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アンタ誰?

誰が言ったのか忘れたけど、小学校の教室ていうのは未来のヤクザも未来の殺人犯も未来のサラリーマンも未来のホームレスも未来の花屋も未来のなんやらかんやら、も全部いっしょくたに一つの鍋につめこまれた、(よくも悪くも)奇跡的な場所だ、みたいな言葉がわりと印象に残っていて、まあ、確かにその通りだなーなんて思ったりするのだけれど、その後、自分たちは自分たちなりの世界が出来ていくので、それぞれの職種や趣味嗜好、あるいは家族、とかが出来て、まあ、漁師とプログラマーはあまり接点がなくなるだろうし、ヤクザと高校教師がすれ違ったりする事も、おそらくは、あまりない。って、こういう話は案外、あちらこちらで書かれていますね。


こういう事を考え出すとやたら話が長くなる自分は、たぶん何十年かしたら(もしかしたら今でも)飲み屋で一人カウンターに座り誰にも聞かれていない話をブツブツつぶやいては時折ププっと一人笑いし、周囲の客からは、あのひとあほちゃうか?なんて思われてしまうようなおっさんになってしまうのかもしれない、いや、そうなる可能性が大だな、なんて最近危惧しているので、やっぱり、あの人急に何言い出すの?もしかしてかわいそうな人?なんて、ここを読んで下さっている皆さんに思われてしまうのもシャクなので、シャクって書くと思い出すのはシャクシャイン、アイヌの首長ですね、ぼくが北海道に行った時、なんて風に話を脱線させたい欲望に抗いながら、言いたい事の結論だけを簡単に書くと、今朝、残り汁で雑炊を作ったのですが、写真を撮ったらゲロにしか見えませんでした。って話、じゃなくて。うんこ。

どう言ったらわかってもらえるでしょうか、説明が伝わるかあんまり自信ないんですけど、年寄りの作家が書くようなエッセイ文体が好きなんです。原稿用紙の時代、修正せずにエッセイを書き散らしていたような人が書く、ゆるい文章が好き。一文が短く終わらず、長いの。教科書的じゃないやつ。しばしば、どこを修飾してる言葉かが、わかりにくかったりするやつ。開高健がうんこがまんしながら書いたような文体ですよ。
気の抜けた文章がすき - そこに意味をお与えにならなかったので

最近読んで、おもしろかった文章。開高健がうんこがまんしながら書いたような文体って、どんな文体なんだろうな、なんて、想像するのが楽しかった。そういえば開高健、ぼくはあんまりおもしろいと思ったことがないのだけど、今までに二度、まったく違う場所で、まったく違う人から、これ、開高さんの言葉なんだけど、アンタにぴったりだからおぼえときな、と言われて、開高健のあるセリフをプレゼント、された事がある。そのセリフ、なんだったっけな。もう、忘れちゃったわ。で、その開高さんなんだけど、何年も前に古本屋で買って、ずっと読んでなかった本「人とこの世界」てのはこのまえ読んですごく面白かった。中公文庫なんだけど、もしかしたら絶版になってるかもしれない。絶版といえば、そこから思い出すのは、昨日の事。酒を飲んで酔っ払ってスーパーに行くのは危険だなって思った。二階に上がってわりと泥酔した状態で生活用品のコーナーを見ていたら、ふと、マーブルコーティングされたフライパンが欲しくなった。3000円もするんです。開高さんの本、たしか100円で買ったっけ。

開高 それから葛西(善蔵)さんが東京を食いつめて弘前に都落ちしようと、上野から汽車に乗るときのことを、広津(和郎)さんに、松江の宿で聞かされたのですが、広津さんと舟木(重雄)さんが、これ以上子供を作ってはいけないよというと、葛西が「そうはいうても、子供は生れるでのう」というので、そういうことをいっちゃいけないと……。

広津 それで停車場から、時間があるので、葛西がコンドームを買ったのではないか。

開高 いや、広津さんと舟木さんがコンドームを……。

広津 舟木だ。

開高 それで汽車に乗っていくのですね。ベルが鳴って、ポンと窓からコンドームの箱を放りこんで……。

広津 いや、少し君の想像が加わっているのではないかな(笑)。

開高 違います。僕の記憶では、そういうお話でした。

広津 そうだったかな。それは舟木ですよ。舟木がやった。

開高 そうでしょうか。今度からこれを使うのだよ、というようなことをいうと、葛西善蔵は、シートの上にあぐらをかいてすわったまま、弘前の方を向いて、「諸君、サラバじゃ」といって、フッと消えてしまったというのですが、僕が聞いたところでは。

広津 少し話がうますぎるようだな(笑)。しかし、どうも人の証言などというのは……。

開高 アテにはならないですか(笑)

(『人とこの世界』所収「行動する怠惰 - 広津和郎」)

いいなあこの、大の大人同士の記憶のせめぎあい。初めに、葛西善蔵と広津和郎、舟木重雄の三人が、駅のプラットホームに立ち、そこで起こった何らかの出来事がある。その出来事は広津和郎の中で記憶として熟成され、何年何十年の後、開高健という強引かつ明晰な観察者の前で語られることになる。「出来事」→「記憶」→「語り」。その語られた他人の記憶は、同時に開高健の記憶となり、それから後、開高健の記憶した広津和郎と葛西善蔵と舟木重雄三人の物語が、当人(と言っても本当の意味での当人ではなく、元当人とでも言った方がいい)である広津和郎に、もう一度語り直される。語り、語られ、語られ語り、こうなってくるともう、何が誰の記憶なのか、何が誰の出来事で、記憶するものは誰なのか、思い出や、記憶ってのはいったい誰のものなんだろう、という事を考えてしまうんだけど、その話題の中心に鎮座ましますのは、ただ一箱のコンドーム。汽車の窓から放り込まれたコンドームは、葛西善蔵のヨレヨレになった背広のポケットにしまわれる。そのポケットに焦点を合わせ、中身をのぞいてみる。出来事を記憶するのはいったい誰なんだろう。

つまり、文字というのはもともと足りない部分のある道具だからどうしても影ができるし、しかしそれは足りずに成り立てるということでもあって、だからこそ、具体的な出来事というよりも記憶と考え中のことがごっちゃになったようなことを独り言みたいに書きはじめてくのはとても楽しい。うまくやれば、いくらでも時間軸から垂直にのびていけるような気がする。透明のレイヤーにどんどん色をのせていくような感覚で、視界をかすめた何かを、思い出すように、目を凝らすように、輪郭をとって、それまでの記憶をこれからの風景につなげられればいい。

出来上がったものが、自分の思い描いたとおりに見えるかどうかはわからないし、それはすでに私の見たものとはかけ離れている。でも、もしかしたら誰かの記憶の中に、あるのかもしれない。
四次元ポケット - イチニクス遊覧日記

誰かの書いた文章や言葉を読んで、これは私が感じたいつかのあれだと、根拠もなしに確信してしまうその勢いに反して、「あれ」がなんなのかはさっぱり、言葉にならない、その感じがおもしろい
言葉、記憶とそれ以外 - イチニクス遊覧日記

開高健、広津和郎の両者の記憶のせめぎあいについてぼやーっと考え、そのぼやーっとした頭のまま、これらの文章を読んでいると、なおさら頭がぼやーっとなってくる。ぼくの記憶はいったい誰のものなのか。今朝食った雑炊はいったい誰のものか。今、キーボードを叩いているのはぼくであり、あなたでもあり、他の誰でもなく、クラス全員、ヤクザや工員、プログラマー、サラリーマン、ニート、花屋、医者、書店員、そんな、あの頃のクラス全員、それぞれの過去の記憶と現在の記憶がウェブで交錯する。誰が書いたの?これは誰のブログ?山之口貘が言うところの「僕らが僕々言っているその僕とは僕なのか僕がその僕なのか僕が僕だって僕が僕なら僕だって僕なのか僕である僕とは僕であるより外には仕方のない僕なのか」


で、アンタ誰?


結局ぼくは鈴木です。超訳したから読んでね。

http://d.hatena.ne.jp/monde-system/20071101/p2

追記

質問1:ぼくは今回こんなにダラダラと、結局何を書きたかったのか。誰か教えてください。

質問2:昼間っから酒を飲んで日記を更新するおっさんは将来どうなりますか?




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