切にしているそのこだわりは、もう今じゃ、ただの空洞なんだと思うけど」と言った。カラッポなんだよ、カラッポ。中身なんて、もうとっくになくなってるのに、もうとっくになくなっている事を自分でもわかっているのに、いつまでも後生大事に抱えて、それだけを頼りにして生きている。俺もそうだし、金子くんもそういう人間で、わかりやすく言やあ、俺ら、失敗したんだよ。そういって笑いながら、Aさんは、自分がいかに若い頃からプロの写真家になりたかったか、という話をした。ぼくらは二人ともずいぶん酔っ払っていた。
次の週の日曜日、ぼくはAさんに連れられて、JR中野駅近くにあるフジヤカメラという中古カメラ屋さんに行った。Aさんは「おまえはここで待っていろ」と、ぼくをカメラ屋さんの横にある喫茶店に入れて、自分一人、店内に入っていった。しばらくすると紙袋を持ったAさんがニコニコしながらぼくの前に座り、金子くん、最初だからね、全部自分で考えて、一から撮れるカメラがいいと俺は思ったんだ、f値もシャッタースピードもピントも、ぜんぶ自分で決めるんだよ、と言って、紙袋の中からニコンのニューFM2という重たいカメラとレンズを一本、ぼくに手渡した。今日はきみの記念すべき日なんだ。はじまりの日なんだよ。Aさんはそう言い、バッグから「これはおれがずっと使っていたやつなんだけど」と、コンタックスG2というカメラをぼくに見せた。俺の持っているものは全部、きみにあげるから。
おれはいろんな才能の持主だが
そのどれ一つも伸ばす暇がないんだと彼がぼくに言う時に
どうしてぼくは思うのだろう
「この男はイカレポンチだ」と
ぼくとAさんは、驚くほどに、よく似ていた。その、似ている所をひとことで言うなら、何事かをいつまでたってもあきらめきれずに引きずっている、という部分で、ようするに、ぼくらはいつまでも往生際が悪かった。そしてそのような認識や自省を経てもなお、自分の今いる場所から一歩も動き出せずにいるという感覚、もう、自分はどこへも行けないのだというあきらめ、散々宙吊りになったあげく、結局最後はかつて宝箱だったカラ箱を後生大事に抱えて生きている、という、そんな部分までそっくりだった。いま思うとAさんはぼくに自分の持つ物すべてを預けることで人生をスッキリさせたかったのだろうし、ぼく自身もそれを受け入れることによって、これまでの自分とは違う道を歩きたいと思った。Aさんはイカレポンチで、Aさんをイカレポンチだと言うぼくも立派なイカレポンチなのだ。
二十代が終わって三十二歳になったいまも、ぼくはとくに飽きることもなく毎日の生活を写真に撮っているんだけど(フィルムカメラは使わずに今はぜんぶデジタルで撮ってます)、たとえばギターを初めて持った頃とカメラを持っている今とで明確に違うのは、別に自分が何らかの道具を持ったからといって、巧拙関わりなく何らかの表現を為したからといって、それはおそらく本人や他人の心象には何の変化ももたらすものではない、という感覚で、ようするに(あくまでもぼくにとっての)写真というのは、日々の生活において何か特別な位置に置かれるような立派なものではない。写真というのは結局のところ写真そのものでしかない。写真で人は殺せないし写真で人を生かすこともできない。ぼくはそういった地点から写真を撮り始めてきた。
こういう大層な文章は、古くから写真を撮り続けている人や、写真表現というものに対して(比喩ではなく)命を捧げているような人からしてみたら「なにを小生意気な」という感じを持たれるかもしれない、とは思うのだけれど、一度ツタナイまでもまとまったかたちで、自分にとって写真とは、みたいなものを書いておきたいと思っていたので、結局のところいつもと同じように何かを語ろうとすればするほど文章は核心から遠ざかる、ような、歯がゆい思いを抱きつつも、エイヤッと更新してみます。これからもぼくは楽しい写真を撮っていきたいです。そんで見てくれる人が少しでも楽しい気分になってくれたらすごくうれしいと思います。結局いいたいことはこの一言だけでした。強引にまとめてしまいましたが、長々とお付き合いいただきありがとうございます。
からっぽの頭で
俺に出発させてくれ
一度だけでいい
*1:以下、引用はすべてサム・シェパード「モーテル・クロニクルズ」から