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「非読社会」で読書するということ 稲田豊史『本を読めなくなった人たち』を読んだ

 

『映画を早送りで観る人たち』の著者の新刊。紙の本で読んだ。

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現代の若い人の大半は本どころかテキストを読まない。本から情報を得るのは効率が悪いので動画などその他の手段を用いる。本を読まないからといって彼らが知的でないわけではない。学力が高い学生であっても長文が読めないケースは多々ある。知識を得る手段が本から別のメディアへと変化しつつあるのだ。

 

今の若い人はニュースを積極的には見ない。SNSなどで見出しを知ってもリンク先のポータルサイトやソース元の新聞社のサイトへはいかない。これはアルゴリズムによってユーザーのおすすめがプラットフォームから自動で表示されるのに最適化した結果でもある。津田大介氏曰く、「この10年の大きな変化は、人々が検索をしなくなったこと」「フィルターバブルがより進んで、基本的にサービス側が出してくるレコメンドをそのまま見るようになってしまった」。検索をしなくなったというのは最近の自分もそう。検索せずAIに投げる。これはAIの質が向上したのとGoogle検索が劣化したのが原因。

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 16歳以上の日本人の6割以上は、1ヶ月に1冊も活字の本を読まない。その傾向はもはや60年は続いており、時代ごとに読まない理由はさまざまに語られてきたが、昨今では、そもそも読み手側の長文読解能力が劇的に落ちている、という説が一定の説得力をもつ。

もともと長文を積極的に読む人自体が多くなかった。が、昔は情報を得るのに本しかなかったから仕方なく読んでいた。そうしなくてよくなったのだから多数の人が長文を回避するようになるのは自然なこと。著者は現代の日本を、「文章を読むことが合理的でないとされる「非読社会」」であると見ている。本を読む人が自明の前提にしている「長い文章を読み通し、理解できる」能力は「決してすべての人間に備わった当たり前の能力ではない」。長文を読めるのは特殊な能力なのだ。

 

読書が知性と相関があるとは言い切れない。学力が高い賢い学生であっても長文が読めない。本を読んでいる学生が読んでいない学生より言語化能力が高いとか、質問の意図をうまく汲めるわけではない。大学関係者や塾関係者も学力と読書時間に相関関係はないのを認めている。ただし本を読む学力の高い「読書エリート」の学生が、そうでない学生より情報摂取に積極的で質の選定にも慎重な傾向はある。

 

驚いたのが漫画の扱い。今時の子供にとってはコマ割りの漫画を読むのさえ「非常に頭を使う、能動性の高い知的活動の部類に入る」という。

「できる子は物語性のある漫画を読み、戦略を必要とするゲームに没頭する。できない子はずっとショート動画を見ている」は、小中学生を教える教員や塾講師の間で一定程度流布した言説だ。

俺が子供だった頃は漫画読んだりゲームやってたら馬鹿になると「良識ある大人」たちから見下されたものだが。時代は変わる。

 

動画一辺倒だと話し言葉中心の語彙しか形成されない問題がある。「雰囲気」を「ふいんき」、「延々と」を「永遠と」と思い込む。「永遠と」はSNSやYouTubeのコメント欄で頻繁に目にする。本書には出てこないが「こんにちは」を「こんにちわ」も俺はめちゃくちゃ違和感あって気持ち悪い。こういう間違いを指摘すると「意味が通じるからいいじゃないか」「マウント取るな」と反論されるという。反知性主義もここまでくるとマジでヤバい(語彙力)。

 

今後活字メディアは、好んで本を読む客層のみの市場に縮小していく。音楽を配信ではなくレコードで聴くのと同じような好事家の趣味になる。コスト面の問題から価格が上がることは避けられない。

 いずれ紙の本を読むという行為は、特権性と階級意識を孕んだ、選ばれし者たちの古き良き嗜みとなる。これからの紙の本は、そういう人のために書かれる。そういう人のお眼鏡にかなう本しか買われないし、読まれないし、売れない。

 

俺みたいなアラフィフおっさんは動画より本の方が楽で好み。映画やアニメも含め、動画は一定の速度で進んでいくからペースを合わせなきゃいけない。早くてついていけなかったり、逆にもどかしてくてイライラしたりする。それに対して本はペースをこっちの都合で早くも遅くもできる。引っかかる箇所ではゆっくり読んだり読み返して咀嚼したり、逆に不要と感じる箇所はざっと目を通して飛ばしたり、時間の主導権を握れるところが本のよさだと思っている。

 

読書の醍醐味に連想がある。とくに小説を読んでいるとある一文に触発されて過去の記憶がありありと蘇ることがある。プルーストが紅茶に浸したマドレーヌの味から過去を想起したのと同じ現象が起こる。不意の連想は楽しい驚きだ。たとえば矢部嵩『魔女の子供はやってこない』を読んで自分の小学生時代を思い出す。国道沿いの生活圏、放課後の雰囲気、下校途中で怖い目に遭ったこと、考えなしにやった悪戯──そうしたものが突然蘇って出現し俺を殴ってくる。春日武彦先生もエッセイ『自滅帳』でこんなふうに述べている。

 わたしにとって常に関心があるのは、「連想」という心の働きである。いや、連想するときのイメージの飛躍距離に興味がある。距離が短すぎれば、それは当たり前・月並みということになる。距離が遠すぎれば、もはや意味がわからない。そこそこに遠い距離だと、ときに意外性や詩情、発見や驚きが生ずる。

 

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あと、これは読書に限らない話だけど、まとめや切り抜きでは、そのシーンのよさは味わえない。それまでの蓄積があってこその感動というものがある。『ベルセルク』の蝕のシーンは黄金時代編を読んでいてこそ衝撃を受ける。SNSに貼られる名台詞は前後の文脈があってこそ真意が伝わる。時間の問題もある。「見出された時」における時間の経過に覚える感動は、そこに至るまでの長大な物語に時間を費やして付き合ってきた読者だけが得られる恩恵だ。

最終巻を読んでいるとき、ここに至るまでの時間が、(小説内の)現在に収斂していくのに興奮と感動を覚えた。最終巻は素晴らしかった。その素晴らしさを感じるためには、それまでの12巻を読んでいる必要があったのだ。

一年かけて『失われた時を求めて』を読んだ - 生存記録

 

サン=テグジュペリの王子さまは、自分のバラとその他の5000本のバラが違うのは、自分が世話をして長い時間を一緒に過ごしたからだと気がつく。「かんじんなことは,目に見えないんだよ」。効率優先で近道や省略していると見落としてしまうものがある。

 

…なんてのは高度情報社会では贅沢な戯言に過ぎないかもしれない。それだけ余裕がないからこそのコスパ、タイパなんだ、と言われれば黙るしかない。今や「書店は美術館レベルでレアな存在」、そこで自分が読みたい本を吟味して、購入し、読み耽る、なんてのは時間的・経済的余裕ある人間の特権的行為だとされてしまう時代なのだ。

 

今、ボヴァリー夫人の新訳を読んでいる。

エマ嬢は戸口に立っていたが、日傘をとってきてそれを開いた。玉虫色の絹の日傘に陽光がさし込んで、顔の白い肌がゆらめく反映で染まっていた。温かい陽気に、傘の下で娘はほほえみを浮かべている。日傘の、ぴんと張ったきらめく絹地の上に、ぽつりぽつりと雫の落ちる音が聞こえていた。

こんな文章を脳内でイメージ変換してはうっとりする、なんてのは心の余裕がなければできるもんじゃない。と言ったって、俺だって時間や金や心にさほど余裕がある生活を送れているわけじゃないのだが。限られた時間を捻出して、他のことをその分やらずに、本を読んでるってだけ。なぜ読むのか? そりゃあ楽しいからでしょう。それ以外に理由なんてない。いい文章を読むことはいい音楽を聴くのと同じでものすごい喜びを与えてくれる。

 

少し前、気が滅入って何もする気が起きず、Xのおすすめをひたすら見ていた時期があった。普段目にしないアカウントによるポストの数々は新鮮で刺激的だったけど、しばらくするとうんざりしてきた。一見有用に思える情報や気の利いた言葉やユーモラスな一口話も、こっちの求めとは無縁に見せられ続けるうちに気持ちが荒んできた。ずっとCMを見せられている気分とでも言ったらいいか。延々とCMだけが続いて肝心の本編はない世界。それが嫌になり、自分で選んでメディアに接したいな、と思いXを見るのをやめてまた本を読み始めた。優れた文芸の言葉に触れるにつれ、荒んだ気持ちが少しずつ落ち着いていった。

 

 

 

 

 

 




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